第8話 月輪の交わり

 李仁の居宅はマンションの高層階にある。マンションと言えど、李仁の好みを反映した間接照明の美しい和の空間だ。


「わあ、綺麗…!」


 棗は部屋に入って来るなり、リビングの大きな窓辺へと吸い寄せられた。煌々こうこうとした月明かりは微かな物音すらはばかられるほど美しく、棗の居る空間に降り注いでいた。


「藤城さん、見てください!月があんなに綺麗に見えます」


「知ってる」


 はしゃぐ棗に目を細め、月を指すその指を、李仁は背後から絡め取って抱きくるめた。その躰から仄かな白檀びゃくだんが薫った。棗の照れが背中から伝わってくる。


「そ、そうですよね、ここは藤城さんの家だもの。知ってますよね、可笑しな事を言ってしまいました」


「違うよ、知っていると言ったのは、君が綺麗だと言う事を知ってるって事だよ」


 コクリと、棗の喉が微かに鳴った。


「…上手いなあ、藤城さん。何人にそんな台詞を言ったんですか?」


「君だけだ」


 こんな甘い台詞が棗相手だと不思議とスラスラ出てくる。つい今し方まで棗に欲情しないかもなどと一瞬でも不安になった事が嘘のようだ。


「藤城さんは、いつから、私を好きになって下さったんですか?」


 前に回る李仁の腕を、棗は抱き締めながら俯いた。


「下駄を履いた君の足を見た時から」


 棗が弾かれたように顔を上げた。


「私もです。私もあの時、はる君と居ながら…貴方に惹かれていました…」


 運命の赤い糸とは良く言うが、そんな物は信じて来なかった。こうして目の当たりにするまでは。

 背後から覗き込むように、棗の唇を欲しがると、棗がゆっくりと顔を傾けてそれに応えた。この前の激情に任せた口付けとは違う。しっとりと互いをまさぐるように唇を重ね合わせた。湿り気を帯びた唇の感触や、その弾力を確かめ合い、二人は今度こそ、甘やかな口付けに没頭していた。

 月が一番高くまで登っていた。


「藤城さん。ありのままの私を。

見て下さいますか?」


 口付けに濡れた唇が、静かな決意をって李仁にそれを強請った。棗は李仁の腕から擦り抜けると、その場で棗は服を脱ぎ始めた。

 Tシャツを脱ぎ捨て、ジーンズを床に落とし、下着も全て取り去った。一糸纏わぬそのしなやかな裸体が、月明かりを受けてまるで天使のように神々しく、男神の姿で李仁の目前に降臨した。


「これでも、私を愛して下さいますか?」


 男でも良いのかと、それでも愛せるのかと何度もその愛を試すように畳みかけて来る棗の問いに、李仁は完膚かんぷなきまでに陥落していた。

 素肌で抱き合えばそこにあるのは人としての二つの肉体のみ。そこに男や女の概念なんて何も無い事が身をもって分かる。

 互いの全てが欲しかった。李仁が辿る手の下で体温を持ったなだらかな丘や砂丘がその呼吸に合わせるように柔らかく形を変えて行く。棗の指先が熱くしなやかで逞しい獣の背中を掻き抱く。

 熱い吐息は交じり合い、どちらのものかも分からない熱気の中で互いの中に己の鼓動を感じる時、一つの生き物になった恍惚が二人を押し流し、二人は魂の重なりを感じた。

 そうやって二つの肉体は熱く狂おしく、共に燃え盛ったくれないの花弁を最後のひとひらになるまで真っ白いシーツの上に振り散らせた。


「李仁さん。きっと私はあなたを太古の昔から知っています。ミジンコだった頃にもきっと私達は出会っている」


 寝乱れたシーツの上で汗ばむ肌を重ねながら、汗の滴る李仁の首筋に幾度も幾度も棗の唇が愛おしそうに口付ける。


「オレはミジンコの時もこんなに盛っていたのかな。君は不思議だ…こんなに駆り立てられる人をオレは他に知らない」


 それは本当のことだった。今まで何人かとこんな関係に陥ったこともあるが、己の中にこれ程の獰猛さがあったとは。初めて出会う自分に李仁は驚いていた。


「まだ君が欲しい…とても足りない」


 そう熱く囁くと、己の汗を拭った棗の唇を欲しいままに貪り、棗も李仁の熱い舌を幾度も幾度も享受した。

 月の光には癒しがあると言うが、この日の月明かりは二人の燃え盛るフレアを鎮める術を持たなかった。

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