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@kyoushi

第1話 香織(健治)

雨が降ってきた。

先程から、人波は絶えることなく続いている。

僕は、賑やか人々の往来を地べたにしゃがみこみながら眺めている。

やや身体が固くなっている。先程からずっと同じ姿勢でいたからだ。

かれこれ30分もずっとこのままだ。

新宿西口アルタ前は、夜でも賑やかで、人々の活気と喧騒に溢れている。

会社帰りのサラリーマン、OLさ、若者達、外国人の集団、ビラ配り、バンドマン、先程から何人もの女性に声をかけている茶髪でロン毛の男性。

皆、降り出した小雨を気にする様子もなく、淡々とどこかへ向かって移動している。

無秩序な人の流れを、僕は幼児の視点で眺めている。

「ごめんね。遅くなって。」

目の前に、女物の靴とその上に伸びるストッキングを履いた比較的形の良い脚が現れて、視線を上げると、コンビニの透明のビニール傘をさした見慣れた彼女の顔があった。

「どうして、傘もささずに待っていたの?濡れちゃったじゃない。」

「傘を買いに行って、香織さんとすれ違いになってしまったら大変だと思って…。」

「もう。しょうがない子ね。さ、早く帰りましょう。」

そう言って、彼女は僕の手を引っ張り、体を起こさせた。

彼女と二人小さなビニール傘に入り、お互いの片方の肩口が濡れながら、タクシー場まで行き、車を捕まえて、車中で彼女が言う。

「今日のご飯は何?」

僕はすかさず答える

「ほうれん草のソテーと、ベーコンオムライスにしたよ。食後には冷えたワインも用意しているよ。」

「あら、楽しみね。健治がが作るオムライスって、どこのお店のオムライスよりも美味しいから、私、大好き。」

「うん。ありがと。」


マンションに着くと、彼女は代金を支払い、オートロックの入り口から中へと入る。僕は彼女の後へとついていく。彼女の後ろ姿は、いかにも都会で働く「できる女風」に見える。ヴァンサンカンなどのファッション雑誌によく載っている格好をそのまま持ってきたみたいだ。

「ただいまぁ。」

今日の彼女は機嫌がいい。何か仕事でいいことでもあったのかもしれない。

「おかえりなさい。」

僕はなるべく愛情を込めて言う。

彼女が寝室に行き、着替えをしている間に僕はキッチンに行き、準備しておいた夕食を温める。

テーブルに一つずつ皿を並べて行き、全ての料理が並び切ったところに、着替えを終えた彼女が現れる。

彼女は薄いエメラルドグリーンのノースリーブのシャツに、いつものインド綿のふわっとしたパンツを履いて出てきた。

僕は彼女は今日はそう言う日なのだと感じ取った。いつも、彼女は部屋着であっても、露出の少ないものを身につけている。腕を出していることもほとんどない。今日の彼女の姿は無防備で、本人が気がついているかは分からないが、セックスアピールのサインだ。過去にも二度、同じようなことがあった。

人間は開放的な気分の時は、自然とそれが形になって現れる。夏に、「ひと夏の思い出」的に男女が自然と求めあうのあ、やはり夏と言う一種開放的な季節のせいだ。

「よく似合っているね。とても可愛いよ。そのシャツ。香織さんにぴったりの優しい色。僕、好きだよ。そのシャツを着た香織さんの姿。」

「ありがとう。今日、帰りに買ってきちゃった。それで、健治との待ち合わせに遅刻しちゃったの。ごめん。でも、健治にも見せたかったから。」

「うん。すごくいい色。その服も香織さんに買われてきっと幸せだよ。僕は時間なんていくらでもあるんだから気にしないで。僕は素敵な香織さんの姿が見られて。幸せだよ。美しい人と一緒に居られることは、男の子にとってとても嬉しいことなんだよ。さぁ、夕食にしようよ。座って。」


案の定、食事が終わると、彼女は求めてきた。ワインの力も手伝ってか。歯も磨かず、シャワーも浴びず、食事の後片付けもせずに、彼女は僕を寝室へと連れ込むと、衣服を剥ぎ取るように脱がし、先ほどあんなに自慢して居たシャツも投げ捨てるように脱ぎ去って、僕に覆いかぶさってきた。


夕食の後片付けをし、彼女のバックから、弁当箱を取り出して洗い、明日の朝ごはんと弁当の下準備をして、風呂に入り、歯を磨き、すべての作業が完了したのは深夜だった。

僕は、寝室で裸のまま眠る彼女の脇で、そっと身を横にして、彼女の寝顔を見つめる。


彼女の名前は中平香織。広告代理店に勤める25歳のOL。JR新宿駅からバスで15分のところにある2DKのマンションで一人暮らし。都内の有名私立大学の法学部を卒業したのち、某有名広告代理店に就職した。

「なぜ、法学部なのに、広告代理店なの?」

と私が地雷を踏んでしまった。

「私は、昔からよくお勉強ができた。8歳年上の兄が東大の法学部で、今は弁護士になってて、小さい頃から兄と比べられれ、私は両親の期待に応えるために、同じ道に進んだのだけれども、大学のときに付き合って居た彼氏が広告代理店に勤めることになって、私、その時、彼のことが好きで好きで仕方なくて、一時も離れたくなくって、結局親の期待も裏切って今の職業に就いた。でも、良かったと思う。あのまま、法の世界で生きていたら、きっとどこかで絶対後悔したはずよ。私にはまだ違う道があったのじゃないかって。」

そう言う彼女の表情は影が見える。

そう、彼女は、そんな自分の人生の岐路をになった男性と、就職後、一年足らずで別れてしまった。学生時代から4年間の付き合いは、お互いの時間のすれ違いから彼の浮気というあっけない形で幕を閉じた。彼女はそれから二年間はひたすら仕事に打ち込み、最近ようやく大きなプロジェクトに参加させてもらえるようになって喜んでいた。


僕が彼女に拾われて、もうすぐ二ヶ月になる。今日のように冷たい雨の降る新宿で彼女に拾われた。


「大丈夫ですか?」

ずぶ濡れ姿で、上目遣いで彼女をみる。彼女は今日と同じように傘をさしている。僕は、黙って体を震わせ、彼女を見つめる。

「とにかく立って。そのままじゃ低体温になっちゃう。」

僕は、差し出された彼女の手をとる。彼女の手は温かった。この季節の雨はまだまだ冷たい。僕は半袖のTシャツにデニムという格好で、明らかに周囲の誰よりも薄着だった。彼女は近くのGAPで僕に新しい服を買って、着替えるように命令し、僕が脱いだびしょびしょの服は、小さくたたんで、ビニール袋に入れて、自分のバックに入れた。僕はバックすら持っていなかった。彼女は近くにカフェに一緒に入るように命令する。彼女の後をついていく僕の歩幅があまりにも小さくて、彼女はなんども僕の方を振り返る。

カフェに入ると彼女は温かいカプチーノを二つ注文した。終始無言の僕い彼女は優しい声で話しかける。

「一人でこんな時間に何をしていたの。誰かを待っていたの?」

僕は無言で大きく首を横に振った。

「何をしていたの?」

僕は黙っている。彼女は訝しがる表情を見せた。

「い…。」

「あら、ちゃんと口がきけるのね。ずっと黙っているから口のきけない人かと思った。」

彼女の皮肉には苛立ちが含まれている。

「行くところがない…。シャツ…。ありがと。」

「片言ね。あなたは中国人?」

「いいえ。日本人です。」

「冗談よ。」

彼女の機嫌は少し良くなってきている。

「行くところがないって、あなたのお家はどこなの?」

「高田馬場です。」

「じゃあ、そこに帰りなさい。それとも何か帰れない事情でもあるの?」

「…。」

「言いたくないのね。でも、あなたは見たところまだ未成年でしょ。あんなところで、こんな時間までいたら、警察に補導されるところだったのよ。あなた、幾つ?中学生?高校生?」

「19歳です。」

「そう。だいぶ幼く見えるのね。」

彼女は半分疑うような目で僕を見ている。

「友達のところとか、親戚の家とかいくアテはないの?」

「ありません。」

「じゃあ、私が声をかけなかったら、あのままあそこで、雨に打たれて、夜を明かすつもりだったの?」

「何も考えていませんでした。でも、そうなったら、そうなったで構いません。」

「どうして?」

「…。」

彼女はカプチーノの入ったマグカップを両手で包みこむように持って、視線を落とし、長いため息をはく。どうするべきか彼女自身も迷っているようだ。やがて視線は窓の外の傘の群へと移動していった。

「僕の両親は随分前に交通事故で死にました。僕は母方の祖母と二人で馬場のアパートで暮らしていました。その祖母もおととい心不全で亡くなりました。両親は駆け落ち同然で結婚して、僕が生まれました。そしてあっさりと僕を残して逝ってしまいました。祖母は小さい僕を引き取り、一人で僕を育ててくれました。父方の祖父母も亡くなっていたし、両親ともに一人っ子で、他に兄弟も親戚もありません。元々心臓の持病のあった祖母は、3年ほど前から体調が芳しくなく、年金と僕の両親の遺産だけでは、僕の高校の学費と生活費、祖母の病院代でほとんど消えてしまい、高校もろくに行かずにバイトばかりしていたので、友達もありません。祖母の死後、もう何もする気が起きず、ただ町の賑やかな中に身を置いてぼんやりしていたかったんです。」

僕がそこまで言い終えると、彼女は先ほどまでとは打って変わって、真剣な表情で僕を見つめてきた。暫くあって、彼女は重い口を開き、やっとの思いでその言葉を口にした。

「うちにくる?」

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