第一話「囚われた霊獣」(3)
魔族が全体の九割を占める闇の軍勢『魔王軍』は、魔王アレスをトップとした人間達とは敵対する勢力である。
この大陸での大きな勢力は人口の多さに比例しており、人間、エルフ、そして魔族がそれらに挙げられる。もちろんその中でも更に思想の違い等で何個かに勢力は分かれるのだが、ウィアスが囚われた『魔王軍』は魔族達の中でも一際大きな勢力として、人間達と小競り合いを続けていた。
『魔王軍』が魔族の中でも大きな勢力を誇る理由は、魔王アレスの掲げる軍事方針にある。『世の中全てを視通す』と言われる魔族の王は、争いのない未来のために奮戦していた。
――己に刃を向ける者以外には、その剣を振るってはならない。
全てを見通す魔王の言葉は、魔王軍の行動理念そのものである。しかしその考えが他種族にはなかなか伝わらない。総じて魔力の高い魔族の軍人達は、他種族からは恐れの対象でしかない。時にその信念を通す為に起こる流血に、人間達が憎悪の目で報復に出ることも多かった。
長年に渡る軋轢を解消するには、まだ時間が掛かりそうだ。看守の男は己の王の心労を憂い、溜め息をついた。その姿にウィアスも男が――魔王アレスが嘘をついてはいないようだと確信する。
――聡明なる王なのでしょう。そうでなければ、ここまで部下に慕われることはありません。それに……
ウィアスを庇ったあの男の行動こそ、魔王の言葉そのものであった。彼は見ず知らずのウィアスに対しても、魔王の言葉が嘘偽りでないことを、その身をもって体現して見せたのである。
『魔王アレスの治める国は、いったいどういったところなのでしょうか?』
ここが牢獄であることも忘れ、ウィアスの心は好奇心でいっぱいになっていた。学ぶことを好む真面目な性格は、言葉が通じない事実すら忘れさせて、新しい知識を吸収しようとせがむ。
「あー、なんて言ってるかわかんねえなぁ。ゼトア様もわからんって言ってたもんが、ワシにわかるはずもないし……あ! そうだそうだ! あれがあった」
男はそう言って「ちょっと待ってな」と看守とは思えない言葉を残し、バタバタと廊下の先にあったのであろう扉の向こうに消える。目で見えたわけではないが、扉の開閉音から鉄格子と同じ材質だろうと窺える。
そうしてしばらくしてから、男は何かを片手に抱えて戻って来た。その抱えていた物を鉄格子の隙間から、半分程こちらに差し込んだ。
「これは魔力で文字を打ち出す機械でな。本来は耳が聞こえない者が文字を伝える時に使うんだが……お前さん、文字はわかるか」
人間と違い発声器官を持たないだけで、霊獣はとても高度な知性を持つ種族である。聖職者達から聖なる魔術を教わっていたウィアスは、その法典の読み方すらも理解しており、それらが記された時代よりもだいぶ簡略化された現代の共通語ならば、日常会話程度はほとんど理解出来ていた。
元気良くくうんと鳴いて、ウィアスは説明も受けずにその機械に前脚を伸ばす。それは見た目は無骨な黒い金属の塊で、持ち手と思われる平らな部分に手等を置き、今は鉄格子から向こうに出ている部分から、文字を打ち出した紙が出てくるようで、既に真っ白な紙がそこから少しだけ顔を出していた。
足先が触れた瞬間、機械は淀みなく動き出した。ギッギと頼りない音を出しながら、紙に文字を打ち出していく。
「えーと、なになに……魔王アレスの治める国は、いったいどういったところなのでしょうか? ってか。お前さん、そんな丁寧な言葉遣いで話してたのかい」
男がはっはと笑っているが、ウィアスは内心、男よりもこの機械の方に関心が向いてしまっていた。今までだって聖職者達他種族とのやり取りは苦戦の連続だったのだ。それをこんな小さな機械が、すんなり解決してくれるなんて。
ウィアスの心の声に機械が反応し、新たに文字を紡ぎ出す。魔力を首輪に抑えられているせいで、上手く自身で抑えきれていなかったらしい。少しばかり興奮してしまい、魔力が漏れてしまったようだ。
「あー、この機械かい? これは人間達の発明だよ。極少数ながら、アレス様の思想に共感する人間達もいてね。これは彼等からの献上品を、簡略化して複製量産したものだ」
敵の側の者達すらも惹き込み、そして敵国の技術を躊躇いもせずに吸収する。魔王アレスとは本当に、柔軟な思考をしているようだ。
『魔王アレスは、素晴らしい思想の持ち主のようですね』
獣の姿の自分の笑みが果たして他種族から『笑顔』と見て取れるかはわからない。だが、それでもウィアスは、男に対して笑みを浮かべていた。その姿に男は、気付いてくれたようだ。打ち出される文字を読み上げながら、嬉しそうに男も笑った。
「嬉しいねえ。他種族に我らが魔王の思想が伝わるのは。お前さんも安心しなよ。我らが魔王は決して傷付けることはしない。一応『戦場で拾った捕虜』の扱いだからまだしばらくはここにいることにはなるが、まずは傷を治して元気になってくれ。止血はしたが完治はまだ先らしいからな。食料も今準備しているらしいし」
男の優しい言葉に、ウィアスはついに涙が出そうになっていた。気丈に耐えようとして凝り固まっていた心が、優しい言葉に氷解していく。
『……ありが――』
お礼の言葉を伝えようとしたウィアスの足から、機械が強引にもぎ取られる。魔力の接続先を急に無くし一瞬頭がズキリと痛んだが、それよりもウィアスは慌てて機械を隣の牢獄に投げ入れるようにして隠した男の様子に――察した。
この牢獄はどうやら地下にあるらしい。鉄製の重い扉から低い足音が聞こえてくる。やがてコツコツと響いたその音が止み、扉が向こう側から開き、そこから前にも感じた強い魔力が顔を出す。
「ゼトア様……っ」
看守の男が直立不動の姿勢を取り、擦れた声で男の名を呼んだ。
鉄格子の向こう側に、ウィアスを庇った男が現れた。ゼトアと呼ばれたその男はやはりかなりの長身らしく、体格の良い看守の男ですら頭一つ以上の開きがある。
最後に見た姿そのままの彼は、そのダークブルーの瞳にウィアスを映すと、看守の男に「すまないが、少し出ていてくれ」と告げる。
看守の男は慌ててそれに従い、重たい扉の向こうに消える。それを目で追うこともしないゼトアの瞳は、ずっとウィアスに注がれたままだ。
「身体の具合はどうだ?」
低い声でそう聞かれ、ウィアスは上手く答えることが出来ないでいた。
人の言葉が話せないのもあるが、なにより男の瞳から目を離せないのだ。まるで磁力でもあるかのように惹き込まれる。視線だけでなく心まで引き摺り出されてしまいそうだ。
「……そうか。言葉が通じないのだったな」
ゼトアは納得したように呟くと、さもそのことには関心もないかのように話を続ける。
「俺の言葉に何か問題があるなら吠えろ。俺はお前に伝えるべきことを伝える」
強い瞳はずっと注がれたまま、低い声が響く。美しい褐色の肌が発声のために微かに動く様を、ウィアスは目の端で捉えることしか出来ない。男の何もかもを視界に収めたいのに、その瞳がそれを拒絶する。まるで「俺だけを見ろ」と、瞳に言われているようだ。
ウィアスからの反応がないのを了承と受け取ったのか、ゼトアは「お利巧で安心したよ。理解力も問題ないな」と小さく微笑む。
そして鉄格子の傍にしゃがみ込む。首をもたげたままのウィアスとゼトアの視線の高さが同じになり、その瞳に宿る光に少しの変化が起こる。
「お前はメスなのだろう? 美しい毛並みだ。そのエメラルドグリーンの瞳も、ずっと見ていられる」
ゼトアの手が鉄格子の前で、まるでウィアスを撫でるように動いた。もちろん鉄格子越しに触れることは出来ない。それでも『撫でられている』と感じさせる、想いが伝わってくる。これは、愛情?
「気に入った。お前は俺の嫁になれ」
口元に浮かんだ笑みはそのままに、そんなことを言うゼトアにウィアスはただ狼狽し吠えることしか出来なかった。
「照れているのか? 獣でも表情はわかるものだな。益々気に入った。お前は今から俺のものだ。早く傷を治せ。話はそれからだ」
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