片翅の蝶こそ、うつくしい

千夜野

第1話 女王さまと召使い

 車椅子の少女は、手のひらの上でもがく片翅の蝶を見下ろしていた。

 ぱっともう一方の手を広げる。永遠につがいに戻ることのない、失われた半身が、ひらりと足許に舞う。夜闇に染め抜かれたかのような翅は、音もなく墓石の上に落ちたかと思うと、風にさらわれてあっけなく消えた。

 見えているかしら? あなたは笑っているかしら?

 ねえ? と、その足許――墓に向かって問いかける。答えがなくとも、答えを知っていたのだとしても、少女にとっては関係のないことだった。

 ラファエラ、と呼ぶ声が聞こえて、少女はようやく、ゆったりと振り返った。

「あらジャスティン、もうお迎えの時間? もっとたくさんミカエラと二人でお話したいわぁ」

 品のある身なりの青年は、身を屈めて少女の頬に口づける。

「気持ちは分かるけれど、僕は君のことが心配なんだ。彼女と話したい時は、僕に言ってくれればまたいつでも連れて来てあげるよ」

 僕は君の婚約者なんだから。

 優しく微笑んだ彼だが、少女の手のひらの上の蝶に気付いてぎょっとする。思わずといった感じで身を引いて、しかしすぐに笑みを作った。

「可哀想な蝶を保護してあげるのかい?」

 彼は、憐憫の眼差しを蝶に向けていた。か弱く哀れな、保護すべき生き物のへの、自分よりも不幸なものへの、慈しみと同情に満ちた、まっすぐな眼差し。

 そんな青年に、少女は目を細める。

「アナタって本当に、優しい人ね」


     *


 生まれる前から、わたしとは、憎しみ合っていた。

 少なくとも、ミカエラはそう信じていた。

 あれとそっくりのこの顔ときたら! 鏡を覗く度見える、忌々しい顔に微笑みかけたことなど、あるはずもなかった。

 ミカエラとラファエラは、双子の姉妹だった。ゆるく波打つ金色の髪も、澄んだ海のような碧の眸も、ビスクドールのように愛らしい顔立ちも、何もかもが平等だった。

 たったひとつの不平等を除いては。

 ひとみを閉じると、今なお残酷なほど鮮やかに甦る――醜くただれた、幼い頃からの惨めな日々が。


「あらぁ、ミカエラ、何してるのぉ?」

 足音を殺して妹の部屋で忍び込んでいたミカエラは、びくりと肩を跳ね上がらせた。恐る恐る振り返る。するとそこでは、眠っていると思った妹が、寝台の上から身を起してこちらを見下ろしていた。

「あの、ね、おもちゃを、借りたく、て……」

 おどおどと、返事をする。悪いことをしていた訳ではない。むしろ、〝借りる〟という表現は卑屈なくらいだった。床や棚にあるおもちゃは全て、姉妹二人のものなのだから。ただ、ミカエラが自分の部屋に置いておくことが許されていないというだけで。

「そうなのぉ? ワタシはてっきり、ミカエラはワタシと遊ぶのが嫌だから、こっそり部屋に入ってきているのかと思っちゃったわぁ」

「ち、違うわ、そんなこと……」

 しかし、ミカエラの言葉は消え入っていく。実際、ラファエラの言葉の通りだったからだ。

 外では、ひどい雨が降っていた。普段なら屋敷の敷地内で花を摘んだり、犬と遊んだり、青空の下で絵本を読んだりして過ごすミカエラだが、こんな日には部屋の中で遊ぶしかない。それは、堪らない苦痛を意味していた。妹の部屋へ行かなければならないからだ。

「嘘つきねぇ、ミカエラ」

 気持ちを見透かされていると分かって、ミカエラの頬がかっと熱を持つ。

「お父さまとお母さまに言いつけるわぁ。ミカエラが、ワタシのお願いを聞いてくれないって。自分は歩けるからって、いつもはお外に出て遊べるからって、弱くてお部屋の中で遊ぶしかないラファエラとは遊んでくれないって」

 ラファエラは、姉へ意地悪く笑いかけている。上から下へ、強者から弱者へ。あるいは、絶対的な勝者の笑みだった。

 ――お前はあの子のものを奪って産まれてきた。

 ああ、また思い出してしまう。呪いのように放たれた言葉が、何度も何度も追い払ってきた言葉が、ミカエラの脳裡を焦がし、まとわりついてきた。

 あれはお母さま? お父さま? いいえ、どちらでも同じこと。どうしてあの子だけが。どうしてお前だけが。可哀想なラファエラ。可哀想に、可哀想に……

 たったひとつの不平等。歩くこともままならない体の妹と、その苦しみを分かち合うことのできない〝元気〟な姉。

 その責め苦は、ミカエラが生まれながらに負うべきものだった。

「ち、違う、やめて、ラファエラと遊びたくない訳じゃないの。ぬいぐるみで遊びましょう? それともお人形遊び?」

 両親の機嫌を損ねたくない一心で、ミカエラは口走る。ラファエラが半身を起こしている寝台には、様々なお人形やぬいぐるみが並べられていた。お父さまがいつもたくさん買ってきてくれる。ラファエラが望めば何でも与えてくれる。

「なあに、ミカエラ? 自分がたくさん買って貰えないからって、そう言ってワタシのものを取るつもりなのぉ?」

 お父さまはミカエラにもお人形やぬいぐるみを与えるが、あくまでラファエラのついでだった。ラファエラには何でも与えるが、ミカエラにはそうではない。

 ミカエラの眸が涙で潤み始める。

「嫌だわぁ。ミカエラったら、お姉さまの癖にすぐ泣くんだものぉ。でもそうね、仕方ないからぬいぐるみをひとつあげてもいいわぁ」

「えっ……」

「ただし、それができたらね?」

 ラファエラの寝室。ラファエラのお城。ラファエラの好きなもので埋め尽くされている。お父さまやお母さまがくれたもの。特に、壁に掛かった、蝶の標本たち――

 寝台のサイドテーブルの上には、小さな硝子ケースが置いてあった。ミカエラはべそをかきながら、ラファエラに指示されるがまま恐る恐るケースの蓋を開ける。

 その途端、色とりどりのものが舞い上がり、ミカエラは悲鳴を上げる。

 数匹の蝶だった。ラファエラが飼っている。

 ミカエラは、蝶を含めて、全ての虫が大嫌いだった。

「ほらぁ、早く捕まえて」

 ミカエラは怯えながら、何度も何度も失敗を繰り返して、ようやく翅を休めていた蝶の翅を摘まむことができた。と言っても及び腰で、汚いものを持つように体から精一杯遠ざけている。

「つっ、捕まえたよ、ラファエラ……!」

「よくできましたぁ。それじゃあ――」

 ラファエラはもったいぶって、自分のぬいぐるみのうちからひとつを選び出した。ミカエラの顔つきが輝く。外国から取り寄せたという稀少なぬいぐるみで、お父さまがラファエラのために苦労して手に入れたもの。ミカエラもこのぬいぐるみが欲しいと駄々を捏ね、両親に叱られたのだ。

 ラファエラはぬいぐるみを抱き締め、冷たく微笑んだ。

「え……」

「聞こえなかったの? 蝶の翅を捥ぐのよぉ」

「捥ぐ、って……どうして、そんなこと」

「そんなことも分からないのぉ? お馬鹿さぁん」

 部屋を飛び回っていた他の蝶が、ぬいぐるみに留まる。ラファエラはぬいぐるみの髪飾りめいた蝶を無造作に摘まんで、――片翅を捥ぎ取った。

「ほぅら、綺麗でしょう? 翅の揃った蝶より、片翅の蝶の方がずうっときれい」

 翅を捥がれて苦しむ蝶を、ミカエラの顔に近付ける。ミカエラは後退って転んだ。捕まえていた筈の蝶は手から逃げ出して、ひらひらと舞った。

「標本の蝶は両翅を広げているでしょう? ワタシはそれが気に入らないの。両翅を広げるのは、蝶じゃなくて蛾だわぁ。うつくしくないわぁ……。だから、翅を広げられないように片翅を捥ぐの。うふふっ、きれいだわぁ」

 ミカエラは尻餅をついたまま、呆然とラファエラを見上げていた。酷薄に微笑む、自分と瓜二つの顔を。

 ――さあミカエラ、何してるのぉ? はやく蝶の翅を捥いでちょうだい……


 ミカエラは瞼を上げる。

 ラファエラの執拗な虐めは、それからもずっと続いてきた。

 ある時、ラファエラは侍女に世話をされることを拒絶し、ミカエラでなくては嫌だと言い張った。それ以来、ラファエラの身の回りの世話はすべてミカエラがしていた。

 双子にもかかわらず、ラファエラが女王さまで、ミカエラは召使いだった。

 ラファエラは蝶の片翅を捥ぐことを何度も命じた。女王の命令は絶対だ。ミカエラは泣きながら翅を捥いだ。何度も、何年も。それは寝台の上の女王さまにとって、一番の娯楽だったからに違いない。

 けれど――

 ミカエラは、姿見に写る自分の姿を眺めた。

 そこにいるのは、髪を結い上げ、最新の流行を取り入れたドレスを纏った令嬢。手袋グローブに包まれた指先で鏡面に触れると、今までのミカエラでもラファエラでもない少女の指先と触れ合う。

 不思議な心地のまま、生まれて初めて、虚像に微笑みかけてみた。ぎこちない表情。でも、そう、これはわたし……とは違う、わたし自身。その時、やっと気が付いた。

 ラファエラが女王さまでいられるのは、あの部屋の中でだけ――でも、わたしは違う。

 わたしは夜ごと色鮮やかなドレスを纏い、きらめくシャンデリアの下でステップを踏み、この姿をみんなに見て貰える。そうしてやがてはきっと、誰かに見初めて貰える。愛して貰える――

「可哀想な、ラファエラ……」

 その時、鏡の中の自分が浮かべていたのは、よく見慣れた、酷薄な笑みだった。

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