第78話 イチと舞子の関係の続き
「付き合っていません。振られたんで。だけど今まで通りに接してほしいって舞ちゃんにお願いしたんです」
イチは寂しげに微笑んだ。
「舞子が大阪から戻ってきた理由を知っているのか?」
イチは舞子の父の言葉に小さく頷いた。
「じゃ、婚約破棄の原因も聞いているの?」
舞子の母の言葉には無言で見つめ返すことしかできなかった。
舞子の母が驚いた顔でイチを見つめていた。
「遅いから車で送っていく」
少しの沈黙の後、舞子の父は言った。
舞子への好意がバレた今、舞子の父と車という狭い空間で二人きりなんて怖すぎる。イチは「男だから、まだそんなに遅くないから大丈夫」と必死で断った。
舞子の両親は娘が俺と付き合っていないと知って安心しただろうか。
暗い夜道を一人で歩いていると涙が出た。
泣いている場合じゃないと自分に言い聞かせる。付き合ってもいないのに。
家に着く頃には涙は乾いていた。
次の日、図書館に行くと朝から舞子が待っていた。
「昨日は迷惑かけました。腕は大丈夫?」
舞子は申し訳なさそうに頭をかいた。
「覚えてるんだ」
「うん。消したいのに薄っすらと記憶がある」
「愛情表現が激しいよね。でも可愛かったよ」
イチは昨夜の舞子を思い出して噴き出すように笑った。
「当分からかわれるのね」
舞子はイチを軽く叩いた。
イチは大学が始まり、授業とバイトで忙しい日が始まった。
舞子の彼氏役をする約束の日はゼミの教授が参加している有識者会議に随行する日だった。
昔で言うと「荷物待ち」だが、教授は自分の事は自分でやる今時の人だ。単に機会を与えてくれたのだと有り難く付き添っている。
有識者会議の随行は今回で3回目の参加になる。
初めて参加する時、何を着ていけばいいのか分からず教授に聞いた。学生を連れて行くと言ってあるから、そんなに気にしなくていいと言われたが、大学に行くような服装は場にそぐわないことぐらいはわかる。それに教授はいつもスーツだ。
イチの持っているスーツは紺のスーツと喪服の黒スーツだけ。レイに相談するとすぐに服を買いに連れて行かれた。ニイとヨンからはお下がりの服をいくつか貰った。
残暑厳しい9月初旬だからと服装はクールビズと連絡があった。
イチはレイに買ってもらったグレーのパンツにヨンが「サイズが合わないからやる」と渡されたシャツ、ニイのお下がりのジャケットに着替え一階に降りていった。
ニイとレイはすでに出勤していなかった。
ヨンが洗面台から出てくるところで鉢合わせた。
「着せられる感が拭えないな。まぁ、初々しくていいか」
「学生丸出し?浮くかな?」
ヨンはイチを頭から爪先まで見る。
「スタンドカラーのシャツは第一ボタンを開けないとホテルマンみたいだ。あと前髪を上げたら幼さは消えると思う。スタイリング剤使っていいぞ」
イチは一瞬、躊躇した。
「前髪を上げるってオールバック?ヨンみたいな殺し屋スタイルになったらどうしよう」頭の中に浮かんだ言葉は飲み込む。
「こっちに来い」
ヨンはイチを洗面所に押し込み、手早くイチの髪を濡らしスタイリングで前髪を上げた。
ヨンはイチの沈黙をやり方が分からないと思ったようだ。ヨンもイチに対して過保護だ。いくつだと思っているんだろうとイチは心の中で苦笑する。
「終わりだ。会社行ってくる」
「あ、ありがとう」
ヨンの背中にお礼の言葉をかけ、鏡を見た。軽く上げた前髪が額に自然に落ちていた。オールバックじゃない。
「大人ぽい。殺し屋になってなくて良かった」思わず呟き、シャツの一番上のボタンを外した。
会議は省庁のある霞が関で15時から始まった。メモをとり懸命に会議についていく。気が付けば予定時間の二時間が過ぎていた。
会議が終わり霞が関駅で教授と別れるとイチは急いで舞子に指定された銀座のカフェに急いだ。
イチはカフェに入るなり、舞子がどこにいるか直ぐにわかった。
そこだけ不穏な空気が漂っていた。
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