12月19日【ランプの魚】
珈琲を全て飲んでしまったあと、実浦くんは窓のそばに椅子を持ってきて、険しい表情で、深い青色の光を見つめていました。
本当は今すぐここを出て、さっき降りてきたばかりの階段を今度は上っていって、あの観測所へ帰っていきたいのです。そして、観測所のみなをここへ呼ぶことができれば、それが一番良いのでしょう。
しかし、灯り捕りはあの大荷物を持って狭い階段を降りられるのか、実浦くんには少し不安でしたし、おじいさんはきっと、観測所を放棄することを拒むだろうと分かっていました。
(やはりぼくは、ここで鯨を待つのが一番良い。鯨はどれくらいで来るのだろう。鯨が来たらすぐお願いをして、マグマを噴いてもらうんだ。それまでに、観測所が持ちこたえてくれれば良いけれど……)
青い光の中を、ランプの魚が泳いでいます。魚たちは実浦くんが見ていることに気がついたのか、興味深そうにガラスに寄ってきました。実浦くんが指をガラスに沿わせると、魚も小さな口の先でガラスをつつきます。
実浦くんは、魚たちの様子を見ているようで、本当は全く見ていませんでした。目はじっと海の奥を見つめ、いつ鯨が現れても、真っ先に見つけられるようにしていたのです。目だけではなく意識の方も、深い深い青色の奥へ、真っ直ぐに向けられていました。
ですから実浦くんは、自分がいつの間にか歌を歌っていることにも、「良い歌だね」と声をかけられるまで、全く気がつかなかったのです。
実浦くんはびっくりして、辺りを見回しました。おばあさんは部屋の反対側の隅っこで、分厚い本を読んでいます。では、誰が実浦くんに話しかけたのでしょう。
「こっちだよ」と、また同じ声が言いました。それはガラスの向こう、海の中から聞こえてきます。実浦くんは目をまん丸くして、ガラスの向こうにいるランプの魚を見ました。魚は嬉しそうに「そうだよ」と言いました。ランプの中心で光っている、橙色の温かな灯りが、ちらちら海流にまたたきます。
魚は、実浦くんが驚いていることはあまり気にしていないようで、「良い歌だね」と話を続けました。実浦くんは、もちろん自分が歌っていたことに気がついていませんでしたので、そのことにもびっくりします。
「ぼく、なにか歌っていた?」
「歌っていたよ。きみの歌うとおり、さざなみはぼくたち魚を守ってくれる傘なんだ」
それでようやく実浦くんは、自分が歌っていたのがしるべの歌であることを知りました。ランプの魚のために、実浦くんはもう一度、今度はちゃんと意識して、しるべの歌を歌います。魚はおおいに喜びました。そして、ほかのランプの魚たちも、実浦くんの方へ寄ってきました。
魚たちは、みなガラス製のランプであり、中心に橙色を抱えていることは同じなのですが、よく見ればそれぞれ個性的な形をしているのでした。
胴が太く肥えているものもあれば、パーティドレスのような尾びれをなびかせているものもあります。模様ガラスでできているものもあれば、磨りガラスでできているものもあります。ガラスの色も様々です。
それがいっぺんに実浦くんの方へ集まってきたので、実浦くんにはまるで、自分の周りにたくさんの虹が広がったように感じられました。
魚たちが、期待するように実浦くんを見ますので、実浦くんはまたしるべの歌の歌を歌いました。歌い終わりますと、魚たちはひれをぱたぱたさせたり、ぽこぽこ泡を吐き出したりしました。それはきっと拍手の代わりなのです。実浦くんは照れくさくなって、はにかんだまま「ありがとう」と言いました。
実浦くんはすっかり、魚たちと打ち解けました。実浦くんがここに来た事情を話しますと、魚たちはたいへん気の毒がって、鯨を探して来ようと申し出てくれました。そして橙色の灯りをあっちこっち光らせながら、およそ彼らの行動圏内であろう海域を、隅々探してくれるのです。
実浦くんは少し頼もしく思い、さっきよりいくらか心強い気持ちで、椅子に座って海を見つめます。今にもあの深い青色の向こうから、巨大な鯨が姿を現すのを期待して。
「だけどもきみ、海の中を探すのに、えらもひれもないのでは不便だねえ」
磨りガラスでできたランプの魚が、実浦くんのそばを泳ぎながら言いました。磨りガラスにぼやかされた光が、実浦くんの顔をぼんやり橙色に照らします。
「空気のあるところから、そうして座って見ていることしかできないんだものね。きみ、ぼくたちと同じものなのに、どうして足なんかついているの」
思いがけない言葉に、実浦くんは始めその意味をはかりかねて、何度か続けてまばたきをしました。そして少し間を置いて、「ぼく、きみたちと同じものなの?」と尋ねました。魚は頭を上下に振りました。おそらく、うなずいたのです。それで実浦くんは、いよいよ分からなくなりました。
「ぼく、自分は人間だとばかり思っていたけれど、本当はランプの魚だったのかしら」
「本当か本当でないかは分からないけれど、少なくともきみは、ぼくたちと同じものだよ」
「それではきみたち、夜の国へ来る前は、一体なんだったの」
実浦くんが思い切って尋ねますと、魚は銀色の泡を吐き出して、「ぼくたちは、可能性だったものさ」と言いました。
磨りガラスのランプは、内部の光をまたたかせながら、実浦くんの目の前を行ったり来たり往復します。魚の泳いだあとに、銀色の泡と金色の光があとをひいて、わずかの間だけその場に留まり、やがてすぐ上の方へ昇っていきます。
「あの子は、野球選手になりたかったんだ。たくさん練習をして、とても上手になったけれど、肩を壊してしまった。だから諦めた」
磨りガラスの魚は、寂しそうに尾を震わせました。
「もしあの子が怪我をしなかったら、あの子の未来で輝いていたはずの可能性。それが打ちのめされて、放棄された。そしてぼくになった」
実浦くんは、青い海のあちこちで光っている魚の、ひとつひとつを見ました。それぞれ色や形の違う、様々なランプの魚たちを見ました。
「あれらがみな、放棄された可能性なの?」
「そうだよ。叶えられなかった夢、諦められた望み、到達できなかった未来。それがぼくたちだ」
橙色の灯りは、目の前の海いっぱいに広がって、星空とほとんど代わりがありません。実浦くんは、その光景を美しいと思ったのですが、こんなにたくさんのランプの魚たちがいることに、たまらなく叫びたくなりました。この美しい灯りたちを、放棄せねばならなかった誰かを思い、泣き叫んで、地団駄を踏みたくなりました。
「悲しいと思うかい」
顔を歪めている実浦くんを見て、磨りガラスの魚が諭すように言います。
「だけどもぼくたちは、こんなに明るく光っている。それはぼくたちを放棄したものたちが、ぼくたちのことを思い出してくれるからだ。なにも悲しいことはない」
「そこに後悔や、失望や、耐え難い苦痛があったとしても?」
実浦くんは思わず、誰かを責めるような強い声で言いました。魚は驚いたり怒ったりせずに、しかし実浦くんの問いに答えもせずに、ただ水銀の封じ込められた目で、実浦くんを見つめました。
「実浦くん。きみは、どんな可能性だったの?」
そのとき、海の遠くの方から、伸びやかに歌うような声が聴こえてきました。その声にじっと耳を澄ましていますと、次第に体が海水に溶けていってしまうような気がする、不思議に懐かしい声でした。
「ああ、これは鯨の歌声だ。ほら見てご覧。みなが連れてきてくれたんだ」
磨りガラスの魚はそう言って、薄いミルク色をした尾びれを振りました。
深い深い青色の、さらに青の濃くなった奥の方から、橙色の光の粒が泳いできます。鯨を探しに行った魚たちが、意気揚々と帰ってきたのです。
魚たちは踊るようにして、大きな黒い影の周りを泳いでいます。影はあまりに大きすぎるため、ひと目ではその全体を捉えることができません。魚たちが近寄ると、橙色の光に照らされて、海をそのまま固めたような皮膚があらわになります。大きな大きな、とても大きな鯨です。
あんまり大きすぎて、頭の方がずいぶん近寄ってきても、まだ尾っぽが見えません。それに、一体鯨の目がどこにあるのか分からず、どこかにあるのでしょうけれど、どこを見ているのかさっぱり分からず、実浦くんは、鯨がこの博物館にぶっつかりやしないかと、不安に思いました。
けれど鯨は、博物館の少し手前で器用に止まり、大きな口を大きく広げてにかっと笑いました。
「いやあ、迷った迷った。親切なランプたちが来てくれなきゃあ、遠く北極の海まで迷っていくところだった」
鯨の声は信じられないほど大きくて、博物館はまるで地震の起こったようにびりびり揺れました。これには本を読んでいたおばあさんも驚いて、居心地の良さそうな安楽椅子から立ち上がり、海の方へ走って来ました。
「ああ鯨が来ましたね。それは良かった。ねえあなた」
おばあさんは、骨ばった手でガラスを叩いて、鯨の気を引きます。
「あなたここで、マグマを噴いてくださらないかしら。この坊っちゃんが困っているのよ。あなた潮を噴くのは得意でしょう」
「得意だけれどもねえ」
鯨は周りのもの全てを震わせながら言います。
「さっきスルツェイの方で、ひと噴きやってきたあとだから、そう何度もやって良いもんかねえ」
「良いんですよ。ここは三次空間でなく、放棄の海なんですからね」
おばあさんが言いますと、鯨は驚いて泡をぼこぼこ吐き出しました。魚たちが吐き出すぶんには、泡も銀色にきらめいて美しいものですが、なにせ大きすぎる鯨が、いっぺんにわっと吐き出しましたので、泡はめちゃくちゃに海をかき回し、ランプの魚たちはわあーっと言いながらあちこちに流されました。
「ああ、ごめんなさい。申し訳ない。いやしかし、ここが放棄の海だとは。いくら迷い鯨とはいえ、放棄の海まで来てしまうとは、わたしもずいぶん、迷うのが上手くなったもんだ」
鯨はぶつぶつ呟きましたが、やがて実浦くんが、不安そうに鯨を見上げているのに気がついたのでしょう。「そういうことならば、構わないよ」と快く言いました。
それを聞いて実浦くんは、ようやく胸のつっかえが取れたようになって、微笑のようなものを浮かべました。
鯨がマグマを噴かすには、火口の底を塞いでいる岩盤の、すぐ真下に鯨が泳いで行きまして、そのあとで誰かがつるはしでもって、岩盤を壊さねばならないと言います。そうすれば、岩盤の割れ目から鯨の潮が噴き出して、岩と海水と熱とが混じり、マグマとなって地上へ噴き出すのです。
もちろん岩盤を壊すのは、実浦くんがやらねばなりません。それを分かってもやはり実浦くんは、頬に微笑を残したままでした。今は恐れよりも、ああもうこれで、あの嵐をどこかへやってしまえるという、安堵の方が大きかったのです。
「では準備をするからね。十分たったら、岩盤を壊してくれよ」
鯨が深くへ潜っていきます。実浦くんの前の海には、ランプの魚たちだけが残されます。
「行くのですね」と、おばあさんが実浦くんの肩に手をそえて言いました。実浦くんは「はい」とうなずいて、おばあさんに珈琲のお礼を言いました。
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