彼女が欲しがった嘘⑪
「ホラ、羽島っち! 行くよ!」
俺は尾道の言葉の通り、彼女の病気については知らぬフリを決め込んだ。
彼女は、地元の総合病院に入院していたらしいが、見舞いにも一度も行かなかった。
その代わりと言ってはなんだが、映画製作に関わる事務的な連絡は蜜に取り合っていた。
幸い、彼女の容態は一時的に寛解し、こうして外出できるまでに回復した。
だが予断は許されない。
尾道が言うには近頃、分子標的薬(病気の原因となっている特定の分子にのみ働きかけるがん治療薬)の効き目が弱まってきており、移行期に入った兆しも現れてきたようだ。
今こうして普通に振る舞ってはいるが、内心不安で一杯だろう。
それを分かっていて、こうして知らぬ存ぜぬを貫くことが、これほど心身に負担が掛かるとは思いもしなかった。
いや、それを言うのは反則だろう。
今最も負担を感じているのは、他でもない彼女自身だ。
「早ぇよ……。こちとら連日残業で使い潰されてんだぞ……」
「はいはい! 忙しい人間ほど『忙しい』を言わないって、ね!」
そんな負担を微塵も感じさせない様子で、商店街の雑多な人混みの奥から俺を急かしてくる。
大学卒業と同時に、俺と彼女の騙し合いの火蓋が切って落とされたわけだが、肝心の彼女はそれを知らない。
だからこそ、こうして何事もなかったかのように、撮影機材の買い出しに来ているのだろう。
いや、一概にそうとも言い切れない、か。
彼女の方こそ知らないフリをしている可能性もある。
現に尾道は彼女の病気について知っている。
尾道が約束を破り、俺に報告するリスクだって頭に入れているはずだ。
もしそうなら、俺は彼女とどう接するのが正解なのだろう。
答えのない迷いが頭を過り、俺はその場で立ち尽くしてしまう。
「羽島っち? どしたの?」
彼女はそんな俺を不審に思ったのか、近くまで駆け寄り、顔を覗き込んで来る。
「……何でもねぇよ。なんつぅの? 明日の仕事のこと考えたらちょっとセンチになっちまっただけだよ」
「そっかー。なんか社会人って感じだねー! アタシ、まだギリ学生だから分かんないや! あはは……」
約2年経った今でも休学中ということもあり、多少の後ろめたさもあるのかもしれない。
と言っても、3年の終わりまでには卒業に必要なほとんどの単位を取り終えているので、学業云々については心配ないだろう。
現在は治療と並行しながら、かねてからの目標だった映画の制作に取り掛かっている。
彼女曰く、人生のタイムマネジメントも監督の立派な仕事だそうで、その姿勢はこと映画制作においても顕著にあらわれている。
彼女の無駄のない制作進行により、人員の確保から必要機材の調達、スタジオの手配まで、事前準備に関しては一通りの目処を付けることが出来た。
その点は、素直に彼女に感謝するべきだろう。
だから、アレだけ一方的に連絡を断っておきながら、『映画製作スタートです!』の一文だけ送りつけて、シレッと関係を修復しようとしてきたことには目を瞑るべきなのである。
「羽島っちー! どうしたー?」
「お前までその呼び方すんな! 気持ち悪ぃ!」
前方から恥ずかしい呼称を叫びつつ、何故か一緒に買い出しに来ている同僚の米原が俺の様子を見にやってきた。
浜松は、『社会人になった羽島っちが上手くやれているか心配!』などと宣った。
だから俺は、社会人生活の証人として米原を紹介したのだが、これが思ったよりも意気投合してしまい、たまの休日はこうして3人で出歩いたりするようになった。
「でさ、これからどうすんだ? 朔良ちゃんの方の買い出しはもう大丈夫そう?」
「うん、とりあえず機材の方は大体OKかな。役者の方もコダマさんとか徳ちゃんたちも協力してくれるみたいだし、後は……、脚本だけだね!!」
そう言って彼女は視線で、何かを催促してくる。
俺は卒業式の日、尾道から浜松の病状について聞かされた時から、脚本作りに取り組み始めた。
実を言えば、もう既に粗方ベースは書き終わっている。
だが、ただ一つ。
ラストシーンだけがどうしても書けない。
もちろん、オチは決まっているのだが、それを表現するに最適な場所というか、シチュエーションがイマイチ定まらない。
彼女に相談するのも手だが、どうせなら初稿で納得のいくものを仕上げたいという下らないプライドが邪魔していた。
『脚本が完成するまでに出来ることはしておこう』と彼女から提案があり、今日こうして買い出しに出かけているわけだが、それは俺を急かす意味も込められているのだろう。
「……わぁーってるよ! せいぜい期待しとけ!」
「うん……。楽しみにしてるね。でさ、この後なんだけど、皆ちょっと時間ある? ちょっと行きたいトコあるんだけど、イイ?」
「はぁ? どこ行くんだよ?」
彼女の提案を聞いた米原は、俺と浜松の顔を交互に見渡す。
「……あぁー、悪い。俺、この後合コンあるの忘れてたわ!」
「お前はそれしかねーのかよ……」
「えーっ!? そうなの!? 残念だなー。イイトコ連れてってあげようと思ったのになー」
「そういうことだからさ、後はお二人さんで。じゃあな!」
そう言うと、米原はそそくさと帰路へついた。
「あのさ。全部……、知ってるんだよね?」
米原の背中を見送ると、彼女は小さく呟く。
その瞬間、急な目眩に襲われ、冷や汗が止まらなかった。
彼女はゆっくりと俺の方へ視線を向ける。
俺は彼女の顔を直視できず、既に見えなくなった米原の背中をいつまでも探し続けるしかなかった。
「……何のことだ?」
危うかった。
一瞬迷いも生じたが、何とかその言葉を飲み込むことが出来た。
一度、騙すと決めたからには最後まで騙し切る。
それが彼女への礼節だ。
「そっか……。そうだよね! ゴメン、羽島っち。変なコト言っちゃって。あと……、ありがとう」
彼女は試したのだろう。
俺にこの茶番を継続する意志があるのか。
「あのさ、ちょっと行きたいとこあるんだ。付き合ってくれない?」
「まぁいいけどよ。んで、どこなんだ?」
「ありがとう。そんなに遠くないんだ。だからちょっとだけ、ね」
そう話す彼女の姿は、いつもより少しだけ弱々しく感じた。
「ここは……、駅?」
「そう。駅」
彼女に手を引かれ、どこへ連れて行かれるのかと思えば、何のことはない。
今まで買い物をしていた商店街の最寄り駅だった。
「いや、駅ならこれから帰るんだから、わざわざ言わなくても……。何? 送って欲しかったの?」
「ううん、違うよ、羽島っち。アタシたちは今、駅に来たんだよ」
「お、おう……。まぁそうだな。確かに来たな」
彼女の意図が見えない。
その後も彼女は何を話すでもなく、駅前を行き交う人並みをただひたすらに眺めていた。
休日の夕方ということもあり、家族連れが目立つ。
中には、スーツを着たビジネスマンの姿も散見され、世の中には本当の意味での休日など一日たりともないことを実感する。
しばしの間、人並みを眺めた後、彼女が口を開く。
「羽島っちはさ。駅って聞くと、どんなイメージがある?」
「駅か……。あんま良いイメージはねぇな。ココから会社に向かうわけだしな」
「羽島っちはそうかもね!」
フフッと笑みを溢しながら、彼女は言う。
「でもさ。帰りもこの駅を使うんだよね?」
「まぁ……、必然的にそうなるわな」
「だよね。そうなると、羽島っちはココで一日を始めて、ココで一日を終えるわけだ」
「そうなるな……」
「羽島っちと同じようにさ……、今ココに居る人たちもそうだと思うんだよね。今日が終わった人もいれば、これから今日を始める人だっている。毎日、毎時間、毎分、ううん……。それこそ毎秒レベル。それくらいの間隔でみんなのスタートとゴールがつくられてる。そう思うとさ……、何か神秘的な場所じゃない?」
「オーバーな物言いだな……」
「だからさ、羽島っち。今、羽島っちがどんな物語を作ろうとしてるのか分からないけどさ。最後のシーンはココで撮りたいんだよね。一度終わったとしても、この場所でならまた始められる気がするから……」
夕日に照らされ紅潮した彼女の頬には、薄っすらと水滴が伝っていた。
彼女の涙を見たのは、それが最後だった。
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