〈2〉


 バス停のところで夕莉と別れて、七つ目の停車場所で降りる。新築マンションや立派な一軒家が立ち並ぶ住宅街の、小さな坂になっているその道を歩いた先に、佳純の家はある。正確には佳純が新しく住み始めた家がある。


「ただいまー」


 居間のほうに顔を出すと、親代わりの五十代半ばの女性―聡子さとこがソファーで洗濯物を畳んでいた。


「あら、お帰りなさい」


 聡子は佳純を見ると微笑み、冷蔵庫のほうを指差した。「アイス入ってるわよ。まだ暑いから」聡子の優しい声に「ありがとう。あとで食べるね」と返し、佳純は二階の自室へ行った。あの時の自分の家とは比べものにならないくらい広々とした部屋もようやく目に慣れてきたところだった。聡子が掃除してくれたらしい。床が綺麗になっていた。


「何でもしてくれるなあ。聡子さんは」


 佳純はボソッとつぶやくと、苦笑いを浮かべた。制服を脱いでハンガーにかける。部屋着に着替え、また一階へ降り冷蔵庫からアイスを取り出して食べた。バニラの味がじんわりと口の中に沁み出して、自然と笑みがこぼれた。


 佳純はアイスが好きだった。冬でも構わずアイスを食べた。しっとりとした口どけと甘い味が何ものにも代えがたい幸福だった。ほかに楽しむものがなかったというのもある。おもちゃやぬいぐるみなどは買ってもらえなかった。「金がないから駄目」という親の決まり文句に、いつしか佳純も兄たちもあきらめがついていた。


 今のこの家庭では、聡子が自分の欲しいものを買ってくれる。誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントだってくれる。ケーキもちゃんとした店のものを用意してくれる。佳純は聡子に感謝してもしきれないほどの情を感じていた。


「今日の夕飯はロールキャベツね」

「え、またあ? 私あれあんまり好きじゃない」

「好き嫌いしないの」


 聡子が注意するが、彼女は本当に怒っているわけではない。むしろ佳純が一人前の口を利けるようになったことにほっとしている気配さえする。この家に来たばかりの佳純はとても手におえるものではないほど殺気立っていった。それから比べれば、今の佳純は落ち着いている。きちんと聡子たちになつき、本当の子どもらしく振る舞っている。居間では二人の会話が楽しげに交わされていた。


 夕飯時、聡子の夫―みのるが帰って来て、三人はテレビを観ながら食事をした。


「青花さん兄妹は、どう? 元気にしてる?」


 聡子から訊かれて、佳純は夕莉の気の弱そうな丸い目の奥の弱弱しい瞳を思い浮かべた。あの子はまだ自分の足で立てていないきらいがあるが、前に進もうという決意はある。それとなく言葉を濁して「だいぶ元気になったかな」と曖昧に笑った。


 本当は、兄の翠は夕莉の家から出て行って、学校の寮に入ってしまった。夕莉と翠は今ではもう何の接点もない。彼は何の説明もなく、誰にも相談することなく、家族から離れてしまったのだった。


 聡子と稔には「双子の友達が大きな喧嘩をしてしまった」ということしか話していない。何となくあの二人のことを詳しく説明するのは気が進まなかった。


「双子って、すごく仲が良いのと、反対に仲が悪いのとで分かれるよね」


 佳純が何気なくそうつぶやくと、稔がテレビを見つめながらぼんやりと言った。


「あまりに近すぎるから、客観的に見られないのだろう」


 佳純はふいに家族のことを思い出した。


「うちのお兄ちゃんたちも、お父さんも、客観的に見ることができなかったってことなのかなあ」


 聡子と稔が気まずい表情になり、その場に糸がピンと張ったような緊張が走った。


 佳純はあわてて「まあ、私にはこの家があるからいいか」と声のトーンを上げた。聡子たちが目配せして、さっと優しい人間の顔をする。「私たちは、もう新しい家族だよ。お前の過去も、病気のことも、全部委ねていいんだよ。安心しなさい」と稔が言って、聡子がうなずいた。

 佳純は「ありがとう」と礼を述べた。

 白いご飯がだいぶ冷めていた。


   ○

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