ボリス・カレンバハ

『もしかして、お前の名前か……?』


問い掛けられて、ギャナンは頷いた。するとボリスは、


「そうか……」


何かを察したように応えただけで、黙ってしまう。


けれど、しばらく黙って馬車に揺られた後、不意に、


「お前、このままどこかに行きたいのか?」


改めて問い掛けられたが、


「……」


ギャナンは黙ったまま答えない。そこでボリスが、


「親のところから逃げたいのか?」


そう問い直すと、


「……」


やはり黙ったままだったが、ギャナンは静かに首を横に振った。それを見てボリスは、


「……まあ、まだ子供だもんな……」


納得したように呟く。しかしその上で、敢えて念を押すように、


「その頭の傷も、親にやられたんだろ? それでもやっぱり帰りたいか……?」


と問い、これにも、ギャナンは小さく頷いた。


あれほどの目に遭わされてもなお親の下に帰りたいとか、『おかしい』と言う者もいるかもしれない。しかし十歳にも満たない子供にとって親は、それほどまでに大きな存在だということなのだろう。これがもう少し成長して視野が広がってくれば自身の親の異常さにも気付いてくるのだとしても、幼い子供にとっては自身の親が世界のすべてに等しかったりもするのだ。


ボリスもそんなギャナンに対して、


『それはおかしい』


とは言わなかった。言ったところで理解できないであろうことは分かっていたからだ。


でもその上で、


「<スカーフェイスのボリス>と言やあちょっとは知られた名でよ。少なくとも市場や駅馬車の御者に訊いたらだいたい通じることがあると思う。もし、困ったことがあったら俺の名前を出せ。案内してくれると思うぜ」


と告げた。


「……」


ギャナンは応えなかったが、ボリスも心得たもので、それ以上はしつこくしなかった。


彼にとっては珍しいことでもなかったのだろう。




こうして日暮れ前には街に到着したが、そこは幸か不幸かあのパン屋がある街だった。しかも、何の因果かそのパン屋へと続く路地のところまで差し掛かり、ギャナンは突然、馬車から飛び降りた。


「!」


ボリスはハッとなったが、ギャナンが路地へと駆け込んでいくのを見て、


「そうか…家に帰るのか……」


呟いただけで、止まることもなかった。


「縁がありゃ、また会うこともあるだろうさ……」


そう、自分に言い聞かせて。




一方、パン屋に帰り着いたギャナンを、


「お前、どこに行ってたんだ!?」


パン屋の男が迎えた。


「心配してたんだぞ!? 例の誘拐魔にでも攫われたんじゃないかと思って!」


とは口にしたが、


「……」


俯く彼を見て、


「まあいい、とにかくうちに入って体を拭け。それからパンを食え」


それ以上は責めなかったのだった。


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