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 本浄の体調が少し良くなった。けれども、精神的には少し弱ったままのようだった。僕が今日は歩けるか訊くと、彼女は強くそれを拒絶した。

「南の彼方まで行って、何も無かったらどうするんですか? わたし達が思い描いていた楽園が、本当は存在しないとしたら、わたしはそんな悲しい事実を知るために歩かなければならないんですか?」

 どれが引き金だったのか、という話でもない。これまでの色々が彼女を疲弊させているようだ。これまでよりも感情は荒れている。情緒は不安定だ。僕はそのことにほんの少しだけ安心した。不平や不満は言えど、これまでの彼女はそれに対する怒りを見せなかった。穏やかな諦めの感情しか見せない彼女はそれはそれで美しかったのだけれど、時にはこんな姿を見せてもいいと思う。操り人形じゃないのだから、<世界>に少しくらい反抗すればいい。



 午後になると本浄はだいぶ落ち着いてきた。だから僕たちはまた歩き始めた。

「さっきは取り乱してごめんなさい」歩きながら本浄が謝る。

「僕は気にしないよ」と答える。

「けれど、さっきだけじゃありません。わたしのせいで、今まで日向野くんにどれだけ迷惑をかけたか」

 昨日は少し荒れていたけれど、今度はその反動であるかのように僕に謝る。彼女に根差した『誰かに迷惑をかけてしまうことへの不安』が前面に出ていた。

「大丈夫だよ。僕は本浄についていくって決めたんだ。最後の最後まで。だから何も気にかけなくていい。君の信じたものについていくよ。それに、どれだけ辛くても、苦しんでも、今過ごしている時間は無駄にはならないから。目的に向かって走るその過程は、すべてかけがえのないものだからさ、きっと」

 空虚な言葉かもしれないけれど、それでもいいと思った。それで彼女が最後まで走り続けられるなら、それでいい。僕のやるべきことは、彼女を自分自身の定めたゴールまで送り届けること、それだけだから。

「今過ごしている時間は、すべてかけがえのないもの、ですか……」

 彼女が僕の言葉を繰り返す。

「うん、それが幸福か不幸かはわからないけれど、僕たちにとっては何より『生きている』という事を感じさせる価値なんじゃないかな」

「……そうですね。わたしもそう思います」

 本浄は表情を変え、しばらく何かを考えていた。僕は彼女が何を考えているかわからなかったけれど、それで彼女が少しでもいい方向に進めばいいと願った。

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