第十四回 「峠を攻めろ!」




 岩のかたまりが、音を立てて転がり落ちていった。


 馬のいななき。


 脚を踏み外して落ちかけた馬を、クロエはとっさに飛び降り、手綱を掴んで引き戻した。


 馬体の重量にり合うよう、魔力を膂力に全投げする。


 両腕が、びきりと悲鳴を上げた。




「大丈夫か、クロエ⁉」


「——何とか! 馬も無事です!」




 後ろから声を掛けてくるミドラに、クロエは振り向かず答えた。


 興奮する馬をどうにかなだめながら、岩壁側に背を付ける。


 どっどっ、と心臓がさわいでいた。


 馬一頭がやっと通れるほどの、せまけわしい山道である。


 ハルヴァを先頭に、クロエたちは一列になって山越えを試みていた。




みな、この場は速く駆けようとせずともよい! 足場を確かめてから、慎重に登れ!」



「はは、慌てず急いで慎重に――ってね」




 中軍で指揮を執っているハイドゥシウスに、クロエは引きつった笑みを浮かべながらこぼした。


 文字通り、一歩間違えれば谷底へ真っ逆さまなのだ。




「ハルヴァさん。今、どのあたりですか?」


「半分ほどです。もう少し登れば、また傾斜もになると思いますが……」




 嚮導を務めるハルヴァが、振り返って言った。


 他の者の分まで担いだ荷物がさすがに重いのか、体力自慢の獣人もいささか疲れをにじませている。



 街道から北に外れ、谷間の低地を駆けている間はよかった。


 問題は、森の真北に至って山を登り始めてすぐ、一行は険阻けんそな山岳の斜面に行く手をはばまれることになったのだ。




「少しでも、急ぎましょう。この状態で、野生の魔獣に襲われたらと思うと、さすがに肝が冷えます」


「魔獣? まさか、このがけで?」


「ええ。四足の、高地にんでいる種です。斜面をまるで平地のように駆けて――こう、頭上から、落ちてくるように襲うんです」




 冗談ではない。


 ただでさえ登るのに苦労している今、そんな横やりを入れられては、一体どれほどの落伍者が出るか。


 クロエはうなづいて歩みを再開させたが、後ろの隊列はそろそろび出していた。




「後ろで、トラがせっついていなければいいですが」




 困ったように、ハルヴァが小さく笑った。



 遠眼にはそれほど高い山とも思わなかったが、中腹の地形がとにかく複雑なのだ。


 下からは見えなかった山自体の厚みが、幾層もの縦深陣地のように、はたまた天然の罠のように、行き止まりや局所的な断崖という形でクロエたちに進路の変更を余儀なくさせる。


 徒歩ならばまだしも、馬を伴っての進軍では、ある程度傾斜のゆるやかな山道を選ばなければまともには進めない。


 その果てが、この狭っ苦しい、切り立った崖路である。


 右手には、自分たちが駆けてきた谷間が見えた。



 しばらくして、道が下りになってきた頃、ふと左手に空間が開けた。


 草木の生えた、傾斜の緩やかな斜面に出たのだ。


 ようやく危機から脱したという安堵に息を吐く。


 後続を待って、クロエたちはそこで小休止を取ることにした。


 主だった面々と、車座に腰を下ろす。




「やばいな。連中と決戦するより早く、全滅しちまいそうな勢いだ」




 携帯口糧をかじりながら、ミドラが真面目ぶった顔で言い出した。




「姐さんが連れてきたんじゃないっすか! こんなの気合でどうこうなる問題じゃないっす!」


「落ちそうな馬よりなべ守ってる奴は黙ってろ」


「馬は落ちても馬肉になるだけっすけど、あたしの鍋が無くなったらご飯作れなくなるっすもん!」


「食いが優先の内はまだ余裕がありますね」


「イリオラ姐さんまで!」




 あしらわれているルルディアはともかく、他の者たちに動揺が広がっているのは確かにまずい。


 そろそろ、落伍者よりも脱走する者が出ないかを警戒した方がいい、とハイドゥシウスが進言してきたのも心配だった。


 ただでさえ兵力差がある状況で、無駄に兵を減らすわけにはいかない。


 そのために、行軍中はハイドゥシウスが中軍で眼を光らせ、殿軍にガトラシャが就いていた。




「ってか、途中からずっと上の方で魔獣っぽいのがこっち見下ろしてたんだが」


「えっ?」


「私も見たよ。あれ絶対狙ってたよね? 襲う気満々だったよね? めちゃくちゃ眼が合ったし」




 思い出したように言ったギネロに、水筒を傾けていたネルガも声を上げた。




「たはは、うわさをすれば、というやつですね。こちらの人数が多かったので、様子見に徹したのでしょう。誰かが遅れたり落ちたりすれば、真っ先に狙われたはずです」




 苦笑いするハルヴァに、クロエは思わず息を呑んだ。


 前世で、熊に襲われた者の体験記を初めて読んだ時のことを思い出す。




「何だ、クロエ? お前からしたら、魔獣の一頭や二頭、気にするほどのもんでもないだろうに」


「怖いものは怖いんです」


「あー? カブリ騎兵の大群でもばっさばっさ殺戮さつりくしちゃうくせに、らしくないこと言うんじゃないよ。みんなお前が年頃の女の子かと思っちゃうだろう」


「年頃の女の子なんですけど⁉」


「カブリ――騎兵って、何です?」




 首を傾げたハルヴァに、ミドラが馬賊を撃退した時の話を披露ひろうしにかかる。


 途中からルルディアまでもが興奮した様子で割って入り、如何にも誇張された――クロエ・ルルーは原野を埋め尽くすほどのカブリと魔獣の群れを、たった一人ですべて斬り殺したらしい――武勇伝が語られていた。


 古代の王が自分の偉業を碑文に記すにしても、もう少し手心を加えそうなものである。


 色々と言いたいことはあったが、楽しそうに聞いている一同を見て、クロエは抗弁を諦めたのだった。



 全員の息が整ったのを見て、行軍を再開した。


 先ほどのような不注意が即ち死につながるような悪路とまではいかずとも、斜面はきつく、また辺りに転がっている岩や倒木、それこそ生いしげった草木も前に立ちふさがる。


 時には馬を後ろから前から押し上げ引き上げてやりつつ、また邪魔な木々や巨石を取り除いて道を切り開きつつ、クロエたちはひたすら上を目指していった。


 やがて、疲労で足取りも緩慢になり、口数も少なになってきた頃、前を行くハルヴァが声を上げた。




「クロエ・ルルー殿! 来てください! 道が――」




 馬をきながら、斜面を登り切る。


 木々が途切れ、むき出しの岩場や土が、広場のように一角を形作っていた。


 比較的に平坦な土地である。


 空が、開けている。


 何より、クロエの視界に、広大な大地と、はるかにそびえる山並みが飛び込んできた。




「わァ……! やっととうげに出ましたね!」




 思わず、感嘆の声をらした。


 眼下には、目指すべき森も見える。




「それが、喜んでもいられません」


「え?」


「こちらへ」




 硬い表情で歩き出したハルヴァにいざなわれて、峠の向こう側をのぞく。




「ハルヴァさん? どうし——ッ⁉」


「危ないっ! クロエ・ルルー殿!」




 横から、ハルヴァに思い切り抱き止められる。


 ぱらぱら、と礫片が転がり落ちていった。


 クロエの片脚は、完全に宙に浮いている。




「な、な、何ですか⁉ これ⁉ どうなってるんです⁉」




 峠の反対側は、いきなり切り立った崖になっていた。


 てっきりこちら側と同じく緩やかな斜面が続いていると思い、不用意に近付いたところで、クロエはもろくなったふちに脚を取られたのだ。


 とっさにハルヴァが抱いてくれなければ、今頃は下の方で魔獣のえさになっていただろう。




「私が前に来たときは、これほどの断崖ではありませんでした。地揺れでもあったのか、誰かが意図的に崩したのか……分かりませんが、この険しさ、馬では無理でしょう」




 騒ぎを聞きつけて、後続も集まってきた。


 直ちに軍議に入る。




「賊が崩したのであれば、敵にも軍略に通じた者が居ることになりますな」


「そんな馬鹿な。賊がわざわざ峠を封鎖するなんて。それに、これだけの大掛かりな工作をする時間なんか無かったはずじゃ――」


「ネルガ殿。敵には、魔術師の一団が居るのですぞ。連中を動かせば、地形のひとつも変えられましょう」


「この際、誰がやったかはどうでもいいさ。問題は、どうやってここを抜けるかだ」




 ミドラが、ハルヴァを見遣る。




「迂回するにも、ここ以外はすべて急な地形ばかりです。道があるとしたら、一度下りてから、谷間を横回りに抜けるしかありません」


「結局、山ひとつ回ることになるってわけか」




 肩をすくめて、ミドラが言った。




「時間が、掛かり過ぎますね」




 同意するように声を上げたのは、イリオラだった。




「いっそ、ここに馬を置いていっては? 人だけならば、多少手間取りますが、どうにか下りられそうですし……」


「下山してから、森まで距離があるだろう。ここで馬を失うのは、ちと痛いな」




 ハルヴァの提案も、悪くはなかった。


 断崖といっても、まったく垂直というわけではない。


 見た感じ、ところどころに突き出た岩場を足場にして慎重に行けば、下りられないこともなさそうである。


 ただ、ミドラの言う通り、下山した後のことを考えれば、体力・魔力の温存のためにも馬は惜しかった。






「——さっき言ってた魔獣は、こんなところも自在に下りられるのかね」






 ふと、ミドラが崖の方を見遣って言った。




「え? あ、はい。このぐらいの険しさなら、楽に駆けていくでしょうね」


「ははァ。なら、話は単純だな」


「あっ、嫌な予感がする」




 嫌な笑みを浮かべたミドラに、クロエは思わず呟いていた。




「一騎、様子見で下りさせる。成功すれば、あたしらも続く。同じ四本足だ。魔獣に行けて馬に行けないはずがあるまいよ」


「いやいやいや⁉ どんな理屈⁉」


「無理に決まってるっす⁉ 落ちたらどうするっすか⁉」


「おめでとう。お前らには保険金がたっぷり掛けてある。——受取人はあたし」


「ルルディア、突き落としていいですよ」




 反乱が起きかねない。




「嬢ちゃんよ。大体、誰が一番に下りるんだ?」




 ギネロが言った。




「こういう時ァ、女子供が優先って相場が決まってる」




「——え? ちょっと……何でみんなこっち見るんです?」




 クロエの馬が、何かを悟ったように一度鳴いた。






「頑張れー、クロエ! 受け身だ、それだけ意識してたら何とかなる!」


「なるかァ⁉ これで死んだら、絶対に化けて出てやりますからね……!」




 結局、数の暴力には抗えなかった。


 ただいま、断崖の縁にクロエの騎馬が身を乗り出している。




「大将のお前が真っ先に駆け下ったら、あたしらも追わずに居られないだろうさ! 気概を示すんだ!」


「めちゃくちゃ言ってますね」


「いつものことっす」




 半円を描いて見物に回っているミドラたちに、クロエはうらめしげな視線を送った。


 が、ミドラの口車にまんまと乗せられて、大半の者はクロエが自ら志願して度胸を見せようとしていると勘違いしているらしい。


 どれだけにらんでも、歓呼の声しか返ってこないので、クロエは半ば投げやりに向き直った。


 端の方で、ハルヴァだけが心配そうにこちらを見つめていた。




「大丈夫いける大丈夫近所の坂道もこれくらいあったし義経だって逆落としで生きて一の谷だったわけじゃん大丈夫じゃんハンニバルだってアルプス越えてるわけだし大丈夫そうかハンニバルわたしハンニバルわたしはハンニバル大丈夫わたしはハンニバルわたしハンニバルじゃん大丈夫ハンニバル——」




「ハンニバルって誰っす?」


「さァな。王国の有名人じゃないか」




 自分に言い聞かせながら、馬上から崖下を覗き込む。


 五十メルタはありそうだ。




「——あ、アルシャ様! そうだアルシャ様、ご加護を……! いやほんとに! お世辞とかじゃなく!」




 桃花剣に向かって、必死に祈る。


 それを見たルルディアは「クロエがおかしくなっちゃったっす」なんて恐れていた。




「早くいけー!」


「さっさとべー!」


「うるさい! 他人事だと思ってからに! ——だああああ‼ 飛べばいいんでしょ飛べば!」




 適当なに怒鳴り返しつつ、クロエは大きく息を吸った。






「……チェッハアアアアァァァァァァァァァァ――――――‼」




「うわっ! ほんとに行った⁉」


「すげー……⁉ めちゃくちゃだよあの子……⁉」




 意を決して手綱を引き絞ると同時、馬が飛び出した。



 束の間、浮遊感と共に、視界を空が埋め尽くす。



 次の瞬間、クロエは我が身を襲う、思い切り殴られたかのような衝撃と振動に、たまらず悲鳴を上げるのだった。




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