第8話 神学校

 私は大学院で新約聖書の論文を書き、その後神学校に入学した。私が神に仕える生き方を決め、神学校で学びたいと言った時、ある人がこの言葉を送りたいと開いた聖書の御言葉があった。


愛には恐れがありません。

全き愛は恐れを締め出します。

ヨハネの手紙 第一 四章一八節


振り返ると、私が神学生時代最も学ばされたのは、この言葉だった。

 神学校で学んでいた間、私は恐れでいっぱいだった。はじめに襲ってきたのは、それまでも神学を学んでいたことへのプレッシャーだった。神学校では私が入学以前も神学を専攻していたことが広く知られていた。学校の中では成績優秀者の名前の張り出しがあり、成績重視の学校のスタイルが、私にとって重荷となった。課題は何度徹夜しても終わらないほどの量だった。

 聖書の授業では解釈において斬新さが重視された。正統的とされる聖書解釈に異を唱える教員に対し、賛成しない学生は歓迎されなかった。それを見て私はその時間に嫌悪感を抱くようになった。

 学校は全寮制で、二百人以上の学生と共同生活をした。軍隊のような生活だった。キリスト教徒の学校でありながら、余裕をなくした学生の心の歪の大きさゆえに、盗難は日常茶飯事だった。諍い、妬み、情欲、あらゆる問題が起こっていた。毎日三食全校生徒と共に食堂で食事をとることが次第に私にとって苦痛になっていった。神学校で過ごすうちに、私は人と関わるのに恐れを抱くようになった。


同じ神を信じる者の集まりでありながら、なぜこんなことが起こるのだろうということがいつも頭をよぎった。学生は新学期になるたびに何人も辞めていき、そのたびに学校に対する不信感や遣る瀬無さが溢れた。あたかも学生は神学校を維持する使い捨ての歯車でしかないようだった。

 神学校在学中の教会での働きは、プレッシャーとの戦いだった。多くの指摘に応えようとするうちに人の顔色を見て説教の内容を考えるようになった。教会で恐れを感じる出来事が生じても、どこにも助けを求められる場所はなかった。奉仕のために朝目覚めても、過剰なストレスで体が動かない日があった。

 学校でも教会でも多くのことに追われ、徹夜をくり返してもやるべきことが追い付かなくなった。

 卒業に必要な論文を発表する場の雰囲気は、異様なまでに威圧的だった。聖書学に信仰は不要だとする主張がなされていた。


聖書は、聖書によれば、神が自身を人間に示すために人間に与えられた唯一の啓示である。それは人間がイエス・キリストによる救いを信じ、真の神を知り、神の栄光のために生きることを欲して与えられた。近代聖書学の歴史は教会支配のもとにあった聖書をキリスト教的権威のもとから自由にすべく、学問的に歴史的に究明しようとしたことを発端とする。現代の聖書学の世界では、既存の学説をいかに覆し、新しい学説を提示するかに中心的な関心があり、啓示としての永遠不変の聖書自身でなく、新たな学説が重視される。

パウロが、ヨハネが、福音書記者たちが筆を執ったのは、神の啓示をあまねく人々に伝えるためだった。聖書学は、本来彼らの指針を誰よりも深く追求し、パウロ達のバトンを受け取って、人々に、教会に、私たちが生きる時代に、聖書の語る真理を伝える役割を課されている、信仰と分離し得ない学問なのではないか。教父達、宗教改革者達にとって信仰と切り離して聖書学を行うことは有り得なかった。それゆえ彼らの聖書学は教会や歴史を動かすほどの力を持つものだった。しかし理性主義の時代が到来し、近代において信仰と聖書学は切り離され、彼らが行ったような聖書学――教理に反映され、教会に預言者的な役割を果たす聖書学――がほぼ不可能な状態となってしまった。理性主義は人を神とする。人にのみ信頼する。信仰は神を神とする。神にのみ信頼する。

このような時代の流れに呑まれ、神に身を捧げようと決心した者たちの学び舎である神学校で、神学から信仰が排除されていた。聖書は寓話でもおとぎ話でもない。史実であり真実の書である。


神学を学ぶとき、学問という人間の枠組みに神や聖書を閉じ込めることに私は次第に違和感を覚えるようになった

神に仕えるために学んでいるにも関わらず、神を無視して神学や聖書を学ぶことのどこに価値があるのかと問い続けながら学び続けた。

在籍していた神学校で神学を学ぶことへの恐れが生じるようになった。

 

自分の部屋で休もうとしても、毎日学校の中でなるチャイムが一日中寮の部屋にも響き渡り、次第にそれに耐えられなくなった。

 聖書の説きあかしである説教の授業では、説教する学生の欠点短所を全員が指摘する決まりだった。そのうち説教から恵みを受けることも、人前で説教をすることもできなくなった。

 教会に行くときに駅で線路を見ると、今飛び込めばもう何もしなくて良いのだいう思いが浮かぶようになった。

 入学してから三年目になると、何が辛いのか原因もわからなくなってしまい、生まれて初めて漠然と「死にたい」と思うようになった。

 学内の同調圧力が異様に強く、疑問を抱く者に対して非常に排他的な空気が流れていた。外から見るとおかしなことも、内部の人間は善意によってそれを加速させる。私が幼い頃から嫌悪していたものに再び出会ってしまった。神学校の閉鎖性はどこかカルト的な要素を生み出していた。ハンナ・アーレントの指摘した全体主義を彷彿とさせる世界だった。悪の凡庸さをまざまざと見せつけられた。罪に無抵抗な、義を忘れた集団だった。

神学校の中心にある何かが、完全に狂っていた。


 ある時から、もう学内にはいられなくなった。全てに耐えられなくなった。私の中に、クリスチャンや神学校への恐れがあまりにも大きくなってしまったのだった。


旧約聖書の原語であるヘブライ語において、苦しいと言う言葉は「狭い」という意味を持つ。

恐れを抱いた私は本当に狭い狭いところで絶望的になってしまった。学校を休んでいる間、何度か戻ろうとしたが、そのたびに嘔吐してしまい戻ることができなかった。


 それからは詩編一二○篇一節「苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた」という御言葉をにぎりしめて、祈りながら過ごした。

 キリストが嵐の湖でも船の中に共にいたという福音書の記述や、イザヤ書四三章の御言葉が私を勇気づけた。


恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。

わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり 川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。


 わたしの目には、あなたは高価で尊い。

 わたしはあなたを愛している。

 

 私はやっとのことで再び神学校に戻り、卒業した。

新約聖書のヨハネの手紙の中では、愛することと罪の中を歩むことが対比されている。福音書には、悪霊につかれた人が鎖につながれている描写がある。罪の中にいることはまさに鎖に縛られた状態と同じだ。神への信頼を失い、絶望に追いやられる。

 神学校で体験したことは、私自身の信仰が試された試練だったのだ。


ヨハネの手紙第一には、「兄弟を憎む者は今もなお闇の中にいるのです。兄弟を愛する者は光の中に留まり、つまづくことがありません」という言葉がある。


 私が恐れから脱出するために最も必要だったのは、神への完全な信頼だった。全てを支配するのは神だけであり、神の御手の中ですべては最善となっていく事を全く疑わずに信じることが必要だった。神にできないことは何一つなく、神は全ての上に立つ全能者であり、必要なものも歩む道もすべて神によって備えられることを、言葉だけでなく、本当に心から信じることが必要だったのだ。心から神に信頼すれば、人間を恐れる必要は無い。人は神の業に何もできないからだ。


神を信頼し、人を恐れないことは、神を愛することだ。そして、私たちに求められているのは、人に愛されること以上に、自分の方から先に人を愛することなのだ。

それは、その人が何か自分に利益を与えてくれるという理由によるのではなく、また自分のために人を縛り付ける為でも、嫌われないようにするためでもなく、「神を愛するがゆえに私は人を愛そう」という思いからの自由な愛である。神の完全な愛を受けたがゆえにそれを反映させる愛だ。

自分を愛する者だけを愛するのは簡単な事だ。しかし、敵を愛することが、キリストの生き方であり、十字架そのものなのだ。十字架を愛する者は、キリストに倣う生き方をする。愛すれば、恐れは消え去る。


恐れを感じない人生などない。

恐れは何らかの形で必ず私たちに訪れる。キリスト者にとって、恐れは神を人から引き離すものではなく、より強い信仰を得る為に与えられるものなのだ。

それゆえに、恐れの後にそれに勝る祝福があることが聖書に示されている。 「正しい人には苦しみが多い。しかし主はそのすべてから救い出してくださる」これは詩篇三四篇一九節の言葉だ。

神だけが、恐れによる苦しみから人を自由にし、広いところへ連れ出すことができる。


 そして、最も神に信頼しなければならない時期であるほど、「恐れ」はやってくるのではないだろうか。より強い信仰を得る為だ。


イエス・キリストもまた、恐れと戦った。

キリストが恐れと戦ったのは、十字架前夜のゲッセマネだった。夜が明けてからご自分に何が起こるか分かっていたキリストは、真っ暗闇で、たった一人で血の汗を流しながら祈る。「どうかこの杯をとりのけてください」

しかし、その祈りは「私の願うままではなく、あなたのみこころのままをなさってください」という祈りに変わっていく。

 最も恐ろしい場面で、キリストは神を絶対的に信頼し、全ての人への救いをもたらした。十字架の後には、キリストの復活が起こった。このことによって、キリストは堕落によってもたらされた罪と死に対し永遠の勝利をもたらしたのである。


神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

ローマ人への手紙 八章二八節


神がもたらすのはいつも絶望ではなく希望だ。「愛のない者に神はわからない。なぜなら神は愛だからだ」手紙の中でヨハネは語る。愛の中にいつも正しいことがあり、真理がある。


愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

ヨハネの手紙第一 四章七節―一二節


 神は愛である。聖書が語る真実のキリスト教は、つまるところ宗教ではない。キリストを信じることとは愛を信じることである。


愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

ヨハネの手紙第一 四章一八節―二一節


 ✝


聖書が示すのは自由を奪う宗教ではない。聖書は人に自由を与えようとする。しかし、罪が教会に入り込むと、それは人を縛り苦しめるものへと変わる。教会の中に、権威主義や閉鎖性が入り込むと、誰かが犠牲となってしまう。


神学生となってから、私にとって教会内や神学校内でのセクシャルハラスメントの問題は避けがたいものとなった。

 この問題は公に語られることがあまりなく、当事者は孤独を強いられる。愛と許しが語られる中、それができない自分を責め続けるのである。そのような状況ゆえに、私はセクハラを指摘することが愛ではないのではないか、公にしないこと、責めずにそれを忘れることがキリスト者として正しいのではないかと思わせられてきた。そこに陥っている間は、私の中で常に喜びが奪われた状態だった。しかしある時それは本当の愛ではないことにはっきりと気づいた。教会での情欲や姦淫の問題は、光の下に差し出して、明るみに出すべきだということをこの御言葉で示され、大きな希望が与えられたのだ。


悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

ヨハネの福音書 三章二○―二一節

 

加害者が自分の悪を認識できなければ、誰かが犠牲になり続ける。誰かが繰り返し同じ思いをする。そのままでは、加害者は一生誰かを傷つけながら生きるしかないのである。

 

神は、人を光で包んだとき、その人の罪を照らしだす。その罪を悔い改めるよう遅れることなく導き、神の喜ぶ生き方へと変えるのが神の愛だ。

 人を情欲の対象にすることは、暴力と同じである。対象となる身からすれば、今すぐ逃げたい、非常に危険な状況であり切迫した問題なのだ。今起こっている問題について公にされず、誰も止めなければ、それは暴力に加担することと同じであり、闇を闇のままにすることだ。

 暴力を受ける側は、ひたすら孤独に戦い続ける他はない。私は何度も教会や神学校にいるのが苦しくなった。自由に礼拝し聖書の言葉を聴きたいという思いと恐怖心との間で苦しんだ。なぜ義を謳う場所で被害者の自分の方が苦しまなければならないのだろうか。そのような状況こそが絶対に義ではないのだ。


『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなた方に言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。もし右の目があなたをつまづかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。もし右の手があなたをつまづかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。

 マタイの福音書 五章二七―三○節


キリストは情欲の目で人を見ること自体、つまりその思い自身に警鐘を鳴らしている。なされた事柄以上に、自分の抱いている思いそのものが悪いものだという自覚が加害者に全くないことが問題なのである。


 泣き寝入りしたこともあるが、二度目に起こった時は加害者に直接止めるように伝えた。被害は収まったが、怒りをかってしまい、三年間全寮制の学校で不安な思いをした。この時に、自分で伝えることが非常に危険であることを感じ、第三者に入ってもらう必要性を明確に感じた。それゆえ一人の教員に助けを求めたが、問題を理解してもらうことができず、その場で泣けた。ある教会では、問題を明るみに出した途端に追い出されてしまった。

当事者しかわからない気持ちだが、情欲の目で見られていることに気付いたとき、まず本当に恐ろしい思いをする。次に加害者を責める自分が悪いのではないかと思い、沈黙する。しかし止まないので恐怖が限界になり思い立って誰かに話をする。そして、それが理解されない時、絶望的な気持ちになり孤独に陥る。これが今まで必ず経験したパターンだ。


一度だけこれと違ったのはある教会での経験だ。その教会では、ある教会員について、彼の女性に対しての行動に問題があることが広く皆に認知されていた。複数の人間で注意して見守り、標的になる人間を皆で守っていた。私だけの孤独な問題ではなく教会自身の問題として捉えられていたのだ。教会は一つのキリストの身体であり、喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣くのが本来の在り方である。その本来の在り方が体現されていたのである。公にその問題について話せるだけでも、本当に気が楽だった。


内内に問題を秘めたものにし、被害者を増やすのを食い止めないことは、闇を闇のままにすることだ。

光のあるところに希望があるというのが、私に与えられた確信だ。

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