第35話 獅子奮迅
猿田晴彦は苛立っていた。
明神高校の正遊撃手である彼は、抜群の身体能力と類稀なる野球センスを買われ、一年生ながらレギュラーに抜擢された。
全てのポジションを守れるユーティリティプレーヤーであり、勝負強くチャンスメイクも出来る優秀なバッターでもある彼にも弱点があった。
それは、敵味方関係なく力がないと感じた相手を軽んじる傲慢な性格だ。どんな態度を取ろうとも、実力を見せつけることで周りには何も言わせなかった。
注意をされ、疎んじられることもあったが、自分より上手くなってから言えと、野球の腕で黙らせてきた。
そんな彼が、弱小校のピッチャーを相手からまともに打てていない。加えて、実力差が明白となった状況でも諦めることはせず、あまつさえ勝利を信じているような敵のプレーが癇に障っていた。
早々に諦めて、試合を早く終わらせる手助けをしてくれと、守備につきながら心中で愚痴をこぼしていた。
暑さからくる集中力の欠如も手伝って、彼の頭から冷静の二文字はすっぽりと抜け落ちていた。
「ショート!」
ぼーっとしていたため、飛んできた打球に対して反応が遅れた。普段なら回り込んで楽々と捌けたボールが、動かなかった一歩のせいでやや不安定な捕球体勢になってしまった。
それでも、難なく捕球しスムーズに送球動作まで移行した。だが、また一つミスを犯した。それに気付いたのは、自分の手からボールが離れた後だった。
ランナーは二塁にしかいない。にも関わらず、セカンドに送球してしまったのだ。
もちろん、左方向に打球が飛んだ段階でランナーは動かないためにアウトには出来ず、その余計な時間のせいでファーストもセーフになってしまった。
状況を整理出来ていれば起きるはずのないミス。流れが傾き始めた。
続くバッターの森がバントを一発で決め、一死二、三塁と、戦場ヶ原高校には絶好のチャンスとなった。文字通りの打線となっていく。
それぞれが次へ次へと託していく。託された者は、それをさらに後ろへと繋いで、点を線で結んでいく。
窮地に立たされたことで、驚くべき早さで団結なっていく様はまるで生き物のもつ生存本能のようだった。
それを見て指揮官は笑みを浮かべる。その顔が含むのは歓喜だった。指導者として、教え子が成長する姿を見るのはこの上ない喜びだ。
「俺達は、今面白いものを目にしている」
敵軍の指揮官であるはずの塩谷は呟く。
人は成長した先に何を見るか、何を見せてくれるのか。それを楽しみにしている大人もいると。
チャンスの場面で、7番の滝川はいかにしてこの流れを継続させるかを考える。辿り着いた答えはシンプルで、とにかく簡単に終わらないことだった。
前田が示したように、倒れるにしてもしぶとく喰らいつけば圧になり、後続のバッターが戦う際の隙を生み出しやすくなる。後ろに託す。その意思を絶やさない限り、流れは続いていく。
そして、8球を投げさせ、その末に四球を選び取った。
満塁の場面で、織田勝義は打席に立った。が、悪い流れを切ろうと明神ナインはタイムを取った。マウンドに野手が集まる。
「いけ、勝義!」
「打つしかねぇよ!」
「好きな球だけよ。狙ってけ!」
塁上から、ベンチから、スタンドから、織田の背中を押す声が聞こえる。
ここで得点が奪えれば、ビッグイニングになるかもしれない。自分の一打が勝敗に大きく関わる。打たなければ打たなければ打たなければ──
「僕にも取っといてくれるかな」
ネクストバッターサークルから、何とも気の抜けた声が聞こえた。羽柴だ。だが、どこか違って見えた。何が違う?
ハッキリとは分からなかったが、その表情から、言葉から、確かな違いを感じ取った。
この時、羽柴の中に変革が起きていた。
これまで、一歩下がって周囲を見渡していた。己自身すら、どこか違う存在として俯瞰していた。
だが、この試合を経て生まれたキャッチャーとしての責任感が、自分の殻を破っていった。今もなお脱皮を続けている。
チームが勝つには、苦しんでいるピッチャーを助けるには自分が貢献するしかない。やれるかは分からないが、やれると信じて進むしかない。
羽柴は自分の力を低く見積もっていた。自らを守るために。出来ると思って出来なかった時が苦しいから、最初から諦めて、挑まないようにして逃げていた。
それが今、正面から立ち向かっていこうとしている。
その意思が、織田の気持ちに変化を生じさせた。
「打てなかったら承知しねぇぞ」
「こっちのセリフ」
肩の力がすぅっと抜けていく感じがした。いや、間違いなく抜けている。荷物を託した。信じて、預けた。
自分以外の誰かがやってくれる。少しくらい、楽してもいいか。
そう思った織田の背中は、誰よりも逞しかった。
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