第6話 洗礼

 私が大学二年の時に、母が病気になった。そのことを伝える時に、母はこう言った。

「ヨハネの福音書の御言葉が与えられた」


 この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。

 ヨハネの福音書 一一章四節


教会を離れていた母は、再び熱心に教会に通うようになった。母は病気になる前以上に力を得て、生き生きとしていた。


母が手術を受けた日の夜は、それまでの私の人生の中で最も長い夜だった。その日、私は一人付き添いで母の病室に泊まった。呼吸器をつけて眠った母を前に、機械の音だけが鳴り響く病室で、私は非常に孤独だった。真っ暗な部屋のなかで、一睡もせずに朝を待ち続けた。不安で押し潰されそうだった。指先に至るまで、全身が震え、泣きながら過ごした。はじめての感覚だった。不思議な夜だった。


✝️ 


その後、母は順調に回復していった。

それから暫くして、ドイツのダッハウ収容所に訪れる機会があった。ナチスの設立したユダヤ人収容所の一つである。不気味な静けさの漂う、人間の罪の行く先を示すような場所だった。ダッハウ収容所にはカトリックの修道院があった。修道院内の聖堂で行われたミサの説教で、司式をした神父はこう語った。


「砂漠のなかにいのちがある」


ダッハウ収容所での神父の言葉は深く私の心に刺さった。砂漠とは、人を焼き付くすほどの熱い陽が照らす乾ききった過酷な場所であり、その説教においては、収容所を指していた。


私が「砂漠」という言葉を聞いたとき、思い起こされたのは、母の傍らで泣きながら夜を明かした暗い病室であり、いじめを受け続けた子供の頃の記憶だった。


そこにいのちがあったのだろうか。


最も深い暗闇のうちに、光があったのだろうか。


説教を語った神父は、そこにいる人々を見つめた。一人一人の人間の奥底にある、最も美しい部分を見つめているような深い優しさに溢れた眼差しだった。


 あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。

 マタイの福音書 二五章四〇節


帰国してから、私の内にひとつの変化が起こった。すれ違う人、偶然電車に乗り合わせる人、今まで私とは全く無関係だと信じていた人々への見方が変わったのだ。


キリスト教徒を迫害した使徒パウロに聞こえたのは「なぜ私を迫害するのか」と語るキリストの声だった。パウロの迫害した一人一人の人間は、キリスト御自身であったのだ。


私の目に映る全ての人は世界の基の据えられる遥かに前から生まれることを望まれた、唯一無二の人々となった。


私は子供の頃の学校の記憶に思いを馳せた。

キリストは十字架に掛けられ処刑される前夜、ゲッセマネの丘で、血の汗を流しながら神に祈った。「どうかこの杯を取り退けてください」夜が明けると何が起こるかが分かっていたからだ。彼に味方するものは誰一人いなかった。弟子達すらも、一人残らずキリストを裏切った。しかしこの祈りは「私の願う通りではなく、あなたの御心のままをなさってください」という祈りへと変化する。


✝️


人の幸せとは何だろうか。


経済的に安定した生活を送ることか。自己実現を果たすことだろうか。家族を得ることだろうか。仕事に成功することだろうか。名誉や称賛を得ることだろうか。


一七世紀に書かれた、ウェストミンスター小教理問答の第一条には次のように記されている。


問一 人のおもな目的は、何ですか。

答 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。


人は神の栄光をあらわすために生きている。

これが人の存在に対する聖書の答えである。人生の意味に対する聖書の答えである。

旧約聖書の詩編第一篇は、人の幸せについてこのように語る。


 幸いなことよ

 悪しき者のはかりごとを歩まず

 罪人の道に立たず

 嘲る者の座に着かない人。

 主のおしえを喜びとし

 昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。

 その人は

 流れのほとりに植えられた木。

 時が来ると実を結び

 その葉は枯れず

 そのなすことはすべて栄える。


聖書において、苦難は不幸を意味しない。アウグスティヌスは、キリスト者には苦しみが多いと語った。信仰を持つことは、人生と歴史により一層深く立ち向かう勇気を現すからなのだと。


私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、

人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、

悲しんでいるようでも、喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。

コリント人への手紙第二 六章八―一〇節


私は、自分が子供の頃に体験したことを不幸だとは思わなくなった。


不思議と、自分を攻撃していた人間や、それに同調した人間達を憎む気持ちが癒されていった。


私の目に映る景色は、すべて美しく輝くようだった。私は過去から解放された。人は自分以外の人間になることはできない。それゆえ誰にとっても、自分の苦しみを全て理解できる人間は存在しないのだ。しかし、キリストのゲッセマネの丘での記録を読むと、私が最も苦しかったとき、神はその最も近くにいて、完全に私の苦しみを理解していたのだと思った。人間の根源的な欲求は、誰かに自らのすべてを知り尽くしてもらえることなのかもしれない。

キリストは十字架の死から三日後に復活し、世の終わりまで共にいると人間に約束した。いまだかつて神を見た者はいない。しかし、それゆえに私のすべてを知り、私を最も愛しているのは神なのだと思った。


以来、私は自分の罪に目を留めるようになった。それまでは全く気づくことのなかった自分の醜さが見えるようになった。他者に抱く憎しみ、妬み、裁き。他者を貶めるような自分の言葉。まるで今まで全くの暗闇のうちに存在しており見えなかったものが、光に照らされて明るみに出てきたような感覚だった。


 私は誰に教えられたこともないのに、人を憎んだり、嘘をついたり、悪口を語ってきた。払拭したくても、消し去れない私の醜さである。どうして私は、知らず知らずのうちにそんなことを身に着けたのだろうか。聖書によれば、それらは私のうちに染み付いていた罪の性質である。

 

その全ての償いのために、キリストは世にこられ、私のために死んだのだった。過去に起こったことについて、憎しみの心を抱いていたとき、私自身の内にも何かに縛り付けられているような苦しさがあった。結局のところ、罪が最も傷つけるのは、他者以上に、自分自身なのだ。


その後、子供の頃祖母のいた教会で出会った宣教師に再会した。私は「洗礼を受けたい」と話した。その年のクリスマスに、祖母の通っていた教会で私は洗礼を受けた。


「なぜキリストの弟子たちは、キリストの生前本当に頼りない存在でありながら、『使徒の働き』にあるように、キリストの復活後は、全く別人のように強く、信仰に生きる者へと変えられるのだろうか」

大学入学前、聖書を読んでいて不思議に思っていたことは、自らの体験によって答えが与えられた。生けるキリストが、内側から人を変えるのである。


 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

 ガラテヤ人への手紙 二章二〇節


私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。

 ピリピ人への手紙 四章一三節


キリストの弟子たちは、キリストに出会い、キリストのいのちを得た。そして自身とキリストとを交換した人生を歩んだのである。

神学部で肩を並べて学ぶ神父やシスター達を見ると、教派は違えど彼らこそが理想の生き方をしているように思えた。彼らは遣わされたところへ愛を届ける働きをする。ただ神のために生きる姿は、最も自由で光輝く人生であるように感じられた。


私は彼らのように生きたいと思った。

神に仕える生き方をすると決めたとき与えられたのは、次の御言葉だった。


あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

ヨハネの福音書 一五章一六節


「あなたがイエス様を選んだのではなく、イエス様があなたを選んだ」

幼い頃見た洗礼式で聞いたその言葉が、再び私の中に響いた瞬間だった。

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