第28話 それぞれの場所で

『李仁さん。心配かけてごめんなさい。私はちゃんと無事でいます。今はまだ、気持ちの整理がつきません。しばらくの間、もう少しだけ私に時間を下さい。

きっと、貴方は心配で夜も眠れないでしょう。食べ物も喉を通らないかも知れません。本当に本当にごめんなさい。愛しています。

必ず、必ず貴方の元に帰ります。  棗』


 棗からの手紙にはこう綴られていた。李仁は視線を手紙に落としたまま、その手を小刻みに震えさせていた。その手の震えを智也がそっと己の手で抑えた。


「良かった、とは言い難いが元気で生きてはいる事が分かったじゃないか。人生、こんな時もあるさ。ほら、絶対に帰るとあるじゃないか。信じて待っていてやれ」


「なんでだ。愛していると言いながら何故帰ってこない。何故だ!」


 智也の言葉も、棗の手紙も、分かってはいるが理解ができない。

 どんな事も包んでやれる。棗と一緒ならどんな事でも耐えられる。なのに何故、自分を頼ってくれないのだ。

 棗の裏事情など分かるはずもない李仁は悶々とするばかりだった。それを間近で見ている智也もまた辛かった。幸せになれば良いと思って身を引いたが、よもやこんな事になろうとは。

 新婚家庭にまだ智也は一度も帰っていなかった。家で待つ新妻よりも、李仁の事を気にかけてしまう自分に戸惑っていた。

 今更だが、結婚などすべきではなかった。誤魔化しは誤魔化しでしかないのだ。結婚したからと言って、李仁への想いが立ち切れた訳ではないと思い知った。そうは言っても、このまま李仁と暮らせる筈もなく、山ほど心を残して智也は五日目にしてようやく新妻の元へと帰って行った。


 李仁の恋人が実は男であったという事が、白日の元に晒された。李仁の店の従業員達は、共に働いていたと言うのに全く気が付かなかった事に、それぞれがショックを受けていた。

 近隣の商店の人々の噂にも登り、李仁は居た堪れない中での仕事を強いられる事となった。皆、直接口には出さなかったが、李仁には痛い程、好奇の眼差しが突き刺さった。

 今は男同士の恋愛なんて普通だと言ってくれる人も居たが、それを話題にされる事すら疎ましかった。

 何日かすると、棗はこんな中、帰ってこない方が良かったのだと思えるようになっていた。


 そんなある日の夕方、紫の風呂敷包みを下げた風夏が李仁の店に現れた。


「こんばんは、リー君」


「若女将!どうしたんですか?こんな所までわざわざ」


 レジカウンターで少し驚いた顔で出迎えた李仁の前に、その紫色の風呂敷包みがそっと置かれた。


「はい。ちょっとした差し入れ。最近リー君が随分痩せたって聞いたものだから。だめよ、ちゃんと食べなくちゃ」


 どうやら中身は重箱のようだった。恐らく店に出される惣菜などを詰め込んで、ここまでお裾分けしに来てくれたのだ。


「ありがとう。遠慮なく頂くよ」


 元気を取り繕う李仁に風夏は心配そうな眼差しを向けた。


「またお店にいらっしゃい。愚痴なら私がたっぷり聞いてあげますよ?」


 さりげない風夏の言葉だけは、何故かすんなりと心の中に入ってきた。


「そうします。ありがとう。美味しく頂きます」


 風夏は穏やかに微笑むと、すれ違う従業員に会釈をしながら店の外へと出て行った。


「店長モテるなぁ、男も女もばったばったかよ」

「しっ、聞こえる」


そんな従業員のヒソヒソ話に眉をしかめるしか無い李仁であった。

 棗のいない日常が淡々と過ぎていく。切望しても、もがいても、ここに棗は居なかった。




 狭山のサイクルはほとんど病院が中心に回っていた。昼間は病院、夜勤も多い。そんな狭山のマンションに棗は身を寄せていた。

 好きでも無い男の為に炊事洗濯をし、夜になると其々の部屋で眠った。カウンセリングをすると決めた日から、たいしてそれらしき事も無い狭山に、棗はいい加減焦れていた。カンっ!とやけに尖った音を立てて酒の入ったグラスが狭山の前に置かれた。


「狭山さん。カウセリング、いつ始めるんですか?しないなら私、家に帰りますけど」


 狭山は剣のある棗の態度に可笑しそうに笑うと、グラスを手にして酒を飲んだ。


「治療ならもうはじまってるよ?」


「え?だって、貴方はこうして毎日私と食事したりテレビ見たり。これの何処が治療なんですか?」


「明日、病院休みなんだよ。ドライブでも行かない?湖とか。綺麗だよ?」


「はあ?私の話聞いてます?」


 棗はため息をついて、この話の通じない男をどうしたものかと眺めていた。

 次の朝早く、棗は叩き起こされた。どうやら狭山は本当にドライブに連れて行くようだった。棗は台所でサンドイッチを一緒に作らされた。


「なんでお弁当なんですか?現地で食べれば良いじゃ無いですか!

こんなに早起きさせて!」


 文句を言いながら作る棗に、狭山はまあまあと、至って呑気に構えていた。


 棗はこんなに李仁と離れるのは久しぶりだった。自分の体の一部のようだったものが急に抜け落ちたような寂しさに、時折、夜中に無性に泣いてしまう事もあった。

 昨夜も泣きはらした目は赤く腫れていたが、こうして狭山にドライブに連れ出されると、車窓から入ってくる風の心地よさに、そんな日頃の憂さも晴々として来た。


「僕はねえ、兄から虐待を受けていたんだ。歳の離れた兄だったが、僕を玩具か奴隷にしたかったんだろうね」


 心地よい風にさらされながら、そんな重い告白を狭山はサラリと口にしていた。

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