ハイデガー君、問題は解けたかな?
アガタ シノ
ハイデガー君、質問がある
「なあハイデガー君、質問がある」
図書館の奥のテーブルで本読んでいると、小さく呼びかける声がする。
読んでいた本から顔をあげると、そこにはいつもの無表情で先輩が立っていた。
学校の図書館は静寂そのもので利用している生徒もまばらだ。
それゆえに本を読むのには最適な場所で、今も読んでいた本に集中していたところだったので先輩に文句を言いそうになる。
ちなみにハイデガー君とは僕のあだ名である。
一時期、哲学の本を難しくてかっこいいと思っていた時期があり、意味も分からず読んでいた。
そのとき読んでいたのが、たまたまハイデガーの本だったという変哲もない理由で、いつのまにかこんなあだ名になってしまった。
「今、恋愛小説を読んでいるんだが不思議なストーリーでね」
先輩はその艶がある長い髪を少し後ろに払うと、なんだか言葉に詰まっている様子だった。
僕と先輩が内緒話をするみたいに、図書館でこそこそとやり取りしている姿は客観的に見れば多少ロマンチックに映るかもしれない。
しかし、実際にはこのやり取りはロマンチックさの欠片もなく、むしろ先輩と僕が図書館で行うルーティンのようなものと化していた。
それにしても今回の疑問は恋愛小説か。僕が苦手な部類である。
先輩、あなたは頭は良いんだからもっとこうなんか、高尚なテーマとか持ってきてくださいよ。
そう思わなくもなかったが、先輩の頼みとあってはとりあえず聞かないわけにはいかない。
「助けになりたいのは山々なんですが。その恋愛小説とやらは、どんなストーリーなんですか?」
僕が質問すると先輩はその恋愛小説のストーリーを説明してくれた。
主人公はどこにでもいる高校生の女の子。
ある日、隣の席に男の子の転校生がやってきた。
主人公は仲良くしようと試みるも、転校生からはなぜか偉そうな態度や嫌味を言われケンカばかり。
しかしある日、実は転校生が有名企業の御曹司であることを知る。
いろいろな危機を一緒に乗り越え、心の距離が近くなった主人公はその転校生と結婚することに。
めでたしめでたし。
ぱっと聞いたところ情報量が多く、テンプレの塊みたいな小説だなと思ってしまった。
そんな僕の考えとは逆に先輩は難しい顔を崩さない。
「私は疑問なんだ」
その恋愛小説とやらが、突っ込みどころが多すぎて疑問なんだろうか。
「どんなところが疑問なんですか?」
先輩は自分の疑問を一斉に吐き出した。
「この主人公は結婚をしたけど本来、就職や進学とかいろいろな選択肢があったはずだ」
「もちろん、結婚出来て幸せだと思う」
「でも本当に自由だったのだろうか?君は他に選択肢が無い状態で幸せになった人間を自由だと思うかい?」
先輩は黙っていれば美人だし、立ち振る舞いもどこか品があるように見える。
やや切れ長な目といつもの無表情のせいで近づきがたいクールな雰囲気が強いが、それでも間違いなく見た目の良さで学校内で一番目立っている。
正直僕も最初に見た時から綺麗な人だなと思った。
しかし、だ。
見た目は完璧に見える先輩にも残念なところはある。
それは疑問に思ったことは解決しないと気が済まない性分であることだ。
今回のように常人では思いつかないような疑問を投げかけては周りを困らせ、解決するまで一人で悩みこんでしまう。
僕は小説に真剣になりすぎじゃないですか、と言いそうになった。
普段読まない恋愛小説にむきになることもないだろうに。
しかし、先輩は真面目な表情だった。
それを見て喉まで出かかった言葉を引っ込める。先輩は凛とした声で問いかける。
「これをどう思う、ハイデガー君」
僕は悩んでいた。
無論、先輩から言われたよくわからない質問が原因である。
高校に入学して以降、先輩とは短い間だがそれなりに接してきたつもりだ。
あの先輩の疑問を持ちすぎる癖も、解決するまで黙ってしまう性分もある程度理解しているつもりだ。
しかし、今回のことはよくわからなかった。
恋愛小説で結婚して幸せになった主人公。
その主人公は自由なのか?という質問だった。
小説の中の話とはいえ、その人が幸せだからいいじゃないか、と思ってしまう。
生きている以上は幸せなほうがいい。
何よりそのほうがシンプルでわかりやすい。
その時は哲学みたいに必要以上に難しい言葉で人生を語っても意味はないんじゃないか、とさえ思った。
だが、それを言い出せなかった。
なぜなら、先輩の言い方は雑談とは思えないほど真剣なトーンだったのだ。
その雰囲気に気圧され軽々しく言葉にできなかった。
「また今度その質問に答えていいですか」と言い、その日は別れた。
自宅に帰ってからも考えがまとまらなかった。
部屋にある水槽の魚に餌をやりながら思考を巡らせる。
魚はいいものだ。人間みたいに悩まなくていい。
餌さえあればどこでも生きて行ける。
そんなことをぼんやりと考えていた。
そのとき一つの仮説が頭をよぎる。
考えすぎかもしれないが、それを確かめる必要があった。
水槽を見ると一匹の魚が餌には目もくれず水槽のふちにぶつかっていた。
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