第8話 いざ草津②
「いやぁ、座りっぱなしって、腰疲れるよねぇ」
「ここからさらに移動かぁ。草津って遠いんだなぁ」
「温泉、早く入りたいなぁ……」
三人が思い思いのことを口々に言う。家を出て早、四時間。現在地、長野原草津口。目的地目前にして、三人のHPはもうゼロだった。
屍のような状態でバスを待っていると、すぐにバスは来た。バスに乗り込む。運よく三人とも近くに座れたので、会話もできた。
「何分くらいで着くんだっけ?」
「三十分くらいじゃないかな。道が混んでたら分からないけど」
香澄ちゃんの質問に桜ちゃんが答えた。また三十分座りっぱなしか、という香澄ちゃんの悲しそうな声が聞こえてくる。確かに辛い。辛いけど、長時間の移動のあとに温泉に浸かれることを考えたら苦にならない。そのことを香澄ちゃんに伝えると、
「そうだね!」
と、いくらかましな表情になった。
「草津温泉って恋の病以外ならなんでも効くらしいよ」
流石は銭湯の娘。温泉のうんちくを語らせたら右に出る者はいない。
「だからこの腰の痛みもすっ飛んじゃうよ!」
桜ちゃんは満面の笑みでそう言った。帰りも座るんだから意味なくね、とか思ったそこの君。そんなことは言ってはいけない。絶対に。
そんなことを話しながら、バスは進んでいく。だいたい四十分くらいでバスが止まり、運転手が到着したことを知らせる。
「着いた!」
「もう腰がバキバキだよぉ」
「私も……」
辺りは観光客だらけ。彩度の低いコンビニの看板が、草津に着いたことを実感させた。
「あ、硫黄の匂いがする」
「ホントだ! 温泉臭!」
香澄ちゃんと桜ちゃんが鼻をヒクヒクと動かす。バスを出た瞬間からもう、別世界だった。
「まず温泉と湯畑、どっちにする?」
桜ちゃんのそんな問いに、
「「温泉!!」」
私たち二人は声を揃えた。正直、四時間強に及ぶ長旅に、私と香澄ちゃんの体はボロボロだった。一刻も早く温泉に浸かりたい!
「じゃあ、おじいちゃんオススメの温泉を聞いてきたから、案内するね!」
桜ちゃんの案内。その言葉に嫌な予感がして香澄ちゃんを見ると、彼女も困った顔をして私を見ていた。うん、そうだよね。
「桜ちゃん、温泉の名前教えて?」
「ええと、大瀑の湯っていうところなんだけど」
名称を聞くや否や、香澄ちゃんはナビアプリに行先を打ち込んだ。桜ちゃんが変な方向に行こうとしたら、私たち二人で修正する作戦だ。あくまで桜ちゃんを立てつつ、目的地にはしっかりとゴールするようにする。私たち二人には、桜ちゃんの方向音痴に付き合う体力はもう残されていないのだ。
硫黄の匂いに包まれながら、私たちは歩き出した。地図で上から見ていると分からないが、坂が多い。スニーカーで来てよかった。桜ちゃんは身長を誤魔化すためか、厚底のブーツを履いてる。よくもまぁ、あの靴で元気に歩けるな。底知れぬ体力にはいつも振り回されるが、この旅でも遺憾なく発揮されていた。
「あ、あ!」
そんな体力のあり余った桜ちゃんが突然声を上げた。
「どうしたの?」
私と香澄ちゃんは歩を止めて、桜ちゃんが指差す方を見た。が、指の先を見ても、たくさん人がいるだけで、特に変わった点もない。
「なんもないじゃん」
私はそう言って再び歩き出そうとしたが、桜ちゃんに腕を掴まれた。
「何、どうしたの」
私はとにかく早く温泉に入りたかった。
「あの子、さっき言ってた子だ」
「?」
桜ちゃんは人ごみにいるダレかを目で追っている。さっき話してた子って誰だっけ?
「あー、芸能人みたいって言ってた子?」
香澄ちゃんが問う。
「そう! その子!」
「あぁ、その人か」
私たちの最寄り駅で見かけたと言ってた人と、離れたこの地で会えたことに感動しているらしかった。そんなのはどうでもいいのだけれど。早く温泉に入りたいのだ!
「あの子、いわこうの人じゃない?」
「え、嘘!?」
二人は人の海をのぞき込んではしゃいでいる。いいから温泉行こうよ。
「ゆいも見てみなよ」
桜ちゃんに袖を引かれて、私も渋々指差す方を見た。
「うわ、何あの子。めっちゃ可愛いじゃん」
人が何人いようとハッキリとわかるオーラを身にまとった少女がそこにはいた。存在感が周りとは一線を画している。オレンジ色のワンピースを着たその子は、長い黒髪を風に遊ばせている。すれ違った男性は皆振り向いて、彼女や奥さんを連れた人は、そのパートナーに腕をつねられていた。
「ねぇ、ついて行ってみようよ」
桜ちゃんがニヤニヤしながら言う。
「お風呂は?」
私は早く温泉に入りたいんだってば。
「まぁまぁ、方向も一緒だし」
香澄ちゃんも楽しそうに言う。
「まさか草津まで来てストーカーする羽目になるとは」
私はため息を一つ落として、盛り上がる二人を追いかけた。
◇
「およよ……?」
「あれ?」
「?」
私たち三人が、キラキラオーラの少女を追いかけていたら、またさっき通った道に戻ってきてしまった。
前を歩く少女はスマホに目を落として何かを確認した後、辺りをキョロキョロしている。つい数時間前の桜ちゃんと似たような行動だ。もしかして、もしかしなくても、あの子も方向音痴なんだろう。
「あの子迷ってるのかな。地図見れば分かるのにね」
桜ちゃんのそんな発言に、私と香澄ちゃんの冷たい視線が突き刺さった。お前もだろ。
「あれぇ?」
透き通った声が聞こえてきた。前方でスマホと睨めっこしている少女の声だ。神様というのは不公平なもので、整った顔だけでなく、美しい声までも与えてしまったらしい。顔も声もブスな私に、どちらか一つ分けて欲しい。できれば顔を。
少女を尾行しながらも、私は景色を眺めていた。坂が多く、幅員もかなり狭い道が多い。上がったり下がったり、これではあの少女が道に迷うのも納得がいく。私も一人で来たら迷う自信がある。
「こっちかなぁ」
少女が再び歩き出した。私たちはただの観光客を装って、数メートル後ろからついていく。あの少女にバレないかという不安と、どこへ行くんだろうという好奇心が混ざったドキドキが、私の胸を打っていた。
坂道を歩きまわって二十分。ようやく少女が目的地に着いたらしい。
「大瀑の湯……」
私は少女が入っていった建物の看板の字を読み上げた。
「ねぇ、桜ちゃん。ここって桜ちゃんが言ってた温泉だよね」
「うん」
「こんな偶然もあるんだねぇ」
ほへぇ、と感嘆のため息をこぼして、私たちは顔を見合わせた。
「とりあえず入ろうか」
「うん。そうだね」
桜ちゃんを先頭にして、大瀑の湯に乗り込む。
自動ドアを抜けると、カウンターと言った方がよさそうな番頭台があって、その奥に下駄箱がある。
「大人三人で!」
桜ちゃんが元気よく店員に伝えた。その店員はふくよかで気だるげなおば様で、その髪は赤く染められていた。なんとも派手な髪色に、一瞬だけ自分が草津にいることを忘れそうになった。
木の板のカギの下駄箱に靴を入れて、施設の奥に歩いていく。菊の湯とは違って、番頭台から休憩室までが遠い。菊の湯なんてわずか数歩で着くのに、ここはなんと売店まである。売店と正対するように浴場の暖簾があって、その手前にコインロッカーがある。私は財布から百円玉を取り出して、コインロッカーに財布とスマホを突っ込んだ。取り出した百円玉を硬貨投入口に入れてカギをかけた。カギを手首に通して、いよいよ暖簾をくぐる。この時点で、私たちはほとんどあの少女のことを忘れていた。
脱衣所で服を脱いで、いざ浴室に突入。三人横並びになって、しっかりと体を洗う。
浴室の天井は、古い木の梁が湿気で黒ずんでいた。室内風呂からは、大きな窓越しに露天風呂が望める。散り始めたヤマザクラと、黄緑色に萌える若葉が明るく煌めいていた。
さぁ、入浴だ。ようやく、待ちに待った温泉。
「はぁー……」
「ふひょお……」
「幸せだ……」
少し熱めのお湯が疲れた体に沁みて、体の内側からポカポカとしてくる。凝り固まった腰もジワリジワリとほぐれるような感覚がしてくる。流石は草津の湯。万病に効くという謳い文句は伊達じゃない。まぁ、ひねくれた私はプラシーボ効果なんじゃないか、とか思わなくもないけれど、思い込みが激しい私でもある。せっかく草津に来たんだから堪能しておこう。
◇
室内のお風呂と露天風呂を何往復かして、小一時間ほど温泉を楽しんだ。桜ちゃんと香澄ちゃんの顔は赤らんで、瞼はとろんと溶けそうだった。
「あ」
「んー?」
「ゆいちゃん、どうしたの?」
温泉の癒し効果があまりにも高く忘れていたが、私たちはあの少女を追いかけていたのだった。
「あの子、追いかけてたけど完全に見失ったなって」
この温泉に同じタイミングで来たはずだが、脱衣所に入った頃にはもう完全に頭から抜け落ちて、温泉のことだけを考えていたような気がする。
「あぁ、そういえばそうだ」
「もういいんじゃない? 温泉楽しもうよ」
私ももう追う気なんてさらさらなかったが、それ以上にこの二人は温泉の魔力にやられていた。
露天風呂の岩に背中を預けて、真っ青な空を見上げる。背中に岩の角が食い込んで少し痛む。湯をすくい上げた指はもう、ふやけきっている。揺れる水面を眺めながら、私は二人の間延びした会話を聞いていた。
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