第32話

「……って、あんなこと言われたら触れたくなっちゃうのがボクなんだけどなあ」

 イェナが出て行ってから数秒もしないうちに、アロがソファに背を預けて退屈そうに息をつく。そして思い出したようにぐっと私に顔を近づけた。


 ……うん、やっぱりイケメンだ。


「そういえば、“アレ”は役に立ったかい?」

「“アレ”……?」

 彼の真意が分からず聞き返せば、にたりと意地悪気な顔をする。


「イェナが珍しく恋愛話なんて始めたからさ。つい楽しくなっちゃって。少女漫画、ちゃんと読んでた?」

 アロの言葉にやはりか、と頷く。心当たりなど、一つしかなかったのだから。

「アロ様がイェナ様に少女漫画を勧めたんですか」

「うん、そうだよ。あのイェナが少女漫画を読む姿って面白いなぁと思ってね。ちょっとした悪戯心だよ」


 よくもまあ極悪非道の暗殺者に“悪戯心”で少女漫画を勧められるものだ、と感心する。それはやはりアロという男がかなり強いことを意味している。


「恋愛ごとに疎いイェナ様だから騙されたんですからね」

「騙すだなんて、人聞きが悪いなあ。少女漫画は恋愛初心者のバイブルじゃないか」

「夢見る乙女にはいらぬ誤解をも与える代物ですけどね」

 淡々と話す私にふふっと笑う。激弱で彼の強さを肌で感じることができない上に、イェナで耐性ができている私はアロを“恐怖の対象”として見ていない。怯えた様子のない私が新鮮だったようだ。

「冷めてるね。で、イェナの様子はどうだった?」

 期待の込められた目で見られるが、アロはどういえば満足するのだろう。


「めちゃくちゃ可愛かったです……」

 とりあえず本音を言ってみれば「ふーん」と驚いているようだった。

「どう?恋愛効果は?」

「心臓が止まりかけました。私の」

「それはよかった」

 アロにとっての“実験”は成功だったのか。私の答えに興味がありそうな、なさそうな……微妙な反応を見せた。



「──ところで」

 アロがソファから立ち上がった──と思ったら、瞬きしたその一瞬で向かいのソファ……つまり私の座るこのソファの目の前まで来ていた。綺麗に整った顔が目と鼻の先にあって硬直する。


「……え?」

 そのまま軽く肩を押されたら、油断していた私はあっけなくソファに倒れこんだ。

「ウン、やっぱり可愛いねぇ……」

「え?ちょっと」

 理解が追い付かないうちに私の上で馬乗りになる男。慌てて彼の胸を押して抵抗するが、当間のごとくビクともしない。


「マヴロス家は使用人も戦闘能力に長けていると聞くよ。キミも強いのかい?(そうは見えないけど……弱く見せるのもまた熟練者の証……)」


 さすが……というべきか、原作を熟読していたことはある。私にはアロの考えていることがほとんど分かってしまう。この表情は獲物を見つけたとき。その対象がまさか私だなんて。


「いえ!本気で激弱です」

 必死にアピールしてみるが、彼は信じてくれない。「またまた……」なんて言って顔が近づき、するりとスカートの中の太腿を撫でられる。

「うひっ」

 指先だけでそっと触れられて、擽ったくて思わず声が漏れてしまう。鼻がくっついてしまいそうなほどアロの顔が近づいて大声を出すのも憚られる。



「い、イェナ様……」

 か細い声で助けを求めた瞬間、ガンッと何かが衝突したような音が耳に響いた。


「……何してるの?」


 私はソファに押し倒されているため扉の方を確認することはできないが、イェナの声が聞こえたからホッと胸を撫で下ろす。


「おや、イェナ」

「……ねえ」

 安堵したのもつかの間──イェナはかなりお怒りらしい。なんとなくならば彼の感情の変化にも気付けるようになってきたが、今回ばかりは完全に声色で分かる。

 コツコツと靴音を鳴らして近付いてくるイェナが倒れこんでいる私の視界にも映った。


「本当に何してるの?」


「ヤダなあ。気を利かせてよ」


 それでも私の上から退こうとしないアロ。私はイェナに向かって聞こえるかどうかも微妙なほど小声で助けを求めた。


「言ったよね?ナツに触れたら──」

 殺気が勢いよく放出され、黒い靄が辺りを埋め尽くした。私にはまるで強い風が吹いたように感じるが、以前ノエンは「まるで無数の針がこちらに向かって一斉に飛んできているようだ」と言っていた。


 武器まで取り出そうとするのが見えて慌てて起き上がろうとする。


「イェナ様っ!落ち着いてください!」

 アロを押しのけるようにすると、今度はあっさり引いてくれた。

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