第1章   同級生  -  8

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 ――もう限界! 

 鳴り響く着信音が二桁に差し掛かろうとした時、彼女の我慢は限界を超えた。美津子は忌々しさ一杯に、目の前の受話器に手を伸ばしたのだ。そしてその時、彼女は社名も告げずに、一言「もしもし」とだけ言っていたらしい。

「あれ? もしかしてご機嫌斜めかな?」

 いきなり聞こえたその声は、由子のものだとすぐにわかった。

「その分じゃきっと、かなりお忙しいって感じなのかなあ? 」

 なんともトボケた声が続いて、美津子は思わず笑ってしまった。

 そんなことから一時間が経って、美津子は由子とともに和食料理店の個室にいた。そこは元々恵比寿に本店があり、活魚料理を食わせれば天下一品と称される店だ。

「ちょっといいじゃない! さすが出版社なんかに勤めてると、こんないいところも知ってるのね! わたし、麻布十番って初めてなのよ」

 由子は個室に入るなり、そう言って目をまん丸にした。

「でも大丈夫なの? 私、もっと待ってられたんだよ。まあ早くても、九時にはなるかなって覚悟して来たんだから、ホント、平気だった? 」

「いいのいいの、由子に言われた通り、あの時は本当にムカついてたのよ。下の連中だけ残して帰ってやろうって思ってたから、まさにグッドタイミングだったってわけね」

 電話の着信音は三度まで。そんなことも守れない三人の部下たちは、きっと今頃心穏やかではないはずだ。そんなことを美津子は告げて、ヤレヤレといった顔をしてから楽しそうに笑った。

「今日、ゆかりも誘ったんだけどさ、彼女、今晩はお忙しいようで……」

 席に座るなりそう言って、顔を歪めた由子は最近、表参道にあるエステサロンに通い始めたらしい。さらにエステのある場所が、美津子の出版社から目と鼻の先。だから磨き上げカラダを見せ付けに来たと言って、彼女はなんとも明るく笑ってみせた。

「でもさ、美津子、真面目な話、あなたやっぱり頑張り過ぎじゃない? あんたの旦那に聞いたんだけど、最近は土曜もずっと出てるんだって? あんまりガムシャラにやってると、いつか身体壊しちゃうよ。あたしたちはさ、もう自分で思ってるほど、そんなに若くはないんだよ、二十歳の頃とは違うんだから」

 グラスに注がれたビールを一気に飲み干し、

「もう、なに言ってるの由子まで……幸喜みたいなこと言わないでよ」

 美津子は少し遅れてそんな返事をして返す。

「三十七歳って言ったら、世間では一番の頑張りどころでしょ? いま時分の頑張りで人生が変わっていくもんなんだから。それなのにあいつったら、いきなり会社辞めちゃってさ、今やアルバイト生活よ! それもね、たった十万ぽっち稼いだだけで満足しちゃってるんだから。嫌でもわたしが頑張らなきゃって、思っちゃうのが普通じゃない?」

「でもさ、どうして会社を辞めたんだろう? それ、美津子は聞いたことあるの?」

「もちろん聞いたわ。でも、結局はよくわからない。まあね、激務だったことは確かだから、やっぱりそんな生活が嫌になったんじゃない? とにかく、将来のことを考える時間が欲しいんだって……結局あいつ、そんな漠然としたことしか言わないのよ……」

「ふーん、それにしたって、そんなこと思うキッカケがあったはずよね? 何か、美津子の方で思い当たらないの?」 

 キッカケ……たとえそんなものがあったとしても、最近の美津子にわかるはずがなかった。思い浮かぶことがあるとすれば、それこそ今ある夫婦関係に他ならない。

「まあ、強いて言えばだけど、わたしがさ、今の仕事に夢中だってことくらい……かな?」

 笑顔を見せながら、美津子はこれを、冗談で口にしたつもりだった。

妻が稼ぎ出したから、夫が会社を辞めてしまった。そんなジョークで笑う由子を想像したのだ。ところが由子は笑うどころか、軽い頷きだけを返してから、

「ま、あなたが仕事に夢中なお陰で、わたしも二年続けて、幹事役を引き受ける羽目になったんだけどね」などと、大真面目な顔で言ってくる。ごめん――美津子が一言そう呟くと、由子はやっと「いいのいいの」と言って笑った。

「でね、美津子も聞いてるとは思うけど、この間向井くんとさ、一緒に同期会の案内状を配って回ったのよ、その時にね、彼と話したことなんだけど……」

 そう言ってから、由子はいきなり矢野直美のことを話し出した。

「彼もね、最初は完全に忘れてたのよ。それでもさ、あなたは違うだろうって思ってたんだ。でもやっぱり、忘れちゃってた、のよね」

「そうそう、その話ね、確かに彼から聞いたわよ、でも、そんなことがあったの? その矢野さんって人に、ひどいことしてたって? わたし、ぜんぜん覚えてないのよ」

「別に、責めてるわけじゃないんだから、勘違いしないでね。なんたって大昔のことなんだし……ただ、彼女が同期会に出てくれた時、やっぱりあなた達には、思い出しといてもらわないとなあって、ちょっと思っただけなのよ」

 砧中央小学校六年一組……今からさかのぼること二十五年も前、、世田谷区の外れにある小学校での出来事だった。

 三学期に入ってしばらくした頃、かなり中途半端な時期に矢野直美はやってきた。

 彼女は毎週月曜日になると、決まって学校に花を持ってくる。きっと庭に咲いている花の中から、母親が切って持たせていたのだろう。真冬にも関わらず、それは転校してきてからずっと続いて、だいたい週末まで窓際のスペースに飾られていた。

 しかしそんな窓際の花々が、六年になった春先からピタッと見られなくなる。

「それって、どうしてだったか、あなた覚えてる?」

 だいたい、花が飾られていたことさえまるで覚えていなかった。だから由子にそう聞かれ、美津子は黙ったまま首を左右に振ったのだ。

「それはね、あなたが捨てちゃうからよ。月曜日に飾られた花を、なんだかんだ理由をつけて捨てちゃうの。だいたいいつも、次の日にはゴミ箱行きにしてたじゃない? 例えばさ、バラの花びらが一枚でも床に落ちるとね、あなたは汚いからって、花瓶に差してあるのをぜんぶ捨てちゃうのよ。それだって本当は、自然に落ちたどうか、わからないわ」

 捨て去る前には必ず、捨てていいかを周りに尋ねた。すると居合わせた何人かは決まって困った顔をする。それでもけっして否定しないから、美津子は笑顔のままにそんな行為をまっとうできた。

 矢野直美は物静かで、自分から滅多に話し掛けたりしなかった。そして同時に、あの頃のクラスの中でかなり異質な存在でもあった。

授業以外の催しに、まるで参加しないのだ。夏のプールはもちろんのこと、運動会や遠足など、表へ出掛ける野外授業でさえ彼女の姿はまるでなし。

 ――なんだよ、あいつ……?

 そんなふうに思われるのも当たり前で、具体的な理由がしっかり伝わっていれば少しは違っていたのだろう。ところが肝心の教師からは、身体が弱いから――と、そんな説明がされただけだ。だから週何度もある体育の授業にも、矢野直美は一度も参加したことがない。体育の授業のある時は、最初に男子が教室で着替え、その間女子全員が廊下で待っている。やがて男子があっという間に着替え終わって、そうしてやっと、女子の着替えが始まるのだ。

 そんな時、いつの日からか、着替え終わっても美津子が教室を出て行かなくなった。

 自分が最後になるまで待って、ようやく教室から校庭に向かう。さらにその時、美津子は教室のライトをすべて消し去ってしまうのだった。

 どうして!? ――教室で、直美はそう思ったに違いない。しかし度重なるそんなことにも、いつしか慣れていったのだろう。ところがそんな時にだ。由子がうっかりハンカチを忘れて、教室へ取りに戻ったことがあった。その日はどんよりとしたお天気で、明かりのついていない教室はいつも以上に薄暗かった。

 なぜかそんな教室で、明かりも付けずに直美が本を読んでいる。

 どうして明かりを点けないのかと、由子は素直に尋ねたのだった。

「彼女はね、いくら尋ねても何も言わなかったわ。でもね、次の体育の時、あなたはまた同じことをしたの。だからそれからは、わたしがいつもあなたに気付かれないように、一度教室に戻って、もう一回明かりを点け直していたのよ」

 あなたが、トイレに寄っている間にね――そう言って微笑む由子の言葉が、美津子の心に突き刺さる。体育の授業なんかで運動する前には、必ずトイレに行っておかないと気が済まない。美津子には、昔からそんな感じの習慣があった。

だからそう聞いた時、もしかしたら本当なの? ふと、そんなふうに思ったのだ。

 しかし美津子の口を衝いて出たのは、まるで反対っ側の感情だった。

「そんなの嘘よ! 嘘じゃなければ、きっと何かの偶然だわ! そんなこと、そんなこと意味あって、わたしがするはずないじゃない!」

「あのね、それじゃあ言ってあげる。きっとこれだって、あなたは忘れちゃってるんでしょうから……あの頃、あなたがゆかりにさんざん言ってたこと、今からわたしが教えてあげるわ。もし、これも嘘だと思うなら、今ここでゆかりに電話してみたっていいのよ。でもその必要はない……だって、ぜんぶ本当のことなんだから……」


 ――体育を休むのは、ただ運動が嫌いなだけなのよ!

 ――だから、教室の電気代なんて本当に無駄だわ!  

 ――ちょっと可愛いからって、男子に色目ばっかり使って、

 ――花だってモテたいってだけなんだから! 

 ――近寄るだけで吐きそうになる。

 ――だから直美なんかと、絶対に話なんかしちゃだめよ!  

 ――あの子はとんだ淫乱女なんだからね……。


「どうして、そこまでのことを言ってたのか、わたしにもぜんぜんわからない。でもね、美津子ほどじゃないけど、ゆかりとは家が近いから、あの頃たまに遊んだりもしたのよ。だからあの子が悩んでたのはちゃんと知ってる。どうして、直美を目の敵にするのかわからないって、だから彼女、本当に辛いって言ってたわ……」

 そうは思っていても、逆らうことはもちろん、美津子に思いを伝えることさえできなかった。

 ゆかりが、わたしのせいで悩んでいた……? そんなことが、声を上げそうになるくらいに信じられない。けれど、ゆかりへ告げたという言葉を思い返せば、

 ――確かにわたし、そんなことを誰かに言ったことがある……。 

 それらしい言葉が、脳裏におぼろげながら蘇ってくるのだ。

「もし話なんかしたら、ゆかり! あんたとも絶交だからね! 」

 そう告げた途端、ゆかりが泣き出したことがあったような気がする。

 ――あれは、矢野さんのことを言ってたんだ……? 

「だからって、今さらどうこうしようなんて思ってないのよ。まあ、思ったってどうしようもないしね。とにかくさ、何もかもが遠い過去にあったお話なのよ。ただ、さっきも言ったけど……」

 それから美津子は、由子が何を言ってきても心ここにあらずだった。一時間ちょっとの間、自分が何を話したのかさえ、部分的にしか思い出せない。

 矢野直美を虐めていた。そんなことを、今日の今日まで忘れ去って……、

 ――それはいったい、どうしてだったの?  

 そうなってしまった理由が、まるで地中深く潜ってしまったように現れ出てはくれないのだ。そしてその晩、由子と別れて帰宅すると、幸喜はすでに床に就いている。美津子は薄暗いリビングに立って、置かれたままになっているアルバムに目をやった。

 幸喜はあの夜、いったい何を伝えたかったのか? 

 由子でさえ知らぬ何かを、思い出したからではなかったか?

 そんな不安を胸に抱えて、いつまでも表紙から目を離せなかった。

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