〈7〉

 夕莉がはっと息を飲んだ。佳純はポンと彼女の肩に手をやって、「皆なら、翠君も懐かしがってくれると思うよ」と諭すように言った。


「そうだな。じゃあ、行ってみるか」


 夏央がさっと席を立った。


「考えてみれば、あの子、ずっと一人で戦っているしね。どうしていきなり夕莉と離れたのか、今なら訊けるかもしれないし」


 冬華も立ち上がって、にっこりと佳純たちに微笑んだ。


「翠君のクラス知ってる?」

「多分、二組。先生から聞いた」


 佳純の問いに、夕莉は自信なさげに答えた。


「あいつ、本当に何も言ってないんだな。しょうがねえなあ」


 夏央があきれたように溜め息を一つ吐いた。


「一年生は、ほとんど展示会だから、翠君がクラスにいるかどうかはわからないわね。友達と遊んじゃっているかも」


 冬華が持っていたパンフレットを取って、推測するように告げた。


 佳純は夕莉の背中をそっと押して促した。夕莉が覚悟を決めたように歩き出すと、ほかの三人もついていった。


 翠に会うことに、佳純の心も高鳴っていた。夕莉の幸せを願っている自分も嘘ではないと言い切れるが、翠に恋心を抱いていることも否定できなかった。結局何一つ行動に移せなかったけれど、会えるかもしれないという期待だけでよかった。


 廊下を抜けて校舎の南側に着き、グラウンドを見渡せる一、二、三組の教室に向かった。二組はちょうど真ん中にある。


 夕莉の視線が落ち着かない様子できょろきょろとしている。佳純も心臓の鼓動が速くなって、二人は自然と手を握った。


 夏央と冬華の後ろをついて歩くように、互いの足取りは頼りなげにふらついていた。


 受付係の一年生が二人、クラスの前にいた。机について「どうぞ寄ってくださーい」と明るく宣伝している。夏央たち上級生が近づくと、一年生たちはちょっと緊張気味になって姿勢を正した。


「急に悪いんだけど、青花翠ってこのクラスだよな?」


 一年生は顔を見合わせて「はい。一応」と意味深な台詞を放った。


「一応?」


 夏央がきょとんとして聞き返すと、「あ、いえ、何でも。青花君はこのクラスです」と一年生はあわてて訂正した。


 そのしぐさに佳純たちは疑問を抱きながらも、彼の居所を問うた。


「青花君は、今どこにいるか知ってる?」


 夏央の問いに一年生は不吉そうな顔をして「えっと……」と言いにくそうにしていた。


 何かあったのだろうか。彼に。


 佳純は不安を隠せなかった。しかしそれ以上に夕莉の瞳が揺れ動いていた。互いの握る手の力が強くなった。


「どうかしたのか?」


 夏央が問いただすと、一年生はおずおずと話した。


「今朝、体調を崩して保健室に運ばれました。もしかしたらもう帰っているかも。今朝っていうか、もうずっとこんな感じで、しょっちゅう倒れるし、もう勘弁してよって感じなんですけど」


 一年生の顔には明らかに迷惑している表情が浮かんでいた。言葉にも彼に対する棘が感じられた。


 佳純の心臓に、刺すような痛みが走った。瞬時に夕莉の顔を見る。彼女も頭から冷や水をかけられたような、呆然とした色のない顔色をしていた。唇が軽く震えていた。


「……教えてくれてありがとう。皆、行くぞ」


 夏央が、固まってしまっている佳純と夕莉の肩をポンと叩いた。そして大股で歩き出す。冬華も「行こう」と真剣な瞳で二人に語りかけた。


 佳純は夕莉と握っていた手を離して、おろおろと夏央たちについて歩いた。夕莉が横で兄の名を呼んだのが聞こえた。


   ○


 廊下を突き抜けたところにある保健室へ入ると、夕莉が「先生」と保険医のほうへ駆け寄った。


 保険医はまるでずっと待っていたかのように、柔らかな笑みを携えて「青花さん」と夕莉の肩に手を載せた。


「青花君。お友達が来てくれたよ」


 保険医が奥のカーテンをそっと開けて、中の様子を見た。続けて「……友達?  舞衣か?」と、あの懐かしい低い声が聞こえた。眠いのかどことなくとろんとしている声が、余計に懐かしさを増幅させた。


 カーテンの奥から、翠が現れた。


 しばらく経った間に背が伸びたのか、身体つきがほんの少しだけ大きくなったような感じがした。


 切れ味鋭い刃物のようなスッとした目に、困惑したような瞳が、その場にいる者を捉えていた。


「久しぶりだな、翠」

 

 夏央が代表して彼に挨拶をした。


「ああ、久しぶりです。すみません、ずっと忙しくて……」


 翠は夏央を見るとほっとしたように笑顔を浮かべた。「冬華先輩も久しぶりですね」と言いながらベッドから下りて、二人に歩み寄ろうとした。


 その時、夏央と冬華の陰に隠れていた夕莉が、ひょこ、と顔を出した。


 佳純も続けて翠の前に姿を見せたが、彼は自分には目もくれていなかった。


 妹の姿を見て、時が止まったかのように硬直していた。


 そして見る見るうちに、その冷たい美貌が殺気を漂わせた。


「お兄ちゃん」


 夕莉はそのことに気がついていないようだった。


「久しぶり。身体は大丈夫?」


 当然のように兄を気遣った妹に、翠は、突き刺すような鋭い視線を向けた。


「何でここがわかった」


 押し殺したような声に何かを感じ取ったのか、夕莉がおびえたようにビクッとした。


「一般クラスに移ってから、ずっと体調悪いって聞いて、お兄ちゃんのクラスの出し物に皆で行ったんだけど、いなくて、保健室にいるって言われたから」


 たどたどしく説明する夕莉に、翠はこれ以上ないほど殺気じみた瞳で、がなった。


「出て行けよ」


 その場にしんとした沈黙が流れた。皆が彼の威圧感に負けてたじろいでいた。


「あの、私、ずっとお兄ちゃんのことが心配で」

「うるせえんだよ!!」


 夕莉の紡いだ言葉を、翠は怒声で叩き潰した。夏央たちまでもがどうしたらいいのかわからず、互いに困惑した表情で見つめ合っていた。


「何でこうも俺の前に現れるんだよ! もういい加減離れろよ! 俺がどんな思いで……!」


 そう言いかけたところで、突如ドアが開いた。


 何のためらいもなく入ってきた一人の女子生徒に、全員が唖然とした。


 佳純は彼女を見ると「あっ」と小さな声を上げた。


 あの時、同じように堂々とデイケア組に入ってきた女子生徒―飯塚舞衣がいたのである。


「ま、舞衣?」


 夏央と冬華がそろって素っ頓狂な声を上げた。やはり彼らは知り合いらしい。


「あら、失礼。お取込み中?」


 舞衣はすました声で、冷静に事の状況を把握した。


「翠を迎えに来たんだけど。倒れたって聞いたから」


 先ほど夕莉が言ったこととほぼ同じことを言いだした舞衣に、ただ一人、翠だけが返事をした。


「ああ。来てくれてありがとう。一緒に帰ろう」


 翠は誰の顔を見ることもなく、保険医から学生鞄をひったくって、夕莉の横を通り過ぎた。


 妹に一瞥すらくれなかった。


 佳純は隣にいる夕莉から、あふれ出ている激情を、受け止めきれずに逸らした。


 翠は舞衣のもとへ行き、「いきなり大声出してすみませんでした、先生。それじゃあ先に失礼します。夏央先輩、冬華先輩、お元気で」としらじらしい挨拶をすると、バタンと無情にドアを閉めた。


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