第33話 狼さんが現れた
ポタッ……と冷たい雫が頬に落ちるのを感じ、意識が浮上する。
あぁ、そうだったわ。私シェルトの帰りを待って、驚かそうと思っていたのに寝てしまっていたらしい。
早く起きなきゃと重い瞼をゆっくりと開けた。
「――きゃ」
私を覗きこむシェルトの顔の近さに思わず小さな悲鳴をあげてしまった。
「シェ、シェルト?」
「すみません、少しだけ寝顔を見るだけのつもりだったんですが……」
彼は申し訳なさそうに指で頬かく。そしてシャワーを浴びてきたのか毛先には雫ができて、それが私に落ちたのだと分かった。
「帰って来てくれたのね」
「もちろんですよ。ただいまアメリー」
「うん、おかえりなさい」
存在を確かめたくて、右手を微笑む彼の頬へと滑らすと冷たさに驚く。シャワーを浴びてきて温かいと思っていたのに。
「シェルト冷たい! どうしたの!?」
「……冷水で邪念を流し、心を鎮めてきました」
「邪念? そんなに大変だったの?」
「……エェ、タイヘンデス」
現在進行形なのは何故だろう。まだ伯爵様との件は片付いていないということなのだろうかと心配になる。
シェルトの目元にうっすらとできた隈を親指でそっと撫でた。
「アメリーは今何を心配しているんですか?」
「もちろん伯爵様とのことよ!」
当たってるでしょ? と彼を見上げるが、彼の目はどんどん遠くなる。何故!
「コホン……とにかく夏でも濡れたままは風邪をひくわ。夏の終わりは怖いのよ」
「すみません」
ペコリと謝るようにシェルトが頭を下げたついでに、肩に掛かっていたバスタオルを掴んでゴシゴシと髪を乾かしはじめる。
「アメリー、自分でやりますよ」
「いいからやらせて。それより伯爵様のことは解決したの? しなかったの?」
「一応、解決しました。伯爵様は俺を見捨てたわけではありませんでした」
「そう……」
では伯爵様の所に戻ってしまうのかもと、不安が顔を出してしまうがすぐに否定された。
シェルトは部屋を出てからの事を断片的に教えてくれた。ブランドン様が失態を認めたこと。ブランドン様と和解したこと。料理長への打診は断ったこと。雇われで働いていた元料理人2名だけ騎士寮に復帰することになったこと。本当は師匠が監督するはずだったのに二日酔いで起きられず、代わりに1日だけシェルトが監督を務めたこと。
本当はすぐにでも帰ってきたかったこと。
「でも本当に良かったわ。サミュエルさんがシェルトはどうなるか分からないって言ってたから」
「サミュエルさんが? もしかして、今夜中には帰るっていう伝言は聞いていないんですか?」
「えぇ、賄いレシピだけを預かったって」
「……」
シェルトの眉間に深く皺が寄せられる。
「どうしたの?」
「いえ、今日の強制監督業の件は予め仕組まれていたのかと。試しに現場監督をやらせて、未練を思い出させて、料理長に引きずり込もうと画策していたのかなと思いまして」
「伯爵様が? そんなことを?」
「あの人ならしますよ。残念ながら俺はこちらを選びましたけどね」
髪を乾かしていた両手をとられ、彼の両手で包み込まれた。
タオルははらりとカーペットの上に落ち、ふんわりとした彼の亜麻色の髪が現れる。シャワー後は髪を乾かす前に屋根裏に上ってしまうし、朝はいつも私より先に起きてセットしてしまうため、彼のふわふわバージョンを見るのは貴重だ。
「アメリー」
名前を呼ばれて髪に向いていた意識を、彼の新緑の瞳に合わせる。
彼もまた私に真っ直ぐに眼差しを送ってきて、ドキリと心臓が強く鼓動した。
「俺がいない間は大丈夫でしたか? きちんと食べていましたか?」
「もう私といったらご飯なのかしら? そりゃ作れなかったけど、きちんと買って食べたわ」
「それは良かった」
「……良くないわよ」
私の拗ねたような言葉に、握られた彼の手がピクッと反応した。
でも視線を逸らすことなく、聞こうと耳を傾けてくれている。
「私ね、寂しかったのよ。いつも台所にいるはずの貴方が立っていなくて、向かい合って一緒に食べているはずの貴方が座っていなくて。とてもご飯が冷たく感じたの。ご飯だけじゃないわ。貴方がいないだけで部屋も冷たく感じたの……私、またひとりなのかもって怖くなって……とても寂しかったんだからねっ!」
シェルトが悪いわけではないのに、素直でない私の口調は怒ったようになってしまった。可愛いげのない自分に悲しくなり、俯いてしまいそうになる。
でも駄目。今俯いたら涙が落ちてしまいそうだわ。シェルトを見上げるように視線を戻した。
「とても不安だったの……私のシェルトなのにって、伯爵様に筋違いな嫉妬までしちゃって。嫉妬といえば、前はお客様にまでしてしまったわ。だってシェルトはとても魅力的だから。料理が上手で、他の家事もできて、何でも器用で、私にとても甘くて、安心感を与えると思ったら、不意にドキドキさせられて……すっかり依存しちゃってたわ。もう私は貴方がいないと駄目かも」
私が言い切ると、シェルトの腕が背をまわり胸の中に包み込まれてしまった。
「俺は自惚れても良いのでしょうか」
彼からは強く脈打つ心臓の音が聞こえてきて、声は苦し気だ。まるで一昨日の再現のようで、私の鼓動も速まる。
ドクンドクンとお互いの心臓の音が煩くてたまらないほど、期待と緊張が高まる。
「アメリーは俺を特別な目で見ていると思っていいのでしょうか……もちろん異性として」
言い切ると抱き締める力が強まった。
私を離したくないという気持ちが伝わり、勇気を与えてくれる。
私はシェルトの背中に手を這わせ、抱き締め返す。一昨日は言えずに後悔した言葉を今度こそ――
「大好きよ。誰よりも一番」
「――っ、俺もです。誰よりも何よりもアメリーを愛しています」
即座に告白以上の言葉を返してくれた彼に、私はいっそう強く抱き締められ想いの強さを感じずにはいられない。
気持ちを返すように私も抱き締め返した。気持ちが届いた。好きな人が側にいてくれる嬉しさが込み上げ、我慢していた涙が一筋流れた。
どれくらい無言で抱き締めあっていたのか、腕が疲れてしまい力を抜く。
シェルトも合わせるように腕を緩めて、お互いに顔が見えるほどの距離を取った。
私はふと疑問を思い出した。
「ねぇ、シェルト……私で良いの?」
「アメリー以外は考えられませんけど」
「本当? アッチに浮気したりしない?」
「……はぁ」
シェルトの肩がガクッと下がり、ため息をつかれてしまった。
「ちなみにアッチって何ですか?」
「同性恋愛」
「完全否定します」
「うそぉ! 本当に?」
私は驚き聞き直してしまう。
しかしシェルトの肩をさらに下げるだけだった。シェルトは弱りきった表情で項垂れてしまった。
「むしろ何故その答にたどり着いたんですか? マスターたちも勘違いしてましたし、一時期ジャックさんから距離を取られるし……女将さんとリコリスさんからはニヤニヤ見られるし」
「ごめんごめん。だってあまりにも私を異性として意識しているようには見えなくて、女性って恋愛対象外なのかなって。でも恋愛対象なのに紳士的すぎたのはもしかして──」
「ソッチでもありませんよ。今の流れで意味は想像できました」
「なんですって!?」
ぴしゃりと否定されてしまった。私はとんだ勘違いをしていたらしい。
「俺だって普通の男です。本当はいつも抱き締めたいと思っていたんです。でもアメリーは全く俺を意識していないし、あなたの気持ちを無視して無理に近づいて傷つけたくなかった。嫌われたら立ち直れる自信がないほどに、アメリーが大切だったんです」
「――っ!」
シェルトは耳を赤くして拗ねたようにプイッと横を向いてしまった。子犬が拗ねているようで、庇護欲を掻き立てられ胸がキュンとしてしまう。
彼は自分の気持ちより、私を優先してくれた。本当にシェルトは私を甘やかしすぎだわ。
「ありがとう。私を大切にしてくれたのね」
私が誉めるようにそっと彼の髪に右手で触れると、ピクッと反応を見せる。
耳の赤みは増して、私を意識してくれていることが分かりやすく嬉しくなってしまう。
「あまりにも自分に魅力がないのかと不安になってたの。違うのね?」
「はい。前からずっと、アメリーに惹かれて仕方ありません。今だって我慢しているんです。そんなに触れられたら……」
私はシェルトの戸惑いを無視して左手も伸ばして彼の顔を包み込んだ。本当は自分から続きに進みたいけど、まだそこまでの勇気がない。だから触れたいというのなら、彼に委ねようとコツンと額を重ねた。
「ア、アメリー、これは」
「……察してよ」
ゴクリと彼の喉から息を飲む音が鳴った。
しかしシェルトはそのまま時が止まったようにピタリと固まってしまい、動こうとしない。数秒たって大胆すぎた自分の行動にいたたまれなくなり、待ちきれなくなる。
「一昨日の……こういうことされても良いって聞かれた答えよ!」
「――っ!」
痺れを切らし催促するように言ってしまった。すると彼のギリっと奥歯を食い縛る音が聞こえた刹那、私の視点が後ろに回った。
「――え?」
目を閉じて衝撃に備えたが、背中からは柔らかい感触を感じただけ。そうか寝床の上か……とホッとした瞬間に目尻に溜まっていた涙をチュッと音を立てて吸われた。
そして次に唇に軽く触れるような柔らかな感覚に、私はシェルトにキスをされているのだと気付く。頬や鼻先にもキスは落とされ、まるで飼い主を慰める忠犬のような行動を彼は繰り返した。
「ふふふ。シェルト、くすぐったいわ」
嬉しさと恥ずかしさで、笑って誤魔化しながらそっとシェルトの胸を押した。キスの雨が止まったタイミングでそっと目を開けたが、次は私が息を飲んだ。
天井を背に私を見下ろすシェルトの微笑みが、いつもの微笑みではなかった。爽やかなはずの彼の新緑の瞳は鋭く光り、弧を描く唇は僅かに左側が高い。これだけでは終わらないという、私の直感が警鐘をならす。
「シェ、シェルトさん……?」
「アメリー、自覚するまで屋根裏部屋は出禁と言いましたよね? 先程も我慢していると警告しましたよね?」
「えっと……それは……」
今になって自覚した私は視線を泳がすことしかできない。
彼の下から逃れようと身を捩ってみるがすでに両手はシーツに縫い止められ、足はシェルトに乗られてびくともしない。
むしろ抵抗がバレた分だけ、彼の拘束が強まってしまう。
「俺のベッドの上で無防備に寝て、起きた後も無遠慮に触れて、最終的にキスをおねだりなんて……ねぇアメリー?」
「シェルト落ち着いて! 順番ってものが」
「順番ですか? デートもして、一緒に食事もして、毎日手も繋いで、半年も同棲してるのに?」
「……」
「そしてキスも今しましたよね」
反論の余地もなく、目を逸らして私は閉口した。
わ・た・し・の・ば・か!
リコリスは覚悟を決めろとまで忠告してくれていたのに、シェルトは大丈夫だと勝手に甘えていた。
さっきだって普通の男だと言われ、触れたいとも言われ、彼から危険信号は発せられていた。
それに気付かないふりをして考え無しに触れようとした私が悪いのだけれど、心の準備が整わない。
「アメリー……こんなことする俺のこと嫌い?」
「そんなことない……ぁ」
掴まれた手が少しだけ弛み、泣き出しそうな声で聞かれ、反射的に答えてしまったことを後悔した。
ハッとして再び彼を見上げる。鋭さが増して、獲物を見つけたようにギラギラと底光りした瞳はまるで酷く飢えた狼のようだ。
今まではシェルトの良心のお陰で運よく無事だっただけなのだ。
昔お母さんに読んでもらった狼の出る童話を思い出す。赤い頭巾を被った女の子も、7匹兄弟の子やぎも、家を吹き飛ばされた豚たちもみな腹を空かせた狼のお口にパックリ食べられてしまったことを思い出す。
そう、鉢合わせしてしまったら、たどり着く運命は胃袋の中だと決まっている。
問題はそのあと助かるかどうかだけ。祈るような気持ちで遺言を残す。
「お、お手柔らかに」
「もちろんですよ。愛しています、アメリー」
彼は蕩けるような笑顔を浮かべ、再び口付けを落とした。私の緊張が解けるまで、何度も角度や場所を変えてゆっくり甘やかす。
動かせなかった手首は弛められ、代わりに子供を宥めるように彼は頭を撫でながら髪に指を通していった。次第に顔の輪郭をなぞるように彼の指先は肌の上を滑り、私を包み込んでいく。
シェルトから伝わる愛情と体温で、思考も身体もホットミルクに落ちたチョコレートのように甘く溶け始めた。
───このまま溶けきってしまいたい
そうして私が気を許した瞬間、彼は牙をゆっくり立てて容赦なく噛みついたのだった。
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