第四十七話 厄災の娘(10)

 行けども行けども廊下が続いている。どうも同じところを走らされている気がした。

「どうなってんの、これ」

 シハルもハルミもヴァルダもあの子供の姿もどこにも見えない。逃げようとしても逃げられない。そういえば、一方通行とかいってなかったか。シハルはなんでオキを放って行ってしまったんだろう。

「レイヒ、これはダメだ」

 レイヒの後ろからついてくるオキが声をあげた。

「ダメって、なんで?」

 レイヒが振り返ると、まるで合わせ鏡のように前も後ろも同じ光景が広がっていて絶望感が半端ない。

「走れば走るほど体力が削られるだけ」

 シハルは機会さえあれば逃げられると言っていた。さて、一方通行の場所から逃げる機会とはなんだろうか。

「山が舌なめずりをして見てるぞ」

 オキが眉間にぐっとしわを寄せた。オキがあの犬のオキだといわれるとそういう表情も犬らしく見えてくる。レイヒが他の犬をなでたりすると、よくそうやって眉間にしわを寄せてやきもちを焼いた。思わずレイヒは背伸びをしてオキの頭をなでる。

「なんだよ」

 オキが困惑したようにさらに眉根を寄せた。そのとき、座敷の方でシハルの声がした。

「レイヒさん、こっちです」

 見ると薄暗い座敷の奥でシハルが手招きをしている。

 レイヒは「何で交渉ほっぽって行っちゃうの」と声をあげ、駆け寄ろうとした。しかしオキがその腕をぐっとつかむ。

「あれは雛だ」

 偽物ということ?

「俺のそばにいれば雛は手出しできない」

 それを聞いていたかのようにシハルはその姿を醜悪な鳥の化け物に変えて座敷を走り去っていった。さっき見たものとはちょっと違う個体のようだ。あんなのがあちこちにいるのだろうか。オキがいれば食われることはなさそうだが、食われないからといって、こここら出られるわけではない。

「やっぱり二人で逃げるのは無理だな。ハルミさんを探そう」

 オキは困ったようにレイヒを見つめる。もしもレイヒがちゃんとばあちゃんから呪術というものを教わっていたら、ずっとオキと一緒にいる方法を思いついたりしたのだろうか。

「心配するな。本物と雛との違いは俺がわかる」

 オキは心臓の辺りをトントンと叩いて頷く。そんなことを心配しているわけではない。いや、それも心配だけど、オキがもう一度死んでしまうのかと思うとなんともいえないものが込み上げる。

「でもさ、シハルたちは何をやってるんだろうね。心臓があれば何とかなるみたいなこといってたのにさ」

「たぶん集まってきた雛を狩ってる。交渉事は一対一じゃないと難しい。リーダーの雛がいるはずなんだ。他の雛がぴいぴい言い出したらキリがないだろ。それに雛を狩ればヤツは逆上して冷静な判断ができなくなる」

「それって大丈夫なの。逆に怒って襲いかかってくる気がするんだけど」

「大丈夫。何より心臓がここにあるから。すべてにおいてこっちが有利だ。カムリヒさんはそのために俺に心臓の番をさせたんだから」

 レイヒはほうと息をついて、オキを見上げた。

「オキはさ、犬のときからそんなに賢かったの?」

「そうだよ」

 オキはぐっと胸を張る。

「死ぬ直前までレイヒのことが心配で仕方なかった。レイヒはちょっと頭が悪いから」

 悪気がなさそうな顔でひどいことをいう。その辺りはやはり犬だ。しかしオキに言われてもあまり腹は立たなかった。

「人間は気をつかったりしてそういうことはわざわざ言わないもんなんだよ」

「それくらい知ってるよ。人間は犬が馬鹿だと思っているかもしれないが、犬も人間を馬鹿だと思っているもんだ。それに鼻が悪くて気の毒だってね。でもそれは人間と犬の価値観が違うだけで、本当はどっちも馬鹿じゃないし、気の毒でもない。俺は犬の中でも一等頭がいいから、人間の価値観でも物を考えられる。言葉もわかるし、どんな風にふるまえば人間っぽいかもちゃんと知ってる。レイヒのことが大好きだから簡単なことだったよ。俺は今、とても人間みたいだろ?」

 オキは誇らしげに両手を広げる。

 人の姿をしたオキと過ごした時間は本当に何の違和感もなく楽しかった。レイヒのために人間のことをいろいろ覚えてくれたんだろう。

「――もう、わかったよ。頭のいいオキのいう通り、早くハルミを探しに行こう」

 先ほどの雛を追ってみようとレイヒは座敷に足を踏み入れた。

「散歩だと思って適当に歩くのがいい。雛たちは人間の感情に敏感だ。怯えたり迷ったりすると、おいしいにおいがするって集まってくる。楽しいことを考えて歩くんだ。俺と散歩するのが好きだっただろ、レイヒ」

 オキのいう通りにしたせいなのかわからないが、そこから雛に遭遇することは一度もなかった。いや、一度見たともいえる。

「死んでるのかな」

 レイヒは大広間の真ん中に転がっている鳥の化け物を遠巻きに見た。羽は折れ曲がり、細い脚を宙に投げ出して倒れている。辺りは血と羽根が散乱してひどい有様だ。

「ハルミさんの仕業だな」

「シハルじゃなくて?」

 オキがにおいを嗅ぐような仕草をする。

「その人のにおいもするけど、これはハルミさんの汗のにおいだ。戦ったのはハルミさんだな」

 レイヒは首を伸ばして化け物を見る。あまり近づきたくはないが、確認はしておきたい。

「ほんとだ。あの、ばあちゃんの棒で殴ったのかも」

 レイヒはおえっと舌を出した。

「あれは祭具だよ。シハルという呪術師はこの屋敷の中ではほとんど無力だ。余所者だからね。ここで戦えるのはカムリヒさんの弟子のハルミさんだけだろう」

 レイヒはまた首を伸ばして雛を観察する。呪術というか、棒でめちゃくちゃにぶん殴っているだけに見えるが、気のせいか。

「へえー。あれ、ただの棒じゃないんだ」 

 そういえばシハルは屋敷の中ではいろんなことがままならないと言っていた。つまりこの屋敷の中ではあの棒みたいなものがないと雛を仕留めることはできないという意味だったのか。

「じゃあ、交渉とか面倒なことしないで、ハルミが全部棒で殴っちゃえばいいんじゃないの」

「無理だ。相手が大きすぎる」

 そうだろうか。倒れている雛を見る限り棒で殴るのに大きすぎるようには見えない。レイヒが首を傾げたそのとき、どこからか地揺れのような音が迫ってきた。何かが廊下をどすどすと鳴らしている。

「雛だ」

 オキがするりとレイヒを守るように前に立った。その瞬間、壁が弾けるように崩れ落ち、廊下から例の鳥の化け物が現れる。さっき見たものよりもかなり大きい。羽根は夏草のように濃い緑でわさわさとしており、目やくちばしがまったく見えなかった。まるで走る丘だ。

 後ろから例のばあちゃんの棒を振りかざしたハルミと別段何もかまえていないシハルがヴァルダを抱っこして走り込んでくる。

「これを何とかすれば外に出られるはずですよ」

 レイヒたちの姿を認めたらしきシハルは軽い調子で口を開いた。そういわれても、レイヒは特に何もできない。ハルミは一人で雛を追い回し、巨大な雛は座敷を破壊しながら逃げ回っている。シハルたちは何をするでもなくただ無意味に走り回っていた。

「おい、犬。どうせなら仕事をしろよ」

 ヴァルダがいつの間にか足元にいる。

「俺は猟犬じゃない。それに今は人間の姿をしているから、そういう犬みたいなことはしないんだ」

 オキはややむっとしたように答えた。

「こらこら、犬同士で喧嘩しないの」

 レイヒは間に入ったが、オキは困った顔をしてヴァルダを指差した。

「それは犬じゃないぞ」

 その瞬間どうっと大きな音がして足元が揺れる。見ると緑色の雛が転がっていた。ただ走っていただけのシハルが隣でぱちぱちと拍手などをしている。ハルミはとどめでも刺そうというのか、また棒を振りかぶった。

「殺さなくとも大丈夫そうですよ。もう出られます」

 シハルが天気の話をするくらいの緊張感のなさで言う。

 やっと出られるのかとほっとしたその瞬間、夜の山の中にぽつんと立っていた。

「あれ?」

 きょろきょろと辺りを見渡しているのはレイヒだけだ。みんな当たり前のような顔をしている。視界の端で先ほどの緑の雛がひょこひょこと逃げて行く。図体がでかいのでこっそりとはいかないが、ハルミもシハルももはや雛のことは気にしていない。あれがさっきまでの屋敷にレイヒたちを閉じ込めていたのか。本当に呪術というのはよくわからない。

「ここまでは利害が一致したので行動を共にしましたが、ここからは違います」

 ハルミが今度はシハルに棒を向ける。仲良くやってるのかと思ったら、全然そうでもなかった。

 そのとき、木々の間から鋭い風の音がした。

「ハルミ!」

 レイヒは思わず駆け寄ろうとしてオキにとめられる。ハルミは肩口から血を流して膝をついていた。人の腕くらいありそうな鳥の羽根が肩に突き刺さっている。

「とても怒ってますね」

 シハルがやはり緊張感のない様子で口を開く。見覚えのある鳥の化け物が姿を現した。あれは屋敷で初めに会ったやつだ。やっぱりあれが交渉担当なのだろうか。

 ちらりとシハルがレイヒをふり返る。

「契約は破棄。でも私の大事なオキはこのままにしておいてほしいんだけど」

 シハルは口を「あ」という形にあけたまま、レイヒを見つめた。

「馬鹿だな」

 足元でヴァルダがきゅうっとおしりを突き出して伸びをしている。

「――まず、契約者以外、全員殺します」

 鳥の化け物が初老の女の姿に変わった。レイヒから見るとかなり若く見えるが間違いなくばあちゃんだ。

「カ、カムリヒ様……」

 ハルミが苦し気に女を見上げる。ハルミが子供だった頃の記憶を読んでいるのか。

「あ、あのね、心臓はこっちにあるんだから――」

 レイヒの言葉に化け物はケタケタと甲高い笑い声をあげる。

「ではそのオキという犬の皮を突き破って心臓を処分してみるか?」

 レイヒは声に出して「あ」とつぶやいた。

「だからレイヒは黙っていた方がいいんだ。忠告したよね」

 いつの間にかあの子供が隣にいる。

 あの化け物にオキが大切な存在であることを知られてしまった。心臓を処分するにはオキごと処分するということになる。そんなことレイヒにはできない。つまり、交渉のネタを失ってしまった。

 シハルがレイヒとハルミを交互に見る。ハルミはがくりと地面に手をついた。

 呆然としているレイヒの横で子供がぱっとヴァルダを抱きあげる。

「何のつもりだ」

「土人形だね。よくできてるなぁ。でも窮屈でしょう」

「お前、何でついて来た?」

「別にいいでしょ。どこに行こうと僕の勝手だ」

 どうしてこんな時に喧嘩をしているのやら。レイヒはあまりのショックから立ち直れない。

「交渉決裂ということで、雛はすべて処分させてもらうことにします」

 シハルがきっぱりと言うと、化け物の方もくすくすと笑いながら「ではこちらも人間は町にいるのも含めてすべて食糧とさせていただきます」と、棒を構えた。ばあちゃんの姿だからばあちゃんの棒も持ってるんだなぁとレイヒはぼんやりとそれを見ていた。

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