第6話「新生活」

 洋館の閉められたカーテンの隙間から光が差し込み、部屋の中は僅かに明るくなった。

天井の電灯にも明かりが灯り、静かな寝息を立てて眠っている楓は薄っすらと瞼を持ち上げた。 

「おはよー。だいぶ眠ったねー」


 楓が寝ていたソファからテーブルを挟んで向かい側から陽気に楓に話しかける20代くらいの白衣を着てメガネを掛けた女性。


「僕はなんでここに?」と楓はソファから上体を起こし部屋の中を見回す。

 メガネの女性はうんうんと胸元にまで垂れる長い髪を揺らしながら頷いてから答えた。


「連堂さんと話してる時に空腹で倒れたんだよ。君、何も食べてなかったんでしょ?」


  楓は記憶をたどるようにして頭に手を当てて考え込んでいた。


「そう言えば学校から帰って何も食べてなかったかも」


「ダメだよちゃんと食べないと。出血も酷かったって連堂さん言ってたし、そりゃ倒れるよ。あ、そういう言えば連堂さんがこれ飲ませとけって言ってたんだけど。どうする? もっと飲むかい? 少年」


 その女性は「ほれほれ」と言いながらコップにストローを刺して注がれた赤い液体を楓に向ける。

 楓は初対面にも関わらず距離を詰めてくるような彼女のコミュニケーションスタイルに少々億劫そうな表情でコップに注がれている液体に視線を向けた。


「それはなんですか?」と楓が訊いてみるとそのメガネを掛けて白衣を着た女性は「ん? 人間の血だよ?」と平然と言ってのける。


「血って…それを僕に飲ませたんですか?」と楓は悪い冗談であることを祈りながら、彼女の様子を窺い恐る恐る訊いてみる。


 しかし、その祈りとは反して彼女が大きく頷いたことを確認した楓は段々と顔の血の気が引いていき顔色が真っ青になっていく。

「ど、どうしてそんなことするんですか!」

 楓はソファから立ち上がって思わず声を荒げてそう言った。

 しかし、工藤は楓の怒りに動じるどころか、さらに追い打ちをかけるように捲し立てた。

「どうしてって、君はヴァンパイアじゃん。人の血を飲むんでしょ?」

 釈然としていない工藤は何を当たり前なことを聞いてくるんだとでも言いたげな様子だった。

「あ? でも瞳の色が黒いけどそれってどういうことなの? 瞳の色って変えられるのかな?」

 工藤は楓に話しかけていたが楓は答えなかった。いや、音自体楓の耳には入ってこんなかった。勢い余って立ち上がっていた楓はへなへなと脱力して座り込む。

「君友達の事吸血してたんじゃないの?」

「あの時は…必死であまり覚えてないんです」


 そうか。僕はヴァンパイアだったのか。竜太の血もそこにある血も…飲んだのか…。

 楓は思索してから目の前に置かれたコップに視線を落として再び思索する。


 目の前にいる人も外を歩いている人たちも学校に居た人たちもみんな人間。血液は人間の体の中に流れる液体。そして、これは人間から取ったもの。僕はそれを飲んだんだ。体内に取り込んだんだ。



 一瞬時が止まったように2人の間で沈黙が流れ、楓は湧き上がったものを抑えるようにしてリスのように頬を膨らませた。

「ゔっっ」

 楓は片手で口を塞いでなんとか胃から逆流してくるものをソファにこぼさず耐える。瞳からは刺激に耐えきれずに涙がこぼれ落ちて、肩で息をする。


 しかし、精神と肉体は相反して再度反応を起こす。

「ゔぅぅぐ」

 楓は体内からさらに湧き上がってくるものを片手で抑えていたが片手でも抑えきれず両手で口を抑える。


「もう、吐くならここにしてよ」とメガネの女性が呆れてゴミ箱を持ってきて楓は泣く泣くそこに用を済ませた。




「君、ヴァンパイアなのに人の血を飲めないの?」

「はい」


 と楓が言うと「へー珍しいヴァンパイアだね、君。どうやって生きてるの?」と興味津々の様子を見せたが、楓の回答を待つ前に彼女は何か思い出し、メガネの向こうの瞳を輝かせた。


「あ!もしかして君が混血のヴァンパイア? 白髪だしきっとそうだよね?」

「そうらしいですね」とため息を吐くように言って肯定した楓は訝しげな表情で白衣を着た眼鏡の女性の膝元に視線を下げた。


「うわ!ラッキー!」

 しかし、真っ青になって不健康そうな楓とは対照的に彼女は少女みたいに跳ね上がって喜んだ。

「連堂さん『あの部屋に居るやつの様子見とけ』しか言ってくれないから。混血のヴァンパイアがいるのなら初めから教えてくれればいいのに」

 その女性は唇を結で膨れていだが、途中連堂の真似を交えながら説明した。そして、また楓に質問を投げかける。


「ねえ君は今、人間なの? それともヴァンパイア?」

 楓は念の為もう一度口の中の八重歯を軽く指の背でタッチしてから「人間です」と答えた。

「八重歯を確認するってことはヴァンパイアになると伸びるってことなんだね。それに意識の変化もないんだ。それで、夜はヴァンパイアで昼間は人間になるんだね。それってどんな原理なんだろう?」


 女性は空に思いを馳せるように遠くを見つめていたが、思考の風船が弾けたように急に何かを思い出して言った。


「あ!そうだまだ自己紹介してなかったね。ごめんね、すっかり忘れてた」

 といって、その女性は着ている白衣の裾と背筋をピンと伸ばした。


「私は大垣先生の病院の助手でモラドでも大垣先生のお手伝いをしてる工藤美心って言います。心美は美しい心って書くんだよ。あと、見ての通り人間。よろしくー」

 工藤美心と名乗った女性はニタニタと笑みを見せながら楓に向かって手を振った。

「えっと、美しい…心ですか?」

 楓は嘘をついていないか確認するように尋ねた。

「ちょっとー。まさか私の心が美しくないって言いたいわけ?」

「いえ、そんなつもりでは…」

「女の子にそういうこと言っちゃいけないんだよ? 君はまだガキだからわからないだろうけどね」

 工藤は腕を組んでそっぽを向いたが、ふふふといきなり笑いだしてからふうと一息ついて楓に視線を戻す。

「で、君の名前まだ聞いてなかったね」

「僕は伊純楓といいます」

「楓っていうんだー。可愛い名前だね。女の子みたい。君も色白だし本当に女の子みたいだね」

 工藤は楓が小さいころから気にしていた名前と色白であることを何の躊躇いもなく平然と言う。

 楓は過去にもそれらが理由でからかわれていたこともあって自嘲気味に言った。

「そのせいで女の子っぽいってからかわれることもありましたけど。もう、今となっては自分の名前なんてどうでもいいですよ」


 工藤はさっきまでのおどけた表情から不思議なものでも見るように首を傾げた。

「どうして?」


「僕は実験で作り出された存在で自分の親の顔も家族の愛情も知りません。そんな自分に付けられた名前なんかもうどうでもいいんです。それに…」

 途中まで言いかけると、楓は一度深呼吸をしてから言い直した。

「僕なんか生まれてこなければ竜太がヴァンパイアに襲われることもなかったかもしれない。そもそも、実験なんて成功しなかったら僕みたいなバケモノなんか生まれてこなかった」


 工藤は「ふーん。なーんかもったいないな。その考え方」と手に顎を乗せて不満げな表情を浮かべる。

「もったいない?」と楓は聞き返した。

 工藤は指を交差したりくねくねと弄ぶようにして言う。

「せっかく生まれて、人間もヴァンパイアも自分で考えて生きる事ができる生物なんだよ? 自分の未来を選択できるの。そして、愛し、愛されたり、君たちみたいに友情を築いて熱くなったりしてさ、無駄な生命なんて無いよ。だからさ、ここで君の生き方を見つけたらいいんじゃない? ここを家族だと思って」

「家族…ですか」


 楓は工藤の答えに対して自分の中で思考を巡らせて、目の前のテーブルに視線を落とした。

 そして、何か引っかかったようでハッとして工藤に視線を上げる。

「ここでってことは僕はモラドに入ったってことですか?」


 工藤はキョトンとして弄んでいた指を止めた。

「あれ? 連堂さんがモラドの名簿に君の名前と君のお友達の名前を書いてたから、もう入ったと思ってたんだけど。違う?」


 楓は自分の中の記憶をたどるようにしばらく考え込んでから答えた。

「昨夜、連堂さんに人とヴァンパイアを殺せるかと訊かれて、その答えを考えたところから記憶がないので、僕もよくわからないです」


 工藤は「もう」と膝に両手を置いて呆れた様子を見せた。

「連堂さん勝手なんだから。でも…」

 工藤はそう言って椅子から立ち上がり楓が座るソファの正面まで移動した。

「楓君はどうしたいのかな? 君の意見を訊いてみたいな」


「僕の意見…」

 そうつぶやき、楓は自分の中の考えをまとめるようにしばらく考え込んだ。

 そして、覚悟を決める。

「ここで皆さんの目標達成のために力になりたいです」

 工藤は犬を撫でるように楓の白髪に手を置いてわしゃわしゃとした。

「よく言った!君もこれでモラドの一員なんだから私達のためにちゃんと役に立ってよね」

「何とか頑張ります」

「あ!そうだ」と工藤は言うとメガネを片手でカチャリと調節して不敵な笑みを浮かべた。 

「モラドの一員ってことは君のこと遠慮なく調べても良いんだよね」

 工藤は楓の隣に座り、楓の制服のワイシャツの腰当たりの切り裂かれた部分を掴んでワイシャツをいきなり脱がせた。

「ちょ、ちょっと工藤さん?」

「わぁ人間のままだ。でも、傷跡は残ってないんだー」と工藤が言うと楓の腹部を思いっきりつねって楓が「イタッ!」と反射的に声を出すとその反応を見た工藤はまた瞳を輝かせて「痛いんだ! 完全に人間なんだね」と新たな発見に工藤の好奇心を満たした。


「ねえ今度は瞳を見せてよ。人間のときは真っ黒になるの?」と工藤は楓に馬乗りになって胸ポケットから取り出したペンライトを楓の瞳に当てているとガチャリと部屋のドアが開く音が聞こえる。


「あ、連堂さん!」


 扉に腕を組んで寄りかかり楓たちを見つめる連堂は呆れたように言った。


「この部屋はそういうことをする場所じゃないぞ」

「いえ、これは違うんです」


 楓は慌ててに否定すると連堂はため息を付いてから「伊純」と呼んで楓に視線を向けた。

「昨夜の話だが、お前の意見がどうであれ2人をここで保護することにした。よって、これから俺らの目的のためにお前らは動いてもらうことになる。明日は色々と教えることもあるし、お前の友達もそろそろ目が覚める頃だろ。これから忙しくなるから今日は休んでおけよ」


 それだけ言い残すと連堂は風のように姿を消し、ドアが閉まる音だけを部屋に残した。


「だってさ楓君。頑張ってね」

「はい。あの、それよりもそこをどいてもらってもいいですか?」


 工藤は楓の話が聞こえていなかったようでまた顎に指を当ててなにか考え事をしてから楓に視線を戻した。


「混血と人間が子供作ったらどうなるんだろう?混血が生まれるのかな?ねえ試してみようよ」

「いえ、結構です」


 こうしてモラドでの楓の1日目が始まった。

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