第136話 守るべき者たちのために、再び彼女は立ち上がる

 黒騎士は剣柄けんつかに力を籠めて、小さな息を挟む。


「フッ、ここまでか……」


 そして、ゆっくりと地を踏みしめ、ヤツハへと近づいてくる。

 ヤツハの頭の中ではウードが『逃げろ逃げろ』と必死に訴える。

 しかし、彼女は逃げることも剣を構えることもなく、ただ、死が訪れるのを待つ。


 近づいてくる死――黒き鎧を纏った死神。

 

 膨大な魔力の影響を受け、金の色が溶け込んでいたヤツハの瞳は、淀んだ黒へと染まる。

 光は消え、全ては涙でぼやけていく…………その端に、フォレが見える。

 瞳を小さく動かす。

 

 アプフェルがいる。パティがいる。アマンがいる。


 みんなが、仲間が、友達がいる!



(ここで、俺が諦めたら……っ)

 ヤツハの瞳に黄金の光が戻る。

 一度は戦いに不要と切り捨てた仲間たち。

 だが、その仲間たちが、再び剣を握る力を与えた!


(そうだ、諦めるわけにはいかない。考えろ、俺!)


 ヤツハは剣を見る。

 フォレの剣――黒騎士の刃から身を守り、唯一届きうる武器。絶対に手放すことのできないヤツハの牙!


 ヤツハはつかを握る手を見る。

 柄を握り締める手――武器をたずさえ、希望を掴み取るための手。この手でしっかりとフォレの剣を握り締めなければならない!


(そうだ、これは仲間を守るための武器。俺の持つ大切な武器……武器? 絶対に手放すことのできないもの? 俺の手は……?)


 ヤツハはもう一度、己の手を見つめた。


(武器は剣。手は唯一無二の武器を握り締めるもの……いや、そうじゃない。俺にはもう一つ武器が…………武器がある!)


 

 ヤツハは口角を高く上げ、笑う。

 その姿を瞳に納めた黒騎士は歩みを止めた。


(ほぉ、まだ、折れぬか)


 ヤツハは笑いを声に出す。

「ふふ、ふふふ、ふははは、あはははははっ!」

 

 多くの者は彼女の笑いを、絶望に打ち負けた笑いと感じたであろう。

 しかし、瞳の奥にいるウードは、世界に響き渡る笑いを耳にし、肌を粟立てる。

(この子……これは、狂気。そう……ふふ、さすがは私の生まれ変わりと言ったところかしら)


 

 ヤツハは見出した……希望を。

 だけど、それはか細い道。僅かでも踏み外せば、絶望へ真っ逆さま。

 渡り切れるはずのない道。

 それでも、彼女はその道を進む。


(ふふ、失敗したら死ぬな。死ぬ? あはは、いまさら何を? どうせ死ぬのに。だいたい、俺は何度死んだっけ?)


 彼女は心の中で指を折る。


(駅前で刺されて死んだし。そのあともフォレが助けてくれなきゃ死んでるし、ノアゼットが来なかったら死んでたし。それに……近藤が守ってくれなかったら死んでた。四回も死んでる)


 ヤツハは瞳にフォレ・アプフェル・パティ・アマンの姿を宿す。


(何度も死んだ命だ。だったら……ふふ、みんなのために使うさ)



 視線を黒騎士へ向ける。

 黒騎士はヤツハの視線を受けて、僅かにたじろいだ。

 彼女の瞳には一切の気負いがない。

 気負いどころか、黒騎士に対して微笑む。

 微笑みの名は慈愛。


 ヤツハは瞳に映るもの全てに、慈しみをもって応える。

(さぁ、進もう。先へ)


 知識眠りし世界からヤツハを見つめるウードの背筋は冷たく凍りつく。

(狂気を持ちながら、死を受け入れる。そして、敵を前に心を愛に満たすなんて。この子、一体?)


 フォレはヤツハの姿におそれと敬意を同居させる。

「ヤツハさん。今のあなたに恐怖などない。ただ、純粋に希望を掴み取るためだけに、前を見ている」

 

 多くを見る人狼族のアプフェルは、ヤツハの思いをよく理解していた。

(ヤツハ、あんたは黒騎士の後ろにある希望を見てるのね。絶望の先にあるのは希望。ただ、絶望を乗り越えればいい。そんな馬鹿げた思いを純粋に抱けるなんて、凄い人……)



 


――戦場に一陣の風が舞う。

 

 風には熱く猛る思いがあった。冷め切った思いがあった。

 だが、いま舞う風の名は、希望。


 ヤツハは剣を握るこぶしに思いを宿し、絶望を乗り越え、希望を掴む!


「黒騎士。これで最後だ」

「ふん、いいだろう。貴様が掴み取ろうとする光。我が闇に染めてくれよう」


 黒騎士の鎧より、黒き粒子が渦巻き立ち昇る。

 その黒の陽炎を目にした者は心を凍りつかせ、恐怖に全身を震えさせる。

 だが、一度ひとたびヤツハの微笑みを目にすれば、暖かな春の日差しに誘われ、身体はほぐれ、心に命宿る。


 

 ヤツハは大きく息を吸う…………そして、小さく呟いた。


「心は水面みなもに……」


 風に乗り、彼女の言葉はフォレの元へ届く。


「今のは……まさか、ヤツハさんっ!?」

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