第5章 1994年 〜 1  七月七日(3)

 1  七月七日(3)




 すると五分くらいが経った頃だ。すぐ目の前を、見たことのある顔が通り過ぎる。

 ――あれ? おやじさんだ。

 偶然にも、直美の父親が彼のすぐ前を歩いていった。

話したことなどなかったが、日曜日の病室で何度か会って、その都度会釈くらいは返していた。

 そんな父親が血相変えて、エレベーターに息を切らせて乗り込んだ。

 その瞬間、幸一は一気にエレベーター前まで走り、四階で止まったのを確認する。

 ――どうする? 違う人が、降りたのかも知れない……?

 そうとも思うが、とにかく一か八かだった。

 結果、違っていたならそれはそれで仕方ない。

 そう決めて、階段を使って四階まで駆け上がる。

 そうして意外にも、目指していた応接室はいとも簡単に見つかった。

 四階の廊下に足をかけた途端だ。いきなり大きな声が聞こえてくる。

 声のした方に歩み寄ると、第二応接室――そんなプレートの貼られた扉の向こう側から、再び女性の声が響き渡った。

「ちょっと待ってください! できないってどういうことですか!? それじゃああの娘は、これからいったいどうなるんですか!?」

「ですから、これまで通り、様子を見ながら……」

「ちょっと待ってください! そんなことを、そんなことばかりもう二年ですよ! ようやく手術をするって決めたのに、それだって、それだってあの娘が、あの娘がどんなに苦しんだと……あの娘は、まだ二十歳にもならない……あの娘は……あの娘は……」

 そんな声の後、女性の言葉はいっときぜんぜん聞こえなくなった。

 一方答えていた男の声も、それからは一切聞こえない。

 そんな代わりにすぐにまた、今にも泣き出しそうな声が何度も何度も繰り返された。

「このままじゃ、あの娘は死んでしまうんでしょ? 先生! 先生はそうおっしゃってましたよね? だから、移植手術を受けるんでしょ! そうですよね! 先生、答えてください! そうでしたよね!? そうじゃなかったんですか? ねえ! 先生! 黙ってないで、なんとか言ってくださいよ!」

 聞き覚えのない声だったが、幸一にもそれが誰かはすぐにわかった。

 ――このままじゃ死んじゃうって……それは直美のこと、なのか? 

「また、手術を受けることになったの。でも、これを受ければ、今度は本当に治るって、だから怖いけど、わたし、受けることにしたんだ」

 直美が三ヶ月ほど前に、幸一へそんなことを言ってきたのだ。

 ――それが、移植手術だったのか? 

 しかしそんな手術も、なぜかできなくなったらしい。

 ――手術できなかったら、直美が死んじゃうって言うのかよ!? 

 そう思った途端、彼の全身は総毛立ち、居ても立ってもいられなくなる。

「じゃあわたしたちは……直美に、なんて伝えればいいんですか?」

 さらにそんな問いだけが微かに聞こえた。

 ただし声への応えがあったとしても、もはや幸一には聞こえない。

 彼はすでに扉から離れ、母親の声をかなり遠くから聞いていた。

 足が宙に浮いているようで、身体が揺れている感じがする。

 そんな状態のまま歩き出し、夢遊病者のように非常階段を降りていった。

 ところが一つ目の踊り場に降り立ったところで、立っていることもできなくなる。いきなりその場に座り込み、幸一はわんわん泣き出してしまうのだ。

 そしてそんな姿を、幸い見ているものなどいなかった。

 ところがその少し前、彼のうしろ姿を偶然見かけて、首を傾げたものはひとりいた。

 四階にある休憩室に、こっそりジュースを買いに来ただけ。

 そんなことさえ注意される直美は、誰にも告げずに一人エレベーターに乗り込んでいた。

 そうしてエレベーターから出た途端、遠くに幸一の姿が目に入る。

 ――あれ? 幸一くん……? 

 応接室から離れ、とぼとぼと歩く彼の背中が見えたのだ。

 ――帰ったんじゃなかったの? 

 そう思い、まさに声を掛けようとした時だ。

 その姿が階段へ消えた瞬間、情念の叫びが彼女の耳にも届いてしまう。

 それは振り絞るような順子の声で、直美は何事かと慌てて扉の前に立っていた。

 そして次の声が響き渡ると同時に、彼女は思わずドアノブをつかみ、扉の向こう側へ身を乗り出した。

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