1-8
* *
船は順調に海路を進み、空が藍色に染まるころ。
窓の向こうに、
「ふふ、綺麗よねえ。ビビアナ半島って、まるで輝く鐘みたいだと思わない?」
ふいに隣の席に座っていた初老の女性が声を掛けてきたため、一瞬で笑顔を作る。
「はい、本当に。とっても綺麗ですね」
女性が「そうよねえ!」と声を弾ませた。そして、興奮気味に身を乗り出してくる。
「私、ブルネット様の大ファンなの。明後日には、勇者城で生誕パーティーが開かれるでしょう? 招待状がないと参加はできないけれど、生誕祭期間で賑わっている島の雰囲気だけでも味わおうと思ってこうして来たのよ」
ブルネットとは勇者の名前だ。ブルネット・ライラック。
思わず身をこわばらせたメイには気付かず、女性は胸の前で手を組みうっとりと斜め上を見上げている。
「とても素敵な方よねえ。魔王を討ち果たした手腕はもちろんだけれど、あの涼やかな瞳と洗練された立ち振る舞いがたまらない! ……ああ、一度でいいからお目通りしたいものだわ。あなたも、ファンなんでしょう?」
嘘でも頷くことはできず、メイは硬い表情で小さく首を横に振った。
「いえ、わたしは別の用事があって島に行くだけなので」
「あら、そうなの? 残念だわ、同志に会えたと思ったのに」
女性が寂しそうに
「ごめんなさい」
「まあまあ! 謝る必要なんてないのよ? お互い楽しい滞在にしましょうね」
「はい。ありがとうございます」
互いに微笑みあうと、足元がぐらりと揺れた。船が港へと着いたようだ。
「それでね……」
「え? そうなんですか? 知りませんでした」
女性と談笑しながら、ぞろぞろと乗客の波に乗って桟橋を渡り切る。船着き場の敷地を抜けると、そこはもう城下町だ。
薔薇色の粘土を使用した、石造りの建物が立ち並ぶ街並み。赤煉瓦の敷き詰められた舗道は街路灯の灯りに照らされ、所狭しと並ぶ露店には多種多様な品物が並んでいる。行きかう人々はみな楽し気に笑っていて、扉を開け放した酒場からは賑やかな声が漏れ聞こえてくる。
(……ここにいるのは、きっと、勇者を信仰してる人ばかりなんだよね……)
普段もさることながら、生誕祭期間である今はなおのことだろう。
「それじゃあ、私は友人の家に行くわ。気を付けてね」
女性が、手を振り上機嫌で去っていく。姿が見えなくなった瞬間にどっと疲れを感じたのは、『天使を
小さく息を吐きだして逆方向に歩き出そうとすると、荷袋を担いだ旅人とすれ違った。
思わず振り返ると、赤茶けたマントが夜風に
(……エルさん、今ごろどうしてるだろう)
好意を寄せてくれて、危ないところを助けてくれて、港まで送ってくれた。
感謝しなければいけないのに、一方的に突き放してしまったことを思い出すと、胸に苦い味が広がっていく。
(もしわたしが天使じゃなかったら、エルさんとお付き合いしてたのかな)
考えてみたけど、よくわからない。
ただ、あんな別れ方をせずに済んだことだけは確かだ。
沈んだ気持ちで道なりに歩いていくと、やがて、探していた看板が目に入った。宿屋だ。
「あの……すみませーん」
まだ部屋が空いてますように、と願いを込めながら玄関扉を押し開けたメイは――固まってしまった。
なぜなら、カウンターに見覚えがありすぎる後ろ姿が確認できたからだ。
一つに束ねた、長く艶やかな黒髪。すらりと伸びた背中に、赤茶けた古びたマント。履き古したブーツ。
(たしかに、私と別行動だっていっても、目的があるんだから島に来てたっておかしくないよね。だけど……だからって……)
息をひそめ、そのままそーっと退出しようとした時だ。
「いらっしゃい! ちょっと待っておくれよ」
「――!」
女将がメイの存在に気付き、
カウンター前に立つ男性が振り返る。
「! メイちゃんっ!」
なんとも言葉が出てこない。その一方で、男性――エルは、メイの元まで駆け寄ってくると、両手を取りぶんぶん振った。
「同じ宿を選ぶなんて、まさに運命やなあ!」
あんな別れ方をしたというのに、彼はいたって普通だ。
「……わたし、他のところに行きます」
冷たくあしらったことを後悔していたばかりなのに、やはり優しくしてはいけないのだと痛感する。どうにかして離れなければならない。
しかし、エルはメイの手をがっちり掴んだまま。「残念やけど」と、言葉とは裏腹ににっこり笑った。
「島の宿、もうここしか空きないみたいやで?」
「へぇ……え!?」
「生誕祭期間のせいで、どこも満室なんやって」
呆然と立ち尽くしたメイを見て、女将が「その通りさ」と困り顔で頷く。
「明後日、城で勇者様の生誕パーティーが行われるんだけどね。招待されてもいないっていうのに、あちこちからわんさか人が集まってきてるんだよ。おかげで、連日どこの宿も満室続きでね。ただ、お客さんたちは運がよかったよ。うちは、あと二部屋……あら」
帳簿をペラペラとめくっていた女将の手が、ぴたりと止まった。
「おばちゃん、どないしたん?」
「……お客さんたち、知り合いなのかい?」
「知り合いも何も、運命の赤い糸で結ばれた者同士や! なあ?」
無邪気に微笑みかけられ、メイはうっと言葉に詰まった。
(ああ、もう……。わたしって、エルさんに弱い……)
いつだって、彼から無邪気に微笑みかけられると、つい許してしまう。いけないと思いつつも、人懐っこい雰囲気に飲まれてしまうのだ。
「そりゃあよかった! 申し訳ないんだけど、今確認したらあと一部屋しか空きがなかったんだよ。同室でもいいかい?」
(え!?)
「うーん。どうする? メイちゃん」
何てことない調子で尋ねてきたエルの正気を疑う。
(絶対に、ここで雰囲気に飲まれちゃいけない!)
メイはエルから視線を外し、必死な目で女将へと向き合った。
「わたし、本当にどんなに小さな部屋でも……なんなら、倉庫で結構なんです! 数日お世話になったら、出ていこうと思っていますので!」
「またまた。お嬢ちゃん、さすがに倉庫は無理だよ」
「お代はきちんと払いますから! お掃除が必要ならお手伝いしますし、部屋の代金より高くたって構いません!」
「そういう問題じゃないさ。それに、高額払って倉庫に寝泊りするだって? 冗談がうまいねえ」
冗談を言ったつもりはこれっぽっちもなかったというのに、女将がケタケタと笑う。
「えっと、えっと……あ! じゃあ、どこか住み込みで働かせていただけるお店、ご存じありませんか!?」
「うーん。残念だけど、あたしゃ知らないね。今じゃあ従業員を住み込みで雇う店も減ってきてるし、生誕祭期間は観光客の相手でどこも忙しい。見つかったとしても、すぐに働かせてもらうのは無理だと思うよ?」
「そんな……」
「ははは。恋人同士だっていうのに、お嬢ちゃんは照れ屋なんだねえ。この際、思いきったらどうだい? 若いうちに色々と楽しんでおいたほうがいいよ? いい女になるためには、経験値が必要ってね」
女将が、片目を閉じて茶目っ気たっぷりに笑う。
「違いますっ!」
メイは慌ててカウンター越しに乗を乗り出した。声がひっくり返ってしまって恥ずかしい。
「わ、わたしたちは! そんな関係じゃ――」
「わかった」
ずっと黙っていたエルが、ぽつりと呟いた。
「えっと、わかったって……何がですか?」
「俺、出ていく」
「え?」
「メイちゃんと違って、俺の探しモンは急がんくても逃げたりせえへん。引き返して、他の土地から旅を再開することにするわ」
その口調は怒っているわけでもなく、いたって普通で……それが、逆に耳に残った。
エルが静かに隣を通過する。向かう先にあるのは、宿の玄関扉だ。
あと数秒黙っていることができたのなら、彼と離れることができる。今後のことを考えたら、それが一番いい。十分すぎるほどわかっているはずのに……。
(エルさんが次に島を訪れるまでの間に、思い出の景色や物がなくなっちゃったら? エルさんのことを知る人が島を出ていっちゃったら? ……取り戻せるはずだった記憶が、失われたままになる)
「お客さん、待ちな! もう今日の定期船はないよ?」
女将の慌てた声に、エルが足を止め振り返った。
「心配あらへん。船着き場の辺りで野宿でもするわ」
「野宿だって!? そんなことしたら、兵士に
「いいんや、おばちゃん」
怪しい身なり、というところは気に障らなかったのか、エルはそのままこちらに背を向けた。誰もいない寂しい海辺で一夜を過ごす彼の姿が、おのずと思い浮かぶ。
(兵士に補導される前に、また倒れちゃうかもしれない。そんなことになって、もっと記憶を失ったら……?)
そう思うと、いてもたってもいられなくて。気付けばメイは腕を伸ばし、赤茶けたマントの裾を引っ張っていた。 初めて触れたそれはごわごわとしていて、思った以上に生地が傷んでいる。
「……同室でいいです」
「え?」
「エルさんさえよろしければ、今日のところは同室にしましょう。それで、部屋が空き次第別れる……それでどうでしょうか……? そうすれば、お互い目的が果たせますし……」
「――! メイちゃんっ!」
「きゃっ!」
感極まった様子で、エルが振り返るなり思いきり抱きついてきた。手を握られた程度なら何度もあるが、これほど密着したことはない。
拒否しなければいけない状況だというのに彼の身を引きはがせなかったのは、鼓動とともに伝わってくる体温が優しくて離れがたかったからだ。
メイをあたたかく包み込んだのは、懐かしい幸福感だった。
こうして『人間』と抱き合ったのは、天使狩りの夜、ルニカ教会の家族と別れぎわに抱擁を交わした時以来だ。
一気に目頭が熱くなる。すんでのところで涙を我慢すると、メイを両腕に抱いたままのエルがひと際明るい声を出した。
「ああ、なんて優しいんや! ますます好きになってまうわ!」
「あらまあ。若いっていいわねえ」
少しだけ鼻をすすってしまったが、きっとおかしく思われなかっただろう。
女将にもちょうど背を向けていたため、泣き出しそうな情けない顔を見られずに済んでほっとした。
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