第6章   高尾山 〜 1  8月24日

 1  8月24日




「わたし……幸一くんと、高尾山に登りたいの……」

 いきなり直美がそう告げてきたのは、慣れ親しんだ個室病棟に、久しぶりに戻った日のことだった。

「直美! 直美だろ!?」

 あの夜、大声でそう叫んだ彼に、微かに聞こえ届いた直美の声、それは静寂の中だからこその奇跡だろう。

果たして本当に、意識して幸一の名を呼ぼうとしたのか? 

 それともたまたま、意識を失う寸前の吐息であったか?

 とにかくそんな声のおかげで、幸一と稔は直美の姿を発見する。そうして目にした彼女は大の字になって、まるで夜空の星を眺めているようにも見えた。すでに意識はなくなっていて、その息は弱々しくもせわしない。それから待たせてあったタクシーまで運び、近くの病院で手当てを受ける。もし、後一時間でも遅ければ、かなり危険な状態だったと医師は言った。そうして一週間後、直美は転院を許可され、我が家とも言うべき病院へ帰る。

 その翌日、検査を終え、病室に戻るなり、直美は静かな声で話し始めた。

「お願いが、あるの……」

 稔が顔を出した日曜日、それはそんな言葉から始まったのだ。

 一方真っ先に伝えられていた幸一は、

「直美ちゃんの両親がOKってなれば、俺は、反対なんかしないけど……」

 こう返していたのだが、もしも今回の行方不明騒ぎが起きてなければ、そう答えられていたかどうかはわからない。

 ――死ぬために行ったんじゃないわ、死ぬ前に、どうしても登ってみたかったの、ただ、それだけだから……。 

 どうしても、登ってみたかったから……。そう言っていた直美は、今度は幸一と一緒に登ってみたいと言い出した。ケーブルカーに乗って高尾山駅まで行き、そこから百メートルで終わってしまっても、それはそれで満足なんだと直美は笑う。

 しかし当然、医師の許可など下りるはずもなく、

「どうしてもとおっしゃるなら、わたしは聞かなかったことにいたしますから」

 到底許可などできないと、担当医は稔に向けてそんなことを告げたのだった。

 それからひと月とちょっと後、まだまだ暑い盛りではあったのだ。それでも朝晩だけは涼しくなり始めた頃、とうとう待ち望んだ日がやってきた。八月のお盆明け、二回目の月曜日という日に、幸一と直美は稔の運転する車で清滝駅前までやってくる。

「わたしたちはここで待っているから、頼むぞ、幸一くん、絶対に、直美に無理はさせないでくれよ」

 そう言う稔の隣には、行かないと言い張っていた順子の姿もあったのだ。不機嫌そうではあったものの、彼女は幸一へしっかり顔を向けている。そうして当初は同行するつもりだった稔も、直美の必死な言葉に二人を見送ることにした。

 ――無理なんか絶対しないから! 

 ――だから、二人だけで行かせて欲しい、

 そんな言葉で許す気になったのも、ここ数週間でのことがあったからだ。

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