鍋
父からの電話で、こちらに戻ってくる正確な日取りを教えてもらった。地方での仕事の引き継ぎはほとんど終わったらしく、明後日の夜に帰ってくるらしい。その日はちょうど冬休みの最終日であった。
食べたいもののオーダーは鍋であったか。何の鍋にしようか色々と考える。帰宅する日は喫茶店のバイトも休みであり、料理に使う時間は山ほどある。父親が本部に栄転することになり、その祝いも兼ねて豪勢な夕食にしようと意気込み、スーパーで食材を探す。具材を選ぶだけでかなりの時間を使ってしまったけれども、こんなに楽しい気持ちで買い物カゴを抱えて歩くのは久々であった。
冷凍コーナーを物色していると、珍しい食材を見つけた。
「鯨肉か、めずらしいな」
少し高めの商品によく使われるデザインの発泡スチロールの皿にパック詰めされた鯨肉は、鮮度も悪くなさそうだった。
ふむ、鯨か。そういえば鯨肉を使った鍋があったな。材料も簡単に揃うだろうし、良いかもしれない。そう思った私は鯨肉のパックを買い物カゴに入れた。
帰宅してから食材の下拵えをして待っているとインターホンが鳴った。ドアスコープ越しに確認して、開けるとそこいたのは父の晴彦であった。スーツの上にトレンチコートを着ており、その手に持っている荷物はとても少なかった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
こんな日常のやり取りでさえ、私と父にとっては無上の歓びであった。
久方ぶりに帰宅した父がお風呂に入っている間に、鍋の準備をする。すべての具材が煮えたころ、ちょうど父がお風呂から出てきた。
食卓に置いた木製の鍋敷きの上にぐつぐつと煮える鍋を運んで、茶碗にお米をよそえば準備は完了である。私のものよりも大きな父の茶碗を使うのも久しぶりであった。手に余るサイズのそれを持つだけでも懐かしくなる。
「できましたよ」
「ありがとう、何の鍋なんだ?」
蓋がされたままの鍋を見つめる父が聞いてきたので、ミトン越しに熱い蓋を掴み、持ち上げる。一気に解放された蒸気の向こうに現れたのは、山盛りの水菜と鯨肉だった。
「ハリハリ鍋です、珍しく鯨肉が売ってたのでこれにしました」
「あまり聞かない鍋だな」
「ええ、近畿のほうで良く食べられてる鍋ですからね」
お玉で皿に具を盛り付けながら軽く解説する。この鍋を選んだ理由は、単純に鯨肉が珍しかったからと、『ハリハリ鍋』という名前が意地っ張りの父親にぴったりだと思ったからだ。後者の理由を言えば、父は拗ねるだろうか?
「美味いな」
「よかったです」
ハリハリ鍋は概ね好評だった。
食事が終わり、洗い物も済ませてから、食卓で父と向き合って座る。お互いにしっかりと目を合わせながら、真面目な顔で話をする。
先に口を開いたのは父の方で、頭を下げなからこう言ってきた。
「今まで一人にして、すまなかった」
「帰ってきてくれたのなら、それでいいですよ」
そもそも私は父をあまり責める気にはなれないので、謝られたところで特に何も思わない。
「で、これなんだが」
「はい」
父がカバンから取り出したのは小さな封筒であった。その封筒に書かれている文字を読まなくとも、それがDNA検査の親子鑑定の結果であることはわかる。封は切られていないので、父もまだ結果は見ていないらしい。先に見てくれていてもよかったのにとは思うが、二人で一緒に見ることに意味があるのも事実だ。
「まず始めに言っておく」
「なんですか?」
「もし、君が……美咲が血の繋がらない子供だったとしても、私は美咲を娘として認める」
「…………ありがとうございます」
表情を固くしながらそんなことを言う父親に感謝する。娘をほっぽりだしたとはいえ、この男の本質はこういうものであったのを思い出した。良く言えば真面目、悪く言えば愚直なのだ。
「ところで、どっちだと予想しますか?」
「……正直、五分五分だと思う。美樹が美咲を身籠ったときのことは何度も思い返したが、あの時期はそれほど……そういったことをしていなかった」
「そうですか」
子供の前でセックスという単語を使うのが憚られたのだろう。もう高校生なのだから気にしなくて良いのに。
「開けるぞ」
「ええ」
封筒の端にハサミを入れて、中の書類を取り出す。折り畳まれたその紙を、父の指先が開いてゆく。書かれている結果を見た父が、私にもそれを見せてくれた。一番下の行には、短くこのような文言が添えられていた。
『生物学上の親子である可能性:>99.9%』
「良かったですね」
「ああ……本当に、良かった」
顔を手で覆い、嗚咽まじりに呟く父親に対して、私は極めて冷静であった。別に、血が繋がっている確信があったわけではない。むしろ、私はどちらかと言えば血の繋がりを疑っていた。
親子の絆が改めて確認されるという感動的な出来事でありながら、私がこうも冷静でいられたのは、全てが丸く収まったことからくる安心のせいだろう。
妻に裏切られ、引き取った娘は自分に似ていない。そんな追い詰められた状況にトドメの左遷だ。これらの出来事が、どれほど父親の自尊心を傷つけたかは想像に難くない。
もし、左遷された先の地方都市に私がついていったとしたら、この男の精神はさらに追い詰められていただろう。
妻、娘、仕事での左遷、かつて存在した3つの傷口のうち、最後の傷は治り、2つ目は最初から存在していなかったことが判明した。あとは、再婚でもすればこの男の心の傷は全て消え去ることだろう。愚直な父の性格が再婚に向いているかは捨て置いて。
「お父さん」
「なんだ?」
「今度一緒に電気屋さんに行きましょう。古くなってきた家電がいくつかあるんです」
「ああ、わかった。約束だ」
どれほど不器用で、過去に傷を抱えた男にも、きちんと未来は訪れるのだ。
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