第80話 母の微笑み

 アレッテさんは周囲の安全を確認して結界を解く。

 彼女は額に滲んだ汗を拭うことなく、胸を押さえながら身体をふらりとよろめかせた。

 ノアゼットがその巨躯に似合わぬ柔らかな動作で、そっとアレッテさんを支える。



「大丈夫か?」

「ふふ、ちょ~っと、無理しすぎましたぁ。マヨマヨの攻撃は魔法とは別種の力ですからぁ、結界に気を使いますからねぇ」

「そうだな」


 ノアゼットは短い一言でアレッテさんを気遣う。

 簡素なやり取りだけど、二人の間からは深い絆をはっきりと感じ取れる。



「ヤツハおねえちゃん!」

「ピケ!?」


 ピケが路地裏から飛び出して、腰に抱き着いてきた。

「おねえちゃん、おねえちゃん、怖かった。怖かったよ~」

「ああ。でも、もう大丈夫だよ。よかった、ピケに怪我がなくて。もうちょっと落ち着いたらトルテさんのところに戻ろう。絶対、心配してるから」

「うん」


 俺はピケをしっかりと抱きしめる。

(無事でよかった。もし、ピケに何かあったら、俺は……)

 両手に力を籠めて、ピケをぎゅっと強く抱きしめる。


「ヤツハおねえちゃん。ちょっと、苦しい」

「あ、ごめん」

「ううん、あったかいから嬉しいよ」


 目元に涙の跡が残るピケの笑顔

 幼い少女の健気な笑顔に俺も笑顔で応え、頭を軽く撫でてから、アレッテさんとノアゼットに話しかけた。

「あの、この後はどうするんですか?」


「そうですねぇ。ノアちゃんはティラさんをお願いできますかぁ?」

「ティラ、さん? ああ、なるほど。わかった」

「さすが、ノアちゃん。話が早いですねぇ。ティラさん、ノアちゃんと一緒にお家へ~」

「し、しかし」



 ティラはピケに寂しさと申し訳なさの混じる顔を向ける。

 その様子を見て、アレッテさんは諭すようにティラへ言葉を掛けた。


「大丈夫ですよ~。もう、終わったのですからぁ。あなたにはあなたの役目がありますから、ね」

「……わかった。ピケ、わけあって私は帰らればならぬ。すまぬ」

「ううん、私もお母さんのところに戻らないと。ティラちゃんもお母さんを安心させてあげてね」

「ああ、そうだな。ありがとう、ピケ。ノアゼットよ、戻るぞ」

「はっ」


 ティラは軽くピケと俺に手を振って、ノアゼットと共に城へと戻っていった。

 俺はアレッテさんに今後のことを尋ねる。


「アレッテさんは?」

「みんなの親御さんがお迎えに上がるまでぇ、ここにいますよぉ。まぁ、混乱が落ち着けばぁ、教会の者が救助を始めるでしょうし。その時にこの場と交代しますからぁ、私のことは気にしないで大丈夫ですよ~」

「わかりました。ピケ、いったんサンシュメに戻ろう」

「うんっ」



 

 俺はピケの手をしっかりと握りしめて、変わり果てた街中を歩く。

 爆発は止んだとはいえ、まだあちらこちらで家が燃えている。

 怪我を負った人たちのうめき声が耳に届く。

 動かなくなってしまった愛する人にしがみつき、すすり泣く声が聞こえる。

 

 目を覆いたくなる光景。

 ピケにこんな惨状を見せたくない。

 でも、目を覆ってやるには手が足らな過ぎる。


「ピケ、なるべく下を向いて歩け。俺がちゃんと前を向いててやるから」

「……うん」


 小さなピケの手を引いて、歩いていく。

 俺は掛ける言葉なく、無言で歩く。

 沈痛でとても重い空気。

 だけど、その空気を吹き飛ばす声が響いた。


「ピケっ!」

「あ、お、お母さんっ!!」



 名前を呼ばれると同時にピケは走り出した。

 ピケはしゃがんで両手を広げているトルテさんに飛びつく。


「お母さん、お母さん、お母さんっ!」

「よかった、ほんとうによかった。無事だったんだね!」

「うん!」

「本当に……よかった……」


 トルテさんは優しく、それでいて力強くピケを抱きしめる。

 悲劇の広がる街の光景の中で、小さく輝く希望。

 冷たく冷め切っていた心に、温かさが戻る。


 トルテさんはピケの背中越しから、俺へ微笑んだ。


「ヤツハ、無事でよかった」

「っ!? あ、ありがとうございます」


 トルテさんの微笑み。それは不意打ちだった。ピケに向けていた優しさが、俺に向くなんて……。

 

 トルテさんは俺から視線を外し、心に暖かな日差しを届ける微笑みを消して、そっと目を閉じる。

 そこからゆっくりと息を吐き、表情を固いものに変え、ピケから両手をほどいて立ち上がった。



「ピケ、お家でお留守番できるかい?」

「え、お母さん……?」


 突然の言葉に、ピケは瞳を震わせて声を漏らす。

 そして母に、小さな手を伸ばそうとする。

 トルテさんはピケの手を両手で包み、優しく言い聞かせる。


「いまね、東門の近くでは、ケガをした人たちがたくさん集まってるんだよ。お母さんはみんなを助けてあげないと」

「で、でも……」


 トルテさんは東地区で仕事の紹介業を営んでいる。

 そんな立場であるため、東地区の顔役という一面もある。

 だから、率先して皆の前に立たなければならない。


(立場上、娘の心配だけをするわけにはいかない。それはわかっている。わかっているけど……)

 


 俺は一歩前に出る、そして……。


「東門には俺が行きます。トルテさんはピケと一緒に医者と薬をかき集めてください」

「ヤツハ?」


「もう少しの間だけ、ピケと一緒にいてあげてください。勝手ながらトルテさんの名代として、俺が東門で頑張りますから。なんなら、サシオンの名前だって出すし、何とかなるでしょ」

「すまないね、ヤツハ……ピケっ! 医者の連中の尻を叩くよっ。着いてきなさい!!」

「うん! ヤツハおねえちゃん、ありがとう!」


 トルテさんは周りにいた人たちと連携して、医者を呼びに行く。

 その後ろをピケが一生懸命ついていく。


 俺は両手で軽く頬を叩く。

「よし、トルテさんの分も頑張らないと。東門か。スプリたち、うまく誘導できたんだな。フフ、行くか!」

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