青空に溶けゆく旋律6
すると僕の期待に応えるかのように彼女の手は美しく上がり88の内の1つへ迷いなく落ちていった。その瞬間、邪悪な闇を斬り裂く聖剣の一振りが如く勇猛果敢に飛び出した音は沈黙を斬り捨てる。
演奏は湧き上がるように始まった。耳馴染みのある旋律はあっという間に僕を包み込み、気が付けば彼女らだけに集中しようと瞼を下ろしていた。
多分それは癖なのだろう。夏樹さんは最初の部分だけリズムを整えるように鼻歌でも同時に演奏する。ピアノに負けず劣らずの綺麗な鼻歌とピアノの歌声によるセッションのようで僕はそれが好きだ。互いの手を取り合いダンスでも踊るみたいに重なり合った音達はとても心地いい。
だけど名残惜しいが鼻歌は段々と小さくなっていき最後はピアノと別れを告げる。
そこからはピアノだけによる演奏の始まりだ。哀愁漂うが絶望に閉ざされたわけではない夕焼けのような旋律。俯いてはいるが確実に前へ足は踏み出している。僕が毎回この曲を弾く時に思い浮かべる演奏だ。まるで背中を追うようにそして真似るように毎回弾く姿も思い浮かべている。この記憶は僕にとっての楽譜。
だけど今回の演奏はどこか希望に満ちている気がした(気のせいかもしれないが)。記憶の演奏よりも明るい気がする。
そんなことを考えながら僕はそっと目を開けた。するとそのタイミングを見計らったように窓から風が吹き込み夏樹さんの艶があり長く滑らかな黒髪が靡く。体を揺らしながら演奏する彼女の横顔は微笑みを浮かべていた。
その光景に僕の中の記憶が引っ張り出される。彼女が初めて演奏を見せて、聴かせてくれた時のことを。
夏樹さんが滑らかに指を動かすのに合わせ冷気のように部屋へ広がる旋律。時折、眉を顰める彼女を窓から差し込む陽光が祝福するように照らした(祝福――そう表現するのが憚れない程にその光景は幼いながらにも神々しく感じ、そして何よりとても美しかった)。すごい。同時に知識などは全く無かったが演奏に対して純粋に憧憬の念を抱いたのも覚えている。
今でも鮮明にその光景のみならず演奏までも完璧に思い出せるのはそれだけ印象深く心に刻み込まれている証だろう。
だが――だからこそ記憶の演奏と今、目の前の演奏を嫌でも比べてしまう。この曲にしては(あくまでも個人的な印象だが)少しばかり明る過ぎるしスキップでもするようにちょっとアップテンポな気がした。素人が何言うか。そう言われればそうなのだが彼女の演奏するこの曲に関してだけに絞ればあながち間違えではない。少なくとも僕はそう思うし実際そう感じた。
だけど今更言うまでもなく僕は彼女の――夏樹さんの演奏するこの曲が大好きだ。
そしてこの演奏は愛しの相手に触れるかのように優しいタッチの4つ音で終わりを告げた。その余韻まで余すところなく味わい尽くした後、夏樹さんはゆっくりと顔を僕の方へ向ける。
「これは――クライスラー/ラフマニノフ愛の悲しみ」
言葉の後にあの時と同じように零すような笑みを浮かべた。
「って昔教えてあげたのが懐かしい。最近は弾けてなかったけど意外と弾けるかも」
そう言いうと椅子から立ち上がり差し出すように手を向けた。
「じゃあ次は君の番。どれくらい上手くなったか聴いてあげよう」
腕組みをした彼女の表情は師匠のそれだった。僕はあまり自信はなかったが全く弾けなかった頃から聴かれてることを考えれば今更という気持ちでピアノの前に腰を下ろす。そして夏樹さんの気配を後ろに感じながら両手をそっと鍵盤へ。
頭ではいつものように楽譜を思い浮かべた。そして何回弾いたかも分からないその曲を弾き始める。楽譜をなぞるように彼女の動きへシンクロさせ――出来るだけ近い演奏を心掛けた。彼女のように上手い演奏をするために。
だが演奏を始め間もなく僕は普段ならしないような場所でミスをしてしまった。しかもその動揺で思わず弾く手を止めてしまう。完璧といかなくとも良い演奏で良い所を見せたかったがもしかしたらそれが枷となったのかもしれない。
僕は後ろを振り向き彼女を見上げた。
「もう1回いいですか?」
「どーぞ。でも君はあれだ。上手くなったけど昔から何か足りないね。まぁ、私もプロじゃないし教える側でもないしなんならただピアノが好きでそれなりに弾けるってだけだけど」
「何かってなんですか?」
「さぁ?分からないから。何か」
肩をすくめる夏樹さんを見ながら僕はその何かは技術的なものかなと考えていた。
そして再びピアノと向き合う。
「そういえばどうしてまたここに?戻ってくるんですか?」
僕は訊こうとして忘れていた質問をふと思い出し始める前のほんの雑談として尋ねた。
「いやそうじゃないけど。この家売っちゃうらしいからさ。置いてあった荷物――って言ってもちょっとだけど。それを取りに来たってだけ。あとはついでに君にも会っていこうかなってとこ」
「売っちゃうんですかここ。なんか寂しいですね」
「でも誰も住まないのにずっと放置って訳にもいかないから。仕方ないかな」
「そうですよね」
理由を聞いたところで僕は演奏を始めようと鍵盤に両手を乗せる。
「それと、私結婚するんだよね」
「えっ?」
その言葉を聞いた瞬間。ベートーヴェンによる運命の弾き始めのような重い感覚がずっしりと僕の体に圧し掛かった。まるで分厚くどす黒い雲によって陽光の最後の一筋が完璧に絶たれたような気分。彼女はそんな僕に気づかず何か続きを話していたがそれを聞く余裕は全く無い。
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