夫婦岩

 

 大学受験が終わった。私も航平も陽菜も山本くんも、皆それぞれの第一志望に合格することができた。確定した未来に安堵しながら、身分のない三月を過ごす。


 卒業旅行の行先に選んだ場所は三重県の伊勢志摩であった。一日目に伊勢神宮を観光してホテルに宿泊、二日目には志摩市に移動して志摩スペイン村で遊ぶ。二泊三日の、まるで修学旅行みたいな日程だ。


「あ、せや。せっかく伊勢神宮行くんなら、夫婦岩めおといわも見ていこうや。このメンバーってのもあるし」


 という陽菜の提案により、新しく目的地が追加された。夫婦岩、というのを初めて聞いたのでスマホで調べて見たが、伊勢神宮とは場所がやや離れている。海から突き出した二つの岩が夫婦のように見えることからその名が付いたらしい。グーグルで画像検索をすると、それぞれの天辺を注連縄しめなわで繋いだ岩の写真が並べられた。すぐにグーグルマップに切り替えて、正確な場所を調べる。伊勢湾の二見浦に矢印が立った。


「伊勢神宮からは結構離れてるし、電車に乗らないといけないね」

「……出来れば、日の出と一緒の夫婦岩を見たいんよな」


 やや古風な感性だと思ったが、陽菜が偶にこういった性格を見せるのは皆知っている。


「じゃあ一日目のホテルをその辺にするか」

「二日目の朝は早起きしなきゃね」


 いつもの四人で色々と話し合いながら旅行の予定を決めていく。こう言った会議も旅行の醍醐味の一つである。四人の空いている日を調整した結果、伊勢参りの日取りは障りのない日になった。当然、これは幸運と見るべきである。予定日をずらす避妊薬の必要が無いのだから。





 旅行初日、早朝の地元の駅に集まった私たちは電車から新幹線まで乗り継ぎ、西に向かった。こうして四人で座席に座ると、中学の修学旅行のことが思い返されて懐かしい。まだ寒さの残る冬の終わり、冷たい空気を窓の外に眺めながら新幹線は進んだ。


 伊勢湾に臨む二見浦に到着した。駅からタクシーに乗ってホテルに向かう。チェックイン自体は夕方からであるが、問い合わせたところ荷物だけなら預かって貰えるらしい。このホテルから少し歩けば、陽菜の見たがった夫婦岩があるが、今はまだその時ではない。早々に荷物を預け、必要な手荷物だけを持ってホテルを出ると再びタクシーで駅まで移動、そこから伊勢神宮まで電車で向かった。最初は外宮である。



 伊勢神宮外宮の鳥居をくぐった先の、石砂利の敷かれた道は清浄な空気を纏っていた。まだ気温が低く、風の無い落ち着いた雰囲気は荘厳で神聖さを感じる。伊勢神宮は日本一のパワースポットとも言われるが、なるほど、その通りだ。外宮を御参りした後、バスで移動して内宮にも御参りをした。『心身の安定』、私の誓ったことはそれだけである。


 卒業旅行の初日はそんな感じで終わり、伊勢湾沿いのホテルに戻ったあと、夕食を取ってから大浴場で入浴を済ます。宿泊する部屋は二人部屋なので、私と陽菜、航平と山本くんの二人ずつで別れた。


「明日は四時起きだからね」

「早寝せんとあかんな」


 シングルベッドが二つ並んだ間にあるナイトテーブルに備え付けの目覚ましをセットして、念のためスマホでもアラームをセットした。明日の早朝に陽菜の希望の夫婦岩を見なければいけない。もし航平と同じ部屋なら、きっと明日は寝坊していただろう、そんな馬鹿なことを考えながら、日付が変わる前には私も陽菜も寝てしまった。




 翌朝、私たち四人はまだ日の昇らないうちにホテルを徒歩で出発して、夫婦岩のある岬へ向かった。海風の吹く薄暗い道を、四人で歩いていく。会話が少ないのは、きっと皆まだ眠気が取れていないからだろう。


 数分ほど歩いて、目的地の二見興玉ふたみおきたま神社に到着した。夜明け前の境内に入って、一応御参りしておく。この神社の目の前の二見浦に夫婦岩は存在しており、境内の中からでもその姿を拝むことができる。生憎と今は夜明け前、真っ黒な海面から時折反射する月明かりだけでは、夫婦岩の姿は見えない。


「このへんで待とか」

「そうだね」


 ちょうど夫婦岩を目の前にする場所に立ち、日の出を待つ。暁闇の中に静かな波の音だけが小さく響く。ぼうっと、そのまま立っていると徐々に空が白み始めてくる。太陽は未だ水平線の向こう側だが、雲に反射する光をして夫婦岩はその姿を曝される。初見だが、そこまで感動はしなかった。ただ、海面に浮かぶ二つの岩だなと、そう思った。左の大きな岩、男岩は隣の女岩の二倍ほどの高さで、二つの岩の天辺は大注連縄おおしめなわで繋がれている。男岩はその頂上に小さな鳥居を背負っている。自然の荒々しさの体現する岩に、人工的な注連縄はやや不格好にも思えてしまう。こんなものかと、どこか冷めた感情で日の出を待つ。




 しばらくして、遥か果ての水面より縁の揺らいだ太陽が徐々に姿を表してきた。不意にその光を直視してしまい、眩しさに目を細める。眼球の奥に残る光を堪えながら、再び瞼を開けて見た夫婦岩は、先の愚かな観念をいとも容易く打ち砕いた。



 背後に陽を昇らせた夫婦岩は色彩を失い、一つの陰となっていた。二つの岩を繋ぐ大注連縄も、岩下に荒れ狂う波も、生した苔も、すべてが黒に染まり、巨大な一つの鳥居が完成する。海に聳え立つ鳥居の左柱は右の柱よりも遥かに大きく太い。それらの柱を支える台石は不定形の波であるが、そこに恐れは存在せず、笠木の如く垂らされた注連縄は左上がりの斜めに掛けられており、一見するととても不格好に見えるが、しかし、それら全てが一つの陰となったとき、無秩序の象徴たる非対称性は、ここにおいてはむしろその荘厳さを顕すためのもののようにすら感じられる。


 静けさにより時間が止まったかのように錯覚させられるが、地平線からゆっくりと大きさを増してくる太陽が時の流れの正しさを告げる。波に反射する朝陽が時折、夫婦岩の陰に差し込む。もう少しすれば、この陰の鳥居は天照のもとに曝され、私の幻覚も終わるだろう。傾いていて、非対称の人工とも自然とも言えない鳥居は、しかし、それ故に美しかった。秩序だったもののみが内包するはずの、形而上けいじじょうの何かをこの鳥居は持っている。そう確信させられた。


 陽は水平線から遠のき、陰の鳥居は崩壊した。一瞬のうちしか存在しなかった、あの観念的な風景は私の内側にしっかりと刻み込まれた。目を瞑り、再び先の鳥居を思い描く。外界の情報を遮断して己の中に向けられた意識は、かつて存在したはずのジレンマに遮られることはなかった。


 きっと、これほどの安定は今だけのものだ。詩的体験の快楽によって痛みを忘れているだけなのだから、故郷に帰れば再び私の精神と肉体は諍いを再開するだろう。

 けれども、恐らく問題はない。今の私には、この鳥居が与えてくれた種火があるのだから。




 夫婦岩を見たあと、ホテルをチェックアウトしてから志摩スペイン村に向かって四人で遊び呆けた。実に楽しい、思い出に残る卒業旅行だった。


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