昇段審査

 

 剣道の三段への昇段審査を受けた航平だったが、結果は残念なことに不合格であった。武骨な彼の腕をして、似合わぬ手付きでアイロンがけがされた面手拭いは、意味が無かったのである。


 高校生で三段を取るのは難しいらしい。それならば仕方がないと慰めようとも思ったのだが、航平が消沈しているのには山本くんが合格していたことも影響しているのだろう。同い年の友人が受かってしまった以上、高校生で取るのは難しいのだから仕方ないという陳腐な慰めは効かない。私からすれば、山本くんは前世がある分航平よりもやや有利なのであるが、それを話すわけにもいかない。


 昇段審査に落ちて帰宅した航平に、私はとりあえず夕飯を振舞うことにした。ちょうど航平の母親が不在であったこともあり、この日の夕食は私の家で、二人きりでとることになった。



「残念だったね」

「……ああ」


 いつもよりずっと口数が少なく、普段の鋭い目つきもやや曇っている。こういうとき、なんとかして励まして元気を取り戻させるのも彼女である自分の役目かと思い、さて何をしようかと色々とプランを練りながら夕食を食べた。


 夕食を終えた後、私が洗い物をしている最中に航平が今日は泊まっても良いかと聞いてきた。航平の意図を汲んだ私は当然許可してやり、先に彼をお風呂に入らせた。今日は月のものも大丈夫な日であったので、ちょうど良いといえばちょうど良かったし、やはり航平の鬱々とした気分を晴らすためにはあれが最善であろうと私も思う。烏の行水の如く、すぐにお風呂から上がってきた航平のあと、私もお風呂に入った。


 入浴を終え、寝間着に着替えてリビングに戻ると航平がソファに座って何かの本を読んでいた。航平が本を読むなんて珍しいと思いながら、背後からその中身を覗くと、どうやら剣道に関するもののようだった。指南書というやつなのだろう、写真付きの細かい文字で色々と解説が書かれている。それを見る航平の目は真剣そのものであった。この状態の少年を邪魔するのも憚られるため、少し離れたところに座ってテレビを見ることにした。


 適当にニュース番組などを見ながら、横目に航平の様子を伺う。しばらくすると航平が本を閉じた。どうやらお勉強の時間は終わったらしい。そろそろ来るか、などと考えながら、私は一旦ソファーから腰を浮かし、航平のすぐ横の、肩が触れ合うくらいの距離に移動した。


 寝間着の袖が三度擦れあったが、航平は何もしてこなかった。ふと、これは私から来てほしいという合図なのだろうかという推論に至った。そういうことなら仕方がない、今日は私が積極的に奉仕するように取り計らってやろうと思い、触れ合った肩を起点にして体をぐるりと回し、航平の太ももの上に腰を下ろした。対面に座っているので、当然至近距離に航平の顔が見える。自分の顔は変なことになっていないか、なんて心配をしながら彼の目を見つめる。


 航平の目には、不思議と情熱が無かった。行為に至る直前に男が見せる、眼球の奥の煌めきが見て取れない。それを疑問に思いながら、まあ、体を深く寄せればその気にもなるだろうと、私は航平の鍛えられた胸板に頬を乗せ、寄りかかった。すると航平もようやく腕を動かして、私の肩を掴んできた。何からしようかと航平に上目で問いかけた私に対して、航平の返答は予想外のものだった。


「すまん美咲、やっぱ今日はなしで」


 肩を掴む手で私を少し遠ざけ、至極真面目な表情でそんな航平の言葉を聞いた時の、私の感情を如何にして説明しようか。まず、この言葉が耳に入った瞬間、私の目は涙で潤んだ。情動よりも先に肉体が反応したのである。この涙が何によって流されたものであるか、解明するために私の脳みそが思考を巡らす。


 まずこの涙は、決して航平に拒絶されたことが悲しかったがために流されたのではない。この程度のことで傷つくほど、私は航平にのめり込んではいない。それが最初に導かれた結論であった。ではなぜ、私は今泣いているのかといえば、それはつまり、己の浅慮を恥じ入ってのことだった。航平という男をあまりにも侮っていた自分に対する戒めの涙であった。

 けれども普通の女であれば、気分を害されたとして目の前の男に不満の一つや二つをぶつけるものだ。女を目指すなら、私もそうするべきだと思い、航平を罵倒するために唇を開いた。


「好きです」


 飛び出た言葉は理性が導き出したものではなかった。脊髄からでた指令なのではと思うほど、私の喉と舌は原始的な脳に支配されていた。涙ながらに歪な好意を伝えたからだろう、航平の眉が不可解だというように曲がる。つづいて開きかけた彼の口を、私は自分の唇で塞いだ。この行動もまた、本能的なものであった。とにかく目の前の少年に喋らせてはいけないと、そう思っての行動だと気づいたのはキスをして数秒後のことだった。理性が本能に遅れている。己の言動や行動に一貫した何かを見つけ出そうと、私の脳みそはフル回転で計算し続けていた。



 そのまま少しして、私が航平に抱いた感情が畏怖尊敬の念であることに気がついた。自分を拒絶した男に対してそんな感情を抱くなどどうかしている。けれども、一度そう結論付けてしまうとそうとしか思えなくなった。私の視界を歪ませるこの涙は、つまり感動によってもたらされたものでもあったのだ。今私が乗り掛かっているこの少年を、ただひたすら尊い存在のように感じた。


 目の前の女肉に溺れようとしない高潔さ、またそれに伴う何らかの決意。輝かしい未来が約束された男にしか発せられない輝きをこの少年は見せてくれたのだ。それに対する感謝からでた言葉こそ、先ほどの好意を伝えるシンプルなセリフにつながったのだろう。


 もしここで彼が、涙を流す私に対して愚かにも謝罪の言葉などを発してしまえば、その高潔な輝きは忽ちに失われてしまう。だから私は、彼の唇を塞いだのだ。この少年に何も語らせてはいけないと。

 唇だけを触れ合わす、雛鳥が己の親に餌を求めるかのような口付けを終えて、再び向き合うと愚かな彼はまた口を開こうとした。


「好き」


 短く一言発して彼の言葉を打ち消してから、当然、彼の唇を塞ぐために再度自分の唇をくっつける。



 そんな行為をなんど繰り返しただろうか、気がつくと私と航平はソファに倒れこんでいた。なんどもキスをしたせいで唇の皮が疲労している。そのため、この時の私は航平の頭を抱え、彼の鼻や口を自分の胸に押し付けていた。まるで宝物を抱きしめるような心地で、航平の頭蓋を寝間着越しの薄い胸に抱え込む。


「大好き」


 妄言のようにつぶやきながら航平の頭を抱きしめて離さない。端から見れば、昇段審査に落ちた少年を慰める理想的な彼女に見えるかもしれない。けれども私の胸のうちにあるものはそのような利他的な精神ではなく、抱えた宝物の刹那の煌めきを永久のものとしたいという、極めて利己的な欲求であった。


 航平は私の胸のうちに抱かれながらも、決して涙を流さなかった。その意地に私はさらに感動を覚え、また深く彼の頭を抱く。


「愛してる」


 子守唄のように愛を囁いていると、彼の呼吸が徐々に弱まっていった。どうやら寝てしまったらしい。起こさないようにソファーと航平に挟まれた腕を抜き取り、床に降りる。穏やかな寝顔の航平に、タオルを掛けてやってから私も部屋に戻ろうとした。


 するとその時、すぐ側で本が落ちる音がした。聞こえた方向を見ると、どうやら先程まで航平の読んでいた剣道の指南書が、彼の寝返りによってソファーから弾き落とされたらしい。床に向けて口を開け、いくつかのページがひしゃげてしまっているその本に、図書委員としての本能からか咄嗟に手を伸ばしかけたが、寸でのところで留まる。指先三寸の位置にあるその本を、私は拾わなかった。



 ソファーで眠る航平、床に落ちた剣道の指南書を残し、私はリビングの電気を消してから自室のベッドに向かった。



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