第64話

 首に巻き付いた私に免じてひとまず気持ちを静めてくれたらしいイェナは、細長い指でキスマークを撫でる。擽ったいやら恥ずかしいやらで落ち着かない。


「いつ消えるのこれ」

「さあ……1週間か2週間もすれば……」

 アロの印は本人のように粘着質でしつこく残っていそうだ。何となくそう思った。


 私の答えに納得がいかなかったのかまた顔を顰めている主。

「そんなにずっとアロの印が残るの?それは無理だな」

「……無理とは?」

 イェナが嫌がろうが反抗しようが、ついてしまったものは仕方がない。そう言って宥めようとするが、主は一人考え込んでしまう。


「……ああ、消毒すればいいのか」

「え?」

 そして出した結論にまた私は唖然とすることになった。

「“あれ”では恋人が消毒してたよ。あれ、上書きだっけ?……どっちでもいいや、オレもする」

 イェナが顎で指した“あれ”はもちろん少女漫画だろう。確かによくあるシーンだけれど、そもそもの大前提を忘れている。“恋人”ではないと先程確認したはずだが。


「いやいやいや……」

 またまた御冗談を……と言いかけて、ふいに見たイェナの顔が本気なのを悟る。

「じゃあ皮膚抉るよ」

「なに考えてるんですか!?」

 極端にもほどがある対処法に思わずイェナにチョップをかましかけて踏み止まる。少女漫画の定石では、絆創膏やらファンデーションやらで隠すっていう至極まともで在り来たりな方法もあるのだ。そう対策案を出して危機を乗り切ろうとしていたけれど、口を開くその前に──。



 イェナの唇が首筋に触れて、思わずピクッと肩が跳ねた。そのまま生暖かい舌が肌を滑っていく。キスマーク自体を漫画で知ったのなら、付け方なんて分かるのだろうか。そう考えているうちに、皮膚を吸い上げられる感覚がした。


 流石エリート、こんなことすら初めてでもスムーズにこなすのか──なんてどうでもいいことが頭に浮かんだ。

「……っ」

 漏らすまいと必死で声を押さえる。絶対に真っ赤になっているであろう顔。しかも恥ずかしさのあまり涙目なのも自分で分かっている。早くこの体勢から抜け出さないと、こっちが欲情してしまいそうだ。痴女ではない、断じて。


「お、わりました……?」

 肌から温もりが離れたところで視線を上げる。ばちっとイェナと目が合ったかと思うと、彼の顔がぐっと近づいて──。


 ──ちゅ

 言葉で書き起こせるほどにハッキリとしたリップ音が響く。唇に残る熱と柔らかい感触。頬を擽った黒髪に長い睫毛。一瞬だったけれど、全てハッキリ記憶した。


「……え?」

「……あ」

 されたのは確かに私のはずなのに、僅かに離れた目と鼻の先の顔はどうして“奪われた側”のような顔をしているのだろう。イェナの瞳に映る私も、彼と全く同じ顔をしていた。


「なんでイェナ様が驚くんですか……」

「……体が勝手に動いた」

 私は別に初めてでもない。喪失感も略奪されたようなショックも特にない。けれど──イェナはどうだろう。仕事ですることはあったかもしれない(偏見)が、何せ女に興味がないと言っていた男。プライベートで女性に口付けたことなんてあるのだろうか。ないとしたら……勝手にしてきたのは相手のくせに“奪ってしまった”と罪悪感に襲われるのはどうしてだ。


「ねぇ──もう一回してみてもいい?」

 そう聞かれてイェナを見上げる。その顔を見て改めて思い返すとカッと身体中に熱が集まった。


 イェナの“はじめて”に注目していたけれど、私はこの婚約者と唇を重ねたのだ。その事実に数十秒遅れて頭がパニック状態だった。自分がつくづく鈍いのだと思い知らされる。


「好きな人とのキスは甘いんだって。わかんなかったからもう一回」

 淡々と話しを進めていくイェナ。それも絶対に少女漫画の入れ知恵だ。ちょっとは動揺くらいしてほしいものだけれど──唇が離れた後数秒は確かに驚いていたが──それは無理な相談だろう。

「ダメです!!そんな試しにされる感じ嫌なんですけど!!」

 再び近付いてくる顔に気付いて咄嗟に両頬を掴んで止める。ぺちっと音がしたがこの際無視しておく。


「なんで」

「イェナ様が心からしたいと思った時だけ……受け止めます」

 私に止められてムッとしたイェナが「嫌なの」とまた答えづらい尋ね方をするものだから、そう答えるしかなかった。


 嫌じゃないし。推しとキス?夢のようじゃないか──なんて言おうものなら、これからどうなるか想像しただけで鼻血が出そうだ。変態でもないよ、私は。


「心から……ね、わかった。したいと思ったらその時はしてもいいんだ」

「……はい」

 頬に添えていた手を掴まれて指を絡めるとぎゅっと握った。そのままボスッと私の上に倒れ込んできて、真横にあるイェナの顔にドキッとする。彼がふーっと息をつくと必然的に耳元に息が吹きかかってくるから小さく体が震えた。


「……かわいいって思ったら、それはしてもいい?」

「──は」

「今のはたぶん、そう思ったからした」

「言葉攻めで殺す気ですか!!」

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