第55話

「……ごめん」

「……え?」

 珍しく素直にイェナが謝った。それはやはり昼間のことに関して……ではなさそうだ。


「オレは“普通”になれそうにない」

 まるで弱音を吐きだすかのように、小さく漏らした言葉。自信なさげな姿は初めて見る。

「どうしたら“普通”になれるのか考えた。でも答えは出なかったよ」


 ──話が、見えない。

 確かにこの婚約者は全くもって“普通”ではないけれど──それを本人に話した覚えもない。


「イェナ様……?どういうことですか?」

 恐る恐る聞いた私に、頬を撫でていた手が今度は首筋を這った。

「……だってナツは“普通”の男が好きなんでしょ。ノエンが言ってた。女はオレみたいな変な男、選ばないんだって」

 くすぐったくて身をよじるとイェナは満足したのか手を離し、布団を口元まで引き上げた。


「オレが“普通”じゃないからナツに嫌われるって。それなら“普通”のフランは好きってことでしょ」

 拗ねたように言ったイェナがどうにも可愛くて、本物なのかどうかも疑わしいほどだ。


 何度言わせるのだろうか、この男は。いつだってそばにいたいと思うのも、触れられて嫌じゃないのも、あれだけ怖いと思っていた男に──「大好きです」だなんて伝えるのも。イェナだからだっていうのに。


「……たしかにイェナ様は“普通”ではないかもしれません。でも私は“普通”じゃないイェナ様を好きになったんです。“普通”のイェナ様なんて、イェナ様じゃないです」

 何が“普通”で何が“普通”でないのか。そんなの、全て説明できる人なんてこの世に存在するのか。


「それに“普通”って、誰の“普通”ですか。イェナ様も以前仰っていたじゃないですか、人の数だけ考え方があるって。だからこの世に“普通の男”なんてものは存在しないんですよ」

 ノエンがよく分からないことを言ったせいだ。今度会ったら文句を言おう、そう決めた。


「それに変なのは私も同じです。“普通”はイェナ様みたいな人は選ばない……でも私は選んでしまったんだから、私も変なんです。だから──私たち、お似合いなんだと思いませんか?」

 捲し立てるように喋り倒したが、イェナは黙ったまま私の言葉を待っている。


「フラン様もノエン様もアロ様も──大切な方々ですが、私にとっての“唯一無二”な存在というべきでしょうか──それはイェナ様だけです」

 息を荒げてそう言い終わると、彼はピクリと反応を見せた。


「“唯一無二”──」

 何かを思い出す様に視線を彷徨わせた後──。


「──え」


 くすり、と小さく笑った。


 初めて見たその“笑顔”。熱に魘されているからだろうか。

 ああ、だめだ。その笑みを見てしまっては──こちらまで、熱が出てしまいそうだ。



「──ねえ、ナツ」

「はい……」

 軽く頭を抱えた私に、ものの数秒でまた無表情に戻ったイェナはまた凝視攻撃を始める。


「オレにはまだ“好き”っていう感情は分からない──けど、最近分かったことがある」

 ぱっと顔を上げると──むに、と頬を摘ままれた。最初に頬で圧死させられそうになったことを思い出すと……比べ物にならないくらいの優しい力に絶句する。


 そして私は──イェナの放った言葉に、思わず涙が零れそうになった。



「──オレは君に、“死んで欲しくない”と思ってる」


 彼の持てる全ての優しさが詰め込まれたような、イェナが参考にする少女漫画のどんなセリフよりも甘く聞こえる告白。


「──十分ですよ、イェナ様」

 涙ぐむ私の声は震えていた。でもそれが“喜び”からくるものだと、イェナにも伝わっていたようで、ホッとしたような表情を浮かべていた。


「やっぱり……他の男には、やりたくない」

 いつもなら淡々と吐く言葉も、ゆったりと聞こえる。熱や疲れのせいもあるのか、眠気が襲ってきたようだ。嫉妬じみた──否これはもう、明らかな嫉妬であると考えても自意識過剰ではないだろう。


 重そうな瞼がゆっくりと落ちていくのを見ながら、私は緩む頬を隠すこともしなかった。


 彼が完全に眠りに落ちるその瞬間──うっかり聞き逃しそうなほど小さく溢した言葉は、きっと目が覚めてもイェナは覚えてはいないだろう。

「ずっと……オレのそばにいればいいのに……」





「──あら、イェナ様眠ったのね」

「……アンさん」

 ノックの後、部屋に入って来た執事長はお盆に薬とおかゆを乗せて運んできた。

「どうしたのナツ!?顔が真っ赤よ?イェナ様の熱が移っちゃったのかしら」


 ──ああ、もうそこには触れないでほしい。


 両手で顔を隠しても、きっと耳まで真っ赤になっている。最後のイェナの言葉の破壊力には完敗だった。

「……イェナ様が無自覚胸キュン製造機すぎて辛いです」

「……は?」

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