第四話「水神」(3)
ウィアスの家系は代々水流系と氷結系の魔法に高い適正を持っていた。その資質は代を重ねる毎に強力になっていき、ついにウィアスの曽祖父の代にて『蒼海の王』と呼ばれる水神との契約を結ぶに至ったのだ。
自然と共に生きる霊獣の曽祖父に深く結びついた水神の力は、それから代々ウィアスの家系に受け継がれていくことになる。水神の力とは、即ち自然の力そのものだ。神の力に等しい、全ての者がその水流の底に沈む。そこに何の例外もなく、強大過ぎるこの力を父親は『絶対に使用してはならないものだ』と固く誓っていた。
十五の誕生日を迎えたウィアスにも、水神との契約は継承された。まだ先代である父親がその時には健在だったため、その身に水神の魔力を馴染ませる儀式は簡単なるものだった。負担のほとんどを父親に肩代わりされたその儀式だったが、それでも神に等しい力はウィアスの元から高かった魔力を更に高めるに至った。
『なんだ? 水神?』
顔の半分から話が見えない、といった様子のヘルガの声が聞こえる。本来魔族は、その身体の特徴から魔術や対魔関係の知識に秀でているのだが、どうやら幼き頃から『悪魔の子』と忌み嫌われていたヘルガはそういった『教育』を受けていないらしい。
「水神とは我らが霊獣の一族と契約関係にある、『蒼海の王ビスマルク』のことです」
「一般的には魔法とは異なり“召喚”の部類に入る契約のはずだ」
ゼトアの補足にウィアスは頷く。蒼海の王ビスマルクは、普段は暗い暗い海の底からこの世を見詰めると言われる、巨大なクジラの姿をした召喚獣である。水を操るその力は絶大で、一度その身を現わせば、尾鰭の一撃で戦場全てが押し流される水流を発生させると言われている。
それにしても、とウィアスは夫となる男に目を向ける。
いくら魔族の軍の大幹部といっても、まさか霊獣の一族に伝わる召喚の契約のことまで知られているとは。魔王アレスの見通す力故かはわからないが、少なくともウィアスの周りではその力のことは、一切他言することを禁じられていたはずだ。
『へー、まさか霊獣の獣が神を召喚出来るなんてな。確かにその力があれば、ウィアス一人でこの街を守れるな』
感心したようなヘルガの声に、今度はゼトアが頷く。いくらセーピアの術者達が魔力を込めようが、水神を召喚してしまえば力の差は明らかだ。だが、ウィアスには不安な心を隠すことが出来ないでいた。
「……私は水神様を去年継承はしましたが、自身で召喚を行ったことはありません。元より気軽に『試す』なんてことも出来ない力です……いきなり戦場で呼び出すことが出来るかどうか……」
「おそらく敵側にいるあの天使も、お前の中に潜む水神の気配には気付いていた。開戦となれば、真っ先にお前を狙ってくるだろうな。空路から直接来られては、この街の部隊ではどうしようもない」
ゼトアが言うにはこの街の部隊編成は魔族を中心とした陸戦部隊だけらしい。隊の中には魔族以外にも、この街に移住してきた鬼族やドワーフといった腕自慢達や、後方支援としてダークエルフの医療部隊も含んでいる。魔王の理想のために尽力するその姿は、彼等も魔族達と変わりない。種族を超えた連携が、この国の軍にはある。
普段は気の良い街の者達が、戦の時には心強い戦士となる。数では人間に劣るものの、その一人一人の質としては比べるまでもなかった。二人が着いた時、街に人気がなかったのはこのためらしい。戦える大人が戦の準備を進めるなか、護られるべき者達は家々にてその身を隠し、愛しい者の帰りを願う。
「陸戦隊には既に指示を出している。あの部隊の長とは知人でな。前線は彼等に任せて問題ない。ウィアスは街の中心にある高台から水神を召喚、ビスマルクの魔力によって敵の魔術を妨害し街を守れ。その魔力に釣られて襲来した天使を俺が討つ」
『俺は何をしたら良い?』
楽しそうに笑うヘルガに、ゼトアの表情は変わらない。ウィアスはついつい顔を顰めてしまった。
「お前は大事な嫁に魔力を提供してやれ。お前も霊獣程ではないにしろ、高い魔力を持っている」
『へいへい。ウィアス、もし接近戦になったら俺に変われ。お前はまだ人型で満足に戦えねえだろ? 心配するなよ。八つ裂きにしてやる』
「それは心強いですね。助かります」
ウィアスは内心ほっとしていた。あの天使の動きは文字通り人間離れしていた。あの魔族の軍人であるゼトアですら、その一瞬の隙を突かれたのだ。彼と天使の一騎打ちに、他に邪魔が入らないという保証もない。
ヘルガの実力をウィアスは知らない。だがあの食らい尽くした身体から感じた魔力は本物で、敢えてゼトアが口を挟まないということがそれを立証する。
「……すまない。戦の話ばかりになってしまった。敵軍が近付くまで、時間を取ろうと思っていたんだ」
ゼトアの声の調子が変わったことに気付き、ウィアスもそれに釣られるように笑みを返した。作戦指揮の時間が終わり、これから甘い夫婦の時間が訪れる。
「……相手はどれぐらいで進行してくるのでしょうか?」
「敵は隊列を整えながら既にこちらに対して進軍を開始しているらしい。城でアレスが視た時にはそんな素振りもなかったのだがな。どうやら俺達の初夜は、戦が終わってからになりそうだ」
くっくとまた喉の奥で笑われて、ウィアスは思わず頬を膨らませた。これではまるで、自分ばかりが彼を求めてしまっているようではないか。はしたない……でも、きっと……事実だ。
「……冗談だ。すまない、そんな顔をするな」
大きな手が伸びてきて、ウィアスの頭が撫でられる。宥めるその動きにプイっと顔を背けると、ゼトアはふっと笑ってから、ウィアスの身体を両腕で抱き抱えた。
『うはー、お姫様抱っこかよ。恥ずかしー』
ヘルガの野次が耳に入らない程、ウィアスの頭は混乱していた。お姫様抱っこというものをされながら、ウィアスはその凛々しい彼の顔を見上げる。
本当に何百年も生きているとは思えない若々しい顔立ちは、他種族のウィアスですらも惹き付ける。暖かい腕に抱かれて、そのまま部屋に備え付けられた大きなベッドに運ばれる。
優しくベッドに降ろされて、フカフカの感触にウィアスは手触りを確かめるようにシーツの上で手を滑らせる。
「魔族や人は夜はベッドで横になる。慣れてくれ。それに……」
そう言いながらゼトアも軍用ブーツを脱いでウィアスの隣に腰掛けた。それにウィアスも慌てて足元に手を伸ばして、上手く脱げなくて途方に暮れる。外を歩いた靴のままで寝床に入ることが駄目なことぐらい、さすがのウィアスだってわかった。
慌てるウィアスの手に大きな手が添えられる。ゼトアに手伝ってもらってようやく脱いだブーツを、彼は放り出すようにして床に落とした。ガシャンと金属がぶつかる音が響くが、ウィアスはそちらを確認する余裕すらない。
ゼトアにベッドに押し倒されて、その強い雄の瞳に組み敷かれる。身体の自由は奪われずに、その心を縛られているようだ。
「これからは俺が隣にいるのも、慣れてくれ」
深い深い口づけを落されて、ウィアスはその愛情の深さに目を瞑って浸る。これではまるで、自分自身が愛されているようで。
「……ヘルガでなくて、良いのですか?」
本心を引き摺り出される口づけだった。とうとう口に出してしまったその言葉に、ゼトアの目が細められる。
「……すみません。私には、貴方の心がわからなくて……」
ぎゅっと目を瞑ってその身に縋った。彼の手が宥めるようにウィアスの頭を撫でる。
「さっきは話が逸れてしまったな。俺は、ウィアス……お前と夫婦になれることを、嬉しく思う。最初は言い訳だったが、女のお前のことも愛せそうだ」
「……」
「……すまない。今はまだ、お前が本当に望む答えは俺には言えない。女のお前のことも愛せそうだが、お前に宿る男のことも俺は愛している」
『お前の愛情表現はいちいち暴力的なんだよ。ウィアスの身体に、俺にやったようなことしてみろ? すぐに切り裂いてやるからな?』
「……怖いボディーガードだ」
「……今はそれでもかまいません。肩書だけでなく、私のこの心はもう貴方のものですから」
ウィアスはゼトアのその言葉に満足していた。本当ならばこの身体は、共存ではなくヘルガに明け渡されるはずだった。アレスの魔力があればきっと、無理矢理この身を分かつことも、もしくは主導権を譲ることも出来るかもしれない。それでも彼はそうしなかった。そこには確かに、ウィアスに対する愛情を感じた。何よりも彼がウィアスを見詰めるその瞳に、暖かな優しさを感じていたからだ。
自身にもう一人の男を宿した娘。そんな普通ではない状況に置かれたのだ。こうなったらこの普通ではない状況で、普通ではない形で愛しい彼を生涯愛しても良いではないか。愛の形とはそれぞれであり、この愛情が本物であるのもまた事実だ。どちらも自身の身体なのだ。その喜びも苦しみも、伴侶よりも共にすることになる。
ヘルガとなら、ウィアスは誓える。目の前で微笑む男よりももしかしたら深く、二人の精神は繋がっているから。
「……少し眠らせてくれ。お前の横でなら俺も眠れる」
ウィアスの言葉にゼトアはその身を強く抱き締めることで答えると、彼はそのままそう言って隣に寝転がる。ギシリと鳴るベッドなど無視して、彼はその鋭い瞳を閉じる。
高位の魔族になればなる程、その身体は生物の括りから大きく外れていく。数百年など優に生きる魔族達は、魔力を高め過ぎると食事や睡眠といった生物的な行為をそれ程必要としなくなるのだ。己の魔力を動力源に、頭も身体も疲れを知らない領域に押し上げられる。
だが、それもあくまで“それ程”というだけだ。一般的な人のように食って眠るに越したことはない。
「……あまり寝つきは、良くないのですか?」
ゼトアの腕がこちらに伸ばされたので、それを枕替わりにしてウィアスは彼に身を寄せる。どくどくと彼の血液の脈動が腕から感じられて、その暖かさと心地良さに、ウィアスの瞳も蕩けてしまいそうだ。瞳が閉じられた彼の顔もまた、男の魅力に満ちている。
「昔からだ。他人の前では寝れん神経になってしまっているようでな。だが……お前といると心地が良い。ウィアス……」
名前を呼ばれてしばらく経っても、その口から続きが流れることはなかった。代わりに規則正しい寝息が聞こえてきて、ウィアスは小さく笑った。
「いつもお疲れ様です。短い時間でしょうが、どうかゆっくりとお休みください」
眠っているゼトアに見惚れるウィアスと同じく、ヘルガも声を発することなく彼の寝顔を見詰めていた。
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