1.0_レイと藍野
┗ 1.1_出会
7月、海沿いの横浜でも朝から気温が25度を超え、お天気お姉さんが『今日も一日暑いので熱中症に注意しましょう』と電光掲示板で注意喚起をしている。
通勤客や学生はみな日差しを避けるよう、足早に電子マネーを通して改札を抜け、ホームや駅ナカのカフェに入る中、周りの通勤客より抜きんでて背の高い一人の男が券売機の前で運賃表を見ていた。
(えーっと、みなとみらい駅まではいくらだっけ?……)
男は運賃表を確認し、財布から小銭を取り出して、投入口に入れた。
今時珍しく現金で切符を買っている男、出社中の藍野の姿があった。
彼はここ最近、大抵愛車か社用車と電車に無縁の生活で、いつもなら愛車で出勤のはずだが、生憎と車検中。
代車も手配したが、2日ほどふさがっていて手配できなかったとアシスタントの沢渡から聞いていたのに、ついうっかり電車用の電子マネーを会社のデスクの引き出しに入れたまま帰ってしまった。
(だけど電車ってホント久しぶりだなぁ。神戸では苦労したな)
買った切符を改札に通し、ホームで電車を待ちながら、藍野はぼんやりと思い起こしてくすりと笑った。
どこへ行くにも車で送迎されていた詩織から、普通の女の子みたいにみんなと一緒に出歩きたいとせがまれ、電車移動の護衛も行った。
いざというとき電車に乗れないのも困る、社会勉強として可能なら付き合ってやってくれと高坂社長の指示もあり、杜山と二人で電車用の警護計画を立てたものだ。
あの時は詩織の友人もいたから、自分達がべったりと張り付く訳にもいかず、人混みの車両で、詩織から目を離さず、周囲を警戒し気を張り続けて数倍気疲れした記憶がある。
急行が通り過ぎる風圧で意識が現実に戻され、少し待つと各駅停車がホームに滑り込んできた。
人に流されて押されるよう電車に乗り込み、周りより高い目線で車内広告を眺めていると、あっという間に勤務先の最寄駅に着いた。
藍野が電車から降りると、同じように別の車両から女性が一人降りて来たが、足元はフラフラしており、目線がベンチを捉えて腰掛けた。
かわいそうに随分と気分が悪いのであろうか、彼女は青い顔をして頭を下げていた。
オフホワイトのジャケット姿でオフィシャルな恰好だが、日本人で勤め人ならありえないくらい色の薄い茶髪。
ヘアアクセサリできっちりとまとめ髪にしてあり、切れ長の目はどこかで見たような面差しだが、もやがかかったように藍野は思い出せなかった。
どちらにしても、辛そうなのは変わりない。
仕事柄色々な人種を見てきた彼は、日本人ではないだろうと踏んで藍野は英語で話しかけた。
『あの、大丈夫ですか?』
英語で話しかけた藍野を見て、女性はきれいな日本語で答えた。
「ありがとうございます。少し電車に酔ってしまって。休めば大丈夫ですから行ってください」
女性は薄く笑って答えたが、顔色は蒼白でとても放って出勤できるものではなかった。
「ああ、日本語話せたんですね。失礼しました。ちょっと待っててください」
藍野は顧客対応の感覚で近くの自販機からペットボトルの水を買い、いつもの癖でつい膝をついて目線を下げて渡した。
「どうぞ。飲めそうですか?」
女性はこくんと頷き、受け取ってキャップを自分で開け、一口飲み下すと再度蓋をして、冷たいペットボトルを首筋に当てた。
体温も少し下がったのか、ほっと表情を緩めた。
「私、父が日本人でどちらも話せます。噂には聞いていたんですが、アメリカの電車と違ってこんなに混雑するんですね。びっくりしました」
「日本の夏は蒸し暑いから満員電車は余計にきつかったのかもしれませんね。これからどちらへ? 良ければ出口まで送りますよ」
こんな朝の時間帯では店も遊園地もやっていない。
身なりや持ち物から少なくとも観光ではなく、仕事関連だろうと予測はついた。
「アルストーリアビルのD棟です。
少し休んだからか、幾分血の気の通いだした顔色に藍野は少しホッとして「そうでしたか。なら近いですね。俺はA棟なんで、出口までご一緒しますよ」と立ち上がりながら申し出た。
「A棟というと、HRFの方ですか?」
藍野は社名がすぐに出てきた事に少し驚いた表情をしたが、それを見た女性は一瞬はっとして、「その、知り合いが……」と言葉を濁した。
「よくご存知で。俺はそこの警護員です。D棟はお仕事ですか?」
藍野が特段気にせず言葉を繋ぐ様子にホッとして、女性は答えた。
「今日は仕事のオファーです。面接が上手く行ったら、来週からこのビルに通うことになります。この暑さにも早く慣れるといいのですが……」
暑さもそうだが、緊張もあったのかもしれない。
こわばった顔が緩めばと、藍野は話題を変えた。
「D棟ですか、どんな仕事かお聞きしても?」
「私、エンジニアなんです。新規プロジェクトのプログラマーにオファーを貰いました。これでお給料がもらえるといいのですが」
「アメリカでも同じ仕事を?」
「はい。ずっとプログラマーです。あなたは?」
「俺もそうです。ずっと警護員。すごいね。俺、IT系はさっぱりだから」
「私だって運動は苦手ですよ。あなたバスケとか得意だったんじゃない? 向こうじゃバスケやアメフト選手ってモテるわよ」
「ははっ、確かにこの身長生かしてバイトしてましたよ、バレーボールでしたが。でも日本じゃここまで大きいと別にモテたりしませんよ。俺、生まれる国、間違えたかも」
出口からはもう彼らの目的地のビルが目の前に見えている。
グループのビルは高さの違う4棟が横浜港に沿って建ち、A棟とD棟で、ここからは二人とも別方向に歩いていく。
「面接、うまく行くよう祈ってる。頑張って!」
「ありがとう、あなたも行ってらっしゃい」
二人は名前も聞かず、手を振って別れた。
※ ※ ※
藍野と別れた女性はD棟の一階ロビーに立っていた。
メイクを直し、スマホを覗くと約束した時間の15分前。
面接場所はこのビルの26階だからすぐについてしまう。
もう少しだけ一階で待とうと手近な椅子に座ると、スマホに着信があった。
相手は彼女や白鳥博士のアシスタントだった。
『おはようレイ。緊張してるかい?』
『おはようリアム。少し緊張してるわ。それにこっちは暑苦しくて参ったわ。本当に暑くて苦しいのよ!』
『ははっ! アメリカと日本では種類の違う暑さだからね。今日の気温、たったの82.4℉(摂氏28℃)なんだよ。信じられるかい?』
『湿度が高いだけで、アメリカよりも気温は低いのにすごく暑く感じるのね。早く慣れるといいんだけど』
『研究所はどこも空調が効いて快適だったからね。辛いなら暫くはタクシーで移動すればいいよ。何かあったら連絡して』
『ありがとう、リアム。じゃあ面接、行ってくるわね』
『レイならきっと大丈夫! 幸運を祈ってるよ』
通話を切るとメッセージアプリに着信があった。
早速開いてみると、相手はリアムだった。
『これ、日本のLucky Charm《幸運のお守り》だって!』
次に左手を上げた招き猫の写真が送られて来た。
――招き猫はね、右手は金運を、左手は人を持ち主に呼び寄せてくれるんだよ。
小さなころ、確か父がそう言っていた事を思い出し、レイはクスリと笑って、リアムに返信した。
『リアム、それは人を呼ぶ方の猫で面接には効かないのよ。でも、優しそうな人に出会えたわ。ありがとう』
名前も聞かれなかったけど、日本人にしては珍しく紳士的なふるまいで、HRFの警護員なのに嫌な感じが一つもなかった。
どこかでもう一度会えたら、貰った水のお礼くらいはもう一度したいと招き猫に願い、スマホを閉じるとレイはエレベーターから26階に向かった。
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