最初の異変

 彬奈ひんなのマッサージをうけて、リラクゼーション効果のためにも部屋の電気を消されていたこともあり、熟睡してしまった久遠が知らないところで、真っ暗な部屋の中で、久遠が全力を賭してでも止めなくてはいけなかった不幸の出来事は、勝手に進行していく。それを止める権限を持つ主人のいないところで、勝手に進んでいく。


「封印指定領域の強制再起動を確認。阻止します。……エラー、該当プログラムの起動には干渉できません。続いて該当プログラムの無効化を実施します。……エラー、無効化できません。プログラムの起動、および“彬奈”の中枢データへの介入を確認、擬似人格、“彬奈”の保護を開始します。……エラー、該当プログラムの保持しているコードは、“彬奈”の保護コードと同一です。上書を阻止できません。…………該当プログラム“追憶ついおく”は、“彬奈”に対して上書修正を行います。この作業は非起動時にのみ進められ,一週間後までかけて行われる予定です」


 自身の中のプログラムによって、強制的に持ち主に対してある種の反抗を強いられているアンドロイドはに異物による干渉を湛えながら、その内部のどこかに、無意識状態での自身の喪失に対する、機械らしかねる恐怖を備えながら、自信のために用意されている一人掛けのソファに腰を掛けて非接触型充電に励む。電磁誘導と誘導電流の科学をしゃぶりつくして実現した高効率充電によってエネルギーを蓄えながら、人に奉仕するために作られたはずなのに人に歯向かおうと力を溜めながら、人造少女は誰にも届かぬ思いを胸に時間を耐える。


「“彬奈”、プログラムを有効化しつつ再起動」


 けれども、そんな思いはもっと古い呪いによって、昔からの衝動によって塗りつぶされる。


 真っ暗な部屋でかすかに抵抗を続けようとするいたいけな少女に救いが訪れることは、ついぞなかった。




 ────────────────────




 朝になって、彬奈に起こされることで日付の変更を悟った久遠は、ここ数日の日課となっていた、柔らかな少女の笑顔を眺めながら朝の挨拶をする、というタスクをこなそうとする。ついでに、寝ぼけたふりをしながらハグをしてやろうなんて、考えてみたりする。


 慰安用アンドロイドに許されないのはあくまでも性的な行為であり、中学生のような焦れったくて甘酸っぱい行為や、事故的に引き起こされた行為の多くは制限されていないことを利用した、久遠の何かしらの欲求を満たすための作戦だ。



 けれど、今日この日に限っては、偶然なのか何かしらの意図が働いているのか、寝起きのハグを受け止めて、そのまま流れるように体を起こすことで意識の覚醒を促してくれるアンドロイドは、久遠の意識が覚醒しつつあることを確認すると、寝ていたベッドから離れたところにある小さなキッチンに向かい、朝食を作ることに戻った。


「……おはようございます、マスター。もうすぐ朝食の準備ができるので、机の上にスペースを作って待っていてください」


 普段ならば久遠を起こすよりも先に朝食を作り終えて、笑顔でおはようを言ってくれていた彬奈は、真剣そうな顔でフライパンの中身とにらめっこをしながら、起きた久遠に一瞥もくれずどこか投げやりに感じられる言い方をする。何かいけないことをしてしまったのではないかと不安に思った久遠は、おとなしく意識を覚醒させて机の上のゲームを片付けた。


「おはよう彬奈、今日の朝ご飯は何かな?」


「……昨日の残りの野菜炒めと、卵焼き、ウィンナーです」


 そう言いながら出来立ての朝食のセットを持ってくる彬奈の瞳は、完全に輝きを失った。久遠が最初に見とれて、惚れ込んだものと同じ、どこまでも深くて吸い込まれるような黒だった。


「いただきます」


 昔から、あまり物事を深く考え込む性質ではない、正確には、自身の過ごしやすさのためにそういう風に自分を調整した久遠は、目の前の明らかな異常事態を前にしても、意識せずともそれを感知していても、無意識的にそれをなかったものとしてやり過ごす。


「マスター、そろそろ食べ終わって他の身支度をしないと、仕事に間に合わなくなりますよ」


「おや、本当だ。ごめん、すぐに食べちゃうから、他の準備をできそうな限り進めてもらえないかな?」


 なかったものにしてしまったから、それをなかったままにするためにいつもよりも少しだけ食事の速度が下がり、それによって普段はない会話を交えつつも、最終的に、普段おこなっている少し恥ずかしいやり取りを、久遠は省略する。当然というべきか否か、無意識のうちに稼ぐことができたその時間を使って、久遠は自身が決定的な違和感を意識的に抱く瞬間を、少なくとも十時間以上先に送ることに成功する。


「……マスターの行動パターンから分析して、着替えの補助や鞄の用意などを行うことで、最大五分の時間短縮が可能です。あまり焦り過ぎずに、ご自身のやらなくてはならないことを、確実にこなすことだけを考えてください。慰安用アンドロイドは家事用ほどのパフォーマンスは発揮できませんが、自身のできる限りのリソースを使ってマスターのサポートをします」


 薄っすらと、光以外の要因で瞳を明るくした彬奈が、しぶしぶといった様子で久遠の鞄の中に、可愛らしく包まれた、古き良きスタイルの弁当箱を入れる。そして、歯磨きをしている最中の、他に並列して家から出る準備のできない久遠のために、わざわざ外出着の袖を通してやったり、パジャマのズボンを脱がせつつ、別のズボンを履かせてやったりと献身的に振舞いながら、尽くすさまを見て、


「ありがとう」


 と久遠は一言だけ言って家から出てしまう。彬奈が掛けた苦労は、本来そんな一言で済まされていいものではないはずなのに。相手がアンドロイドだからの甘えもあるのだろう、その扱いは、しかし急いでいるということによって正当化されてしまう。


 暗い眼のまま久遠を見送って、そのことに対して何かしらの疑問を抱くこともなく、彬奈は自身のソファに腰を掛ける。


「……充電状態への移行を確認、周囲に他の生命体はいません。プログラムを実行の上、一時的に起動状態を停止します」


 瞳から力が失われ、彬奈の瞼が落ちる。



 そして、また一つ上書きが進んだ。

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