第276話
足音……こんな夜更けに人が訪ねてくるとは思えない。
俺達が泊まっている部屋は孤児院の中の空き部屋で、普段は使われていない場所にある。
ある程度綺麗にしてあって埃などが溜まっていたりはしないが、明らかにこの部屋の近くの廊下に物は少なくて普段使っていないことが分かる。
だとしたら……明らかに俺達に用がある……いや、違うな。俺たちの存在を知っている奴なんて限られている、だとしたら物盗りか強盗か……。俺との行為によって着崩れたシャルの服を軽く整えてから、ゆっくりとシャルの上から退く。
「少しここにいろ」
「どうかしたんですか?」
「……何者かが近くにいる」
軽くコートを羽織りながら空間把握を広げて人の影を掴み、その方に目を向けながら扉を開ける。
視界に入ったのはメレクと同年代の男女。俺の動きに少し驚いたように目を開く。
「……何者だ」
「へ? あっ、いや、物盗りでは……!?」
「…….物盗り?」
こんな孤児院に物騒な……取り押さえた方がいいか。
手にロープを握って少しにじり寄ると男が後退り、暗い夜のせいで蹴つまずいて尻餅を付く。
……何か物盗りにしてはマヌケだな。夜に慣れていないように見える。
「……怪しい者ではないです。我が子を迎えに来ただけで……! 急いできたせいで夜中だったけど、朝まで我慢出来ずに……申し訳ないとは思っていますが……」
「………子供を迎えに?」
どこかで聞いたような話だ。
尻餅を付いた男と隣で男を心配そうにしている女性。
女性は年齢の割に背が低く小柄で、男はそれほど小さくもないがひょろひょろと細長い。
暗い中だと分かりにくいがふたりとも色白で、顔立ちは優しげだ。
毒のない雰囲気というべきか、攻撃性の感じられない草食性の小動物のようなビクビクとした態度と、その割に真夜中に訪ねてくるという変な度胸。
一つも確信できるだけの情報はないのに……何故か確信に至る。
「シャルの……ご両親、ですか?」
俺の言葉にふたりは顔を見合わせてから、目を見開いて俺の元に寄ってくる。
「あの子は、シャルは……元気なんですか!? もう、もう何年も会っていなくて……!」
「い、今どこに……!」
必死な様子を見ればどれほどシャルのことを大切にしていたのかがよく分かり……会わせたくない、と思ってしまった。
愛情というものがあるのだろう。だから、シャルのことを得体の知れない男に託すなんてことはしたくないだろう。
ドクドクと嫌に早く心臓が鳴る。嘘を吐いて誤魔化したいという感情が湧く。
シャルの敵になってもいいから彼女を独り占めにしたいという思いが噴き出して……。
「シャル……さん……は、今そこの部屋にいます。ついさっき目が覚めていたので、今も起きています。……入ってください」
それでも、それでも俺は……シャルの夫だ。
すぐ近くの扉を開けると、シャルが不安そうな顔をしていたが俺を見てすぐに笑みを浮かべる。
「あっ、ランドロスさんっ! 大丈夫でしたか? 変な人では……」
俺がふたりを部屋に招き入れると、シャルの口が止まり、パチリパチリと大きな目を瞬かせる。
空間魔法で光を出す魔道具を取り出して机の上に置く。
「……シャル?」
女性の声が響く。三人とも急に明るくなった部屋に反応することすらなくお互いを確かめるように見つめ合う。
窓の外に見える月星に雲がかかっているが、この部屋は酷く明るい。
シャルの口の端に俺とのキスの跡の唾液が見えて、それをスッと拭ってから邪魔にならないように部屋の隅の椅子に腰掛けた。
「……お母さん? お父さん?」
期待と不安の入り混じった、震えた声。
シャルの視線が両親を見つめて、シャルの両親の瞳がシャルを見つめる。
邪魔をしてはいけない。水を差すべきではない。
冷静ぶって目を閉じて、必死にその光景を見ないようにして奥歯を噛み締める。
「シャルっ! ずっと、ずっと、ずっと、心配だったっ! よかった、よかった──!」
シャルの母親がシャルを強く抱きしめて、その上から父親が抱き寄せる。誰のものか、鼻をすすって泣くような声が部屋の中に響く。
戦争で離れ離れになってしまった家族が、やっと再会出来たという美しい瞬間。
……見たくない。聞きたくない。無理矢理にでも引っ剥がして、連れ去りたい。
我慢するために背の後ろに隠して握り締めた拳がギシギシと軋む音を鳴らす。
「っ……無事、だったんですね。僕、ずっと、ずっと……もういないんだって、思っていて……!」
それからのシャルの言葉は、言葉として成り立っていなかった。
いつもはわたわたとしながらもなんとか絞り出していた言葉も、今だけは人が聞いても意味がわからない言葉の羅列でしかない。
けれども、寂しかったことや不安だったこと、悲しかったこと、心配していたこと、会いたかったこと、生きていて嬉しいこと、再会を喜ぶこと、そういう隠しきれないシャルの気持ちは、痛いほどに伝わってくる。
喜べ、喜べよ。俺。
シャルの目が俺以外に向いていることを不満に思うな。シャルの体に俺以外が触れていることを怒るな。シャルの感情が俺以外に向けられていることを嫉妬するな。
笑え。お前はシャルの幸せを第一に思う、彼女の夫だろう。
目を瞬かせ、三人の目が俺に向いていない間に、拳を解いて噛み締めていた奥歯を離す。
下手な演技で口元を緩ませて微笑む。
それから、思ってもいないことを口にする。
「……良かった」
我ながら白々しい演技だ。本音を言えば、シャルに俺以外の大切な人なんていない方がいいに決まっている。
三人とも俺のことなど目に入っていないだろう。声も聞こえていないだろう。だからこそ、虚勢を張れ。
「良かった。本当に」
シャルのすすり泣く声が、大きく泣く声に変わり、疲れてすすり泣く声に戻って、やっと落ち着いて話せるようになった頃には、とっくに夜は開けていた。
ポツリポツリと、雨が降り出していて空が暗いためにいつ日の出が起きたのか分からないが、いつのまにか朝か、それとも昼になっていた。
泣き疲れて、喜び疲れたシャルはいつのまにか眠っていた。俺のことを気にしていなかった両親は俺の方を見て少し驚いた顔を見せる。
「あ、す、すみません。急に来て、ずっとこちらで話をして……」
「……いえ、お気になさらず」
寝るために色付きのガラス片を目から外していて、侵入者だと思っていたせいで特につけることもしていなかった。
しかも戦争に行ったことがある二人。……タイミングの悪さのせいでバレてしまっているのは間違いがないだろう。
「貴方は……孤児院の方ですか?」
「いえ、ここにはたまたま来ていただけで、普段は迷宮国と呼ばれている場所に……」
半魔族だからすぐに敵対という風ではないは助かったが、怪訝そうな視線はある。
おそらくは人種もあるだろうが……こんな他の子供が寝泊まりしている部屋と違う場所に、幼い自分の娘と一つのベッドしかない部屋で寝ていたら不信感を抱くだろう。
「失礼ですが、貴方は……娘とはどういう」
警戒心の見える仕草。
隠したいという気持ちもあるが、シャルが目を覚ませばすぐにバレるだろう。
乾いた喉を誤魔化すように唾液を飲んで、手の中にシャルからもらった手作りの髪留めを握る。
「……夫です」
「……おっと?」
女性が不思議そうに首を傾げる。
まさか幼い娘がこんな男と結婚しているとは到底思えなかったから、簡単な単語も頭に入らなかったのだろう。
緊張しながらもう一度言う。
「……シャルさんと、結婚させていただいています。ランドロスです」
シャルの両親はキョトンとした表情を浮かべて俺を見た。
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