夜鳴き箱(4)

 こつこつと木戸をノックする音がする。それはとても軽い音で先ほどのひっかくような薄気味悪い音とはまったく違っていた。

「ウイルド、そこにいるんじゃないですか?」

 シハルの声だ。さらにまたノックする音がする。

「こちらの方々がウイルドに出ていけと言っていますがどうしますか?」

 こちらの方々?

「え? どちら様ですか」

「私はシハルです。お腹がすいています」

「いや、そうではなくて――」

 なぜわざわざ空腹をアピールするのだ。埒が明かないと木戸の留め金を外そうとしたところで、手がとまる。外はどうなっているのだろうか。シハルは薬箱がいっぱいあると言っていたが、シハルの言う「こちらの方々」が夜中になると運びこんでくるという意味なのか。すごく奇妙だ。正直、見るのが怖い。

「シハルさん、そっちって――、えーっと、なんというか、『怖い感じ』になってるんですか?」

 返事がない。

「シハルさん? どうかしたんですか」

「――今、ちょっと『怖い感じ』になってきましたね。別の方々もいらっしゃったみたいです。これは、ちょっと……」

 意味深長なつぶやきをもらして、また黙り込む。

 怖すぎる。

「シハルさん、もういいです。もし危ないなら逃げてください。ここで朝まで待てば何も聞こえなくなりますから」

 突然、バンッと戸板を殴るような音がした。

 ウイルドはまた寝台から転げ落ちそうになる。そのまま、立て続けに戸板が鳴り続けた。これは――どちら様だろうか。

「ウイルド、お守りはそこで元気にしてますか」

 シハルの声に少し緊張が混じる。その間も戸板はバンバンと鳴り続けた。まるで店主くらいの大柄な男が力任せに戸板を破ろうとしているみたいだ。

「すみません! お守りは割れてしまいました!」

 ウイルドはもう涙声だ。部屋のできるだけ窓から遠い場所に移動してただただ震えていた。

 シハルはしばらく無言だったが「割れた破片は部屋に?」と口を開く。

 ウイルドは申し訳ない気持ちで「……はい」と声を絞り出した。

 当然だが割れてしまっては困るものだったのだろう。もしかしてそのことがシハルを窮地に追いやっているのだろうか。

 窓の戸板はいよいよミシミシと不吉な音を立てはじめている。それに気づいているかのように戸板を殴っている何者かも勢いづいてくる。

「ウイルド、あなたに『出ていけ』と言った側の方々の忠告に従いましょう。大切なものだけを持って、すぐにここを出て逃げてください。そのとき絶対に庭を振りかえってはいけませんよ」

 ウイルドは何とかふんばって震え続ける膝を立たせる。大切なものと言われて浮かぶのはずっとつけている薬についての帳面くらいだ。本当に自分の財産といえるものはそれしかなかった。

 ――そうだ。今さら気づいたが、母が残してくれた薬の技術はすごい財産なのかもしれない。ウイルドが調合した薬は店主がありえないくらいの高値をつけたにも関わらず、毎日飛ぶように売れた。わざわざ遠方から求めにくる者も少なくはなかった。妥協を許さない母がきっちりと幼いウイルドに仕込んでくれたからだ。

 こんな恐ろしい目に遭ったことで、たかが店主の懲罰くらいで何をそんなにおびえていたのかと不思議に思う。ぶたれたり、食事を抜かれたりするくらいのことだ。殺されそうになったり再起不能な怪我を負わされそうになったことは一度もない。当然だ。連中にとってウイルドがいないとこの「おいしい商売」が成り立たないのだから。母から受け継いだ大切な財産でここのゴロツキどもを食わせてやっていたなんて。ここに来てはじめて悔しさで涙がにじんだ。

 そして何よりもそのことにどこかで気づいていながら勇気が出ず、決断を先送りしてきた自分に対して腹が立つ。

 もっと早く母を迎えに行くべきだった。

 帳面を取りに行くため部屋を出ようとしたところで、ふとあの木箱と土人形の破片が入った麻袋のことを思い出す。来るなと言われたが、これは返さないといけないだろう。迷っている間も戸板は鳴り続け、やがてすさまじい音とともに破壊された。

 やっぱり見たくない。

 ウイルドはあわてて部屋を飛び出すと、調合の作業部屋へと駆けこんだ。店主たちはどうしているのだろうか。あの激しい物音で起きないということはありえないはずだが、まったく騒いでいる気配がない。だが様子を見に行くような余裕もなかった。庭ですごく恐ろしいことが起こっているのは間違いない。

 店の裏口から逃げようかとしたところで、ふと迷う。

 このまま逃げていいのだろうか。「お腹がすいています」というシハルの細い声が去来した。なぜあの人は食べ物をほどこしたわけでもないウイルドを助けてくれるのだろうか。

 ウイルドは例の偽物のケゼの根とチュウサエの実をかごいっぱいに放りこむ。さらに麻袋にいくつかの薬の材料を選びざくざくと詰めて肩に担いだ。

 あのケゼの根の偽物はこのあたりでよくとれる芋をケゼの根に似せてチップ状にしてから乾燥させたものだ。芋は安価で腹がふくれる。

 そのかごと麻袋をすぐ持って逃げられるように店の裏口のかたわらに置いた。何を見てしまうことになるのか、とんでもなく恐ろしかったが、ウイルドは歯を食いしばって庭に向かう。しかし足が震えて仕方ない。

 月の光の明るい夜で庭全体を見渡すことができる。

 本当に庭一面に薬箱があった。土の中から生えて来たかのようだ。まるで墓標のように様々な形の薬箱が突き立っており、その扉はあるものは開き、またあるものは閉じていた。

 見慣れた庭であるはずなのに荒涼とした墓地のような景色に唖然とする。風が例の気味の悪い軋みを庭に響かせていた。恐る恐る庭に一歩踏み入れる。

「シ、シハルさん……?」

 誰もいない。

 さっき窓の木戸を殴っていたのは何だったんだろう。

「ウイルド!」

 どこからかシハルの声が響いた。ハッと顔をあげた瞬間、何かがウイルドの足をつかんだ。おそるおそる見ると、土の中から青黒く変色した太い腕が生えていた。

「わあああああ」

 ウイルドは恐怖のあまりでたらめに足を動かすが、その腕はびくともしない。もう死ぬかもしれない。

「落ち着いて。大丈夫です。死人の手がウイルドの足をつかんでいるだけです」

 薬箱の陰からシハルがこちらをのぞいている。一瞬、なんだそれだけのことかと思いかけたが、次の瞬間全身に怖気が駆けあがった。

「やだあああ」

 ウイルドはさらに絶叫した。

「大丈夫です、大丈夫です。ほら、これを」

 シハルは薬箱の陰からウイルドに何かを投げ渡した。パニックに陥っているウイルドはうまく受けとることができない。地面に落ちたのは小刀のようなものだった。

「特別な守り刀です。それで切り落とせばいいですよ。その手を」

 白い鞘に不思議な赤い紋様が描かれている。なるほど祭事に使うもののような美麗な装飾で何らかの力がありそうだ。ウイルドは何とかそれをつかみあげ、鞘をはらったが結局また叫んだ。

「切り落とすんですかぁ!」

 死人の腕を切り落とすなんて気持ち悪すぎる。

「わかりました。ウイルド、そのままで。キープです。あまり気が進みませんが、あれが割れてしまったのなら仕方ないですね」

 シハルはサッと薬箱の陰から身を躍らせる。その薬箱はどうやらシハルが背負っていたものだったようだ。落ち着いて見ると見覚えがある。

 意外と身軽な様子で駆け出したシハルを狙い無数の腕が地面から伸びてゆく。それを器用によけながら、ウイルドの部屋のある窓のあたりへと移動してぴたりと壁に背をつける。

「死者の名を三度呼べば、それはまじないになります」

 シハルが何を言っているのかウイルドにはよくわからない。

 まるで神事の儀式のようにシハルの指が不思議な印を描く。月の光にきらきらと何かがきらめいた。風にわずかに香木のようなかおりが混じる。

「ヴァルダ……」

 破壊された木戸に向かってシハルがささやいた。

 そうだ。あの木箱。

「ヴァルダ、全部見ていましたね?」

 部屋の中でわずかな物音がした。

「気が進みませんが、助けが必要になりました――三度目、名を呼びますよ」

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