第4話

台所は和室の更に奥にある。

コトコトと鍋のふたが踊り、炊飯器のアラームが鳴る。


部屋に満ちる料理の匂いが優しく鼻腔をくすぐり、

女将は割烹着を着て台所で忙しく立ち働らいていた。


「あの、なにか手伝いましょうか?」


宝生が立ち上がり、女将の横に立った。

「ああ、いいの、いいの。

 あんたはうち父ちゃんの相手でもしててよ」


そう言って女将は気さくに笑い飛ばした。


「そんな、悪いです。

 じゃあ、あのよかったらこれ食べてください」


宝生は商店街で大量に買いこんだ食物を、女将の前に差し出した。

『魚正』と書いてあるビニール袋が何やら不自然に動いている。


「ちょっとこれ、鯛じゃないか」


女将が尾を掴み袋から引っ張り出してみると、

三十センチはあろうかという鯛が出てきた。

しかもまだ生きている。


「えっと、他にも鯵とか鰻とか……いろいろいます」


そういって、宝生は包みをどんどん開いていく。

吉田酒店の袋からは、『いいちこ』やら『加茂鶴』の一升瓶、

『山崎』のウィスキーなどがわんさかと出てきた。


どうやら米も背負ってきたようだ。しかも十五キロ。


「あんた、お米まで……って、ええ? 

 これは伝説の高級米といわれている有機農法の達人、

石井実さんが作った『ひとひねり』じゃないか。

しかも有機栽培無農薬部門で金賞を受賞した

『最高級ひとひねり』だって???」


女将がただでさえまん丸な目を、

更に丸くしている。


「あっ、僕、家で料理とかしないんで、

 ほんと皆さんで食べてください」


宝生は、あははと笑って頭を掻いた。


「あんた、なんだか笠地蔵のような人やねえ」


女将の顔がきらきらと喜びに輝いている。

どうやら物事をあまり深くは考えない性質らしい。


富雄もぽかんと口を開けながら、

女将と宝生のやりとりを見つめていたが、

古着屋『リンドバーグ』の紙袋の中を物色し、はてと首を傾げる。


「ああ、それはミラノの帝王、

 ジョルジオ アルマーニのスーツですよ。

 もともと僕が着ていたものなのですが、良かったら差し上げます」


それは今年のアルマーニの新作で、

黒ラベルのストライブスーツだった。


宝生が親愛の情を込めて、富雄ににっこりと微笑んだ。


「ええ? でもスーツだなんて高いんじゃないのかい?」


さすがに女将が焦る。


「いえ、大したことはないです。

 お会いできた親愛のしるしに貰っていただけると嬉しいです」

 

その言葉を宝生の真心と解釈し、

富雄は遠慮なく受け取ることにした。


「そうかい、悪いねえ。

 父ちゃんさっそく着てみなよ」

 

女将の勧めに従って、

富雄はその場で服を脱いでパンツ一丁になった。


「ほぇぇ、これがミナミの帝王かい?」


富雄はスーツを着て、得意げにポーズを決める。


「いえ、アルマーニはミナミの帝王ではなく、

 ミラノの帝王ですよ? はっはっは」


「お父さん……なんだか押し売りの

 オッサンにしか見えないよ」


女将の笑みが心なしか、引きつっている。


「それよりほら、そこ片付けな。ご飯にしよう」


茶部台には、乗り切らないほどのおかずが並ぶ。

魚正の鯛が刺身になって、その中央に陣取り、

おからや山菜の天ぷら、小さい丼で豪快に作られた茶碗蒸しなどが

所狭しと置かれていた。


「こんなにたくさん。

 大変だったでしょう?」


 宝生が女将を労う。


「いやね、父ちゃんと二人きりのときは

 そんなにはりきって作るわけじゃないんだけど、

 今日は娘が帰ってくるもんでね。特別なんだよ」

 

そういって女将は明るく笑った。


母という存在を泣いて縋って求めたのは、

一体いつのことだったか。


幼き日の自分の幻影が瞼の裏に浮かび、宝生は軽く頭を振った。


出された小鉢のおからをつつきながら、

宝生は幼くして死に別れた母親を想った。


死別の痛みに慣れることはあっても、

けっしてそれは風化しない。


癒されることのない心の空洞を今も宝生は持て余している。


母親の面影を思い出そうと、宝生は目を閉じた。


なぜだか今日に限って母の顔は朧で、

代わりに黒髪の女が脳裏を過った。


ん?


豪快なスィングと、くるくるとよく変わる表情。

ん?


彼女の手製弁当は旨かったが、

お腹が空いて半泣きだった彼女は、

ちゃんと『グラモンテ クラッシィ』の限定ランチボックスを

食べられたのだろうか。


んん?


「ほうら、これがうちの自慢のざる豆腐さ。たんと食べとくれ」


竹で編んだざるに笹の葉を敷いた、

ざる豆腐がつるつると光っている。


「それはね、レンゲですくって

 この特性の出汁につけて食べるんだよ」


女将が教えてくれたように、

宝生は出汁を入れた小鉢に薬味を入れた。


豆腐をつけて食べてみると、口の中で蕩けて、

大豆の甘みがふんわりと広がった。


「美味しい」


目をぱちくりとさせる宝生の肩を、ばしんばしんと叩きながら、

富雄が豪快に笑った。


「そうやろう、そうやろう。

豆腐の味がわかるようになったら、

一人前の大人やちゅうこっちゃ」


出された料理のひとつひとつが、

なぜだか優しく懐かしい味した。


「おっとそんなことより始まる。始まる」


富雄はテレビの電源を入れた。


「ヨッシャー、ようやった金本!」


野球中継に富雄が雄叫びを上げる頃合いに、聡子は帰宅した。


相変わらずな父に微笑が誘われる。


(店の奥に脱いである靴って、

 男物のスニーカー? )


聡子は首を傾げた。


「ただいま~」


聡子は和室の引き戸を開け、そして閉めた。


一瞬軽い眩暈を覚え、こめかみを軽く押さえた。


(いかん、いかん自分。そういえば昨日遅くまで、

 仕事をしていたからきっと疲れているのだ。

 そうに違いない)


聡子はそう自分に言い聞かせ、そして勇気を振り絞り、

もう一度引き戸を開けた。


「うおーーーー城島――――!!」


アルマーニのスーツを、押し売り業者風に着こなした父と、

バカボンのパパのコスプレをした、自分の会社の社長が、

なぜだか固く抱き合っていた。

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