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一九九一年
俺、本条司は二十一歳で、高校卒業後は定職にも就かずフリーターを続けていた。今はコンビニの早朝バイトと映画館の掛け持ちをしていて二年目に突入したところだ。コンビニは週二日、主は映画館なんだけど、なんたって最低賃金なもんだから週五日働いてもたいした金にはならない。それでも続けているのは映画が好きだからだ。俺本人はタダで見放題だし、毎月招待券を十枚もらえるから、これを使ってコンビニバイトで知り合った女子高生をデートに誘ったりもしている。ただ、一度も成功には至らず、その子の友達の分まで巻き上げられて終わりって結果なんだけど。
運命の相手と出会うその日、俺は早番だった。朝八時三十分に到着すると、まだ開いてないパチンコ屋を横目に、静止したエスカレーターを登っていく。二階に着くと右手にポスターやスチール写真が飾られたショーケース、正面の上にはオリオン座の文字がある。このオリオン座は俺が子供の頃からあって、東映まんが祭りという何本かのアニメをまとめた映画を観に通った思い出がある他、中高生になっても利用したなじみの場所でもある。上映は二本立てが基本で、全席自由だから、外出してもチケットさえ見せれば何回でも再入場可能という夢のようなシステムだ。そのおかげで暇人のたまり場にもなっていたりするけど。
支配人室にあるタイムカードを押した後、開場準備を始める。木製の折り畳み式看板を外階段に出し、売店の商品の補充だ。売店といっても粗末なもので、横長のガラスケースの中にパンフレット、あればグッズ。お菓子は定番のポップコーンを始めとした袋入りスナックやチョコレートが何種類か並べてあるだけ。ドリンクはロビーに設置された自販機のみで、これもたまに補充する。つまり、仕事も簡単だから安くても文句言えないんだよな。
「夏休みが終わると静かでいいなあ、本条くん」
フィルムの用意を終えて映写室から降りてきたのは小糸さんだ。四十七歳の酒、タバコ、ギャンブル好きの絵に描いたようなダメ人間だけど、この道二十年以上のベテランで、映写技師としての腕は確かだ。フィルムを途中で切り替えるサイン、スクリーンの右上に出る黒い丸は、タバコの焼け焦げが由来だと教えてくれたのはこの人だった。
「本当ですね。小学生の騒ぎっぷりは台風みたいなもんだから」
普段と違って夏休みや正月、そして大作映画を上映している休日だけはオリオン座も忙しくなった。ちなみに時給がアップすることはないけれど、大入り袋が配られることはあって、多い時にはお札も入ってたりする。
「あら。今やってるのも人気でしょ。週末は大変だったわよ」
カウンター、こちらも売店同様に立派なものじゃなく、一人しか入れない囲い部屋になっていて、よく会社なんかの門の近くにある警備員室みたいな感じだ。売店の方に面した横の窓から首を突っこんできたのは五十歳の高島さん。せっかちなので時々イラッとさせられるけど、根はいい人だ、と思う。
高島さんが言ってる人気のやつとは、大ヒットしたSFの続編『ターミネーター2』だ。一作目と比べて製作費が段違いで、最新のCG技術も使われてるから公開前から話題になっていた。
「俺、日曜に来てみましたけど、既に行列だったからやめちゃいました。高校生のバイト達は大変だっただろうなあ」
自分はシフトじゃないから他人事だ。それに対して高島さんは顔をしかめた。
「私だって、てんてこ舞いだったわよ。いいわね、二人共、土曜日休みで」
土曜も出てるのは高島さんが稼ぎたいからじゃないか。俺が心の中にとどめたことを、小糸さんは平気で口にする。
「がめつい誰かさんとは違うんでね。フィルム回せるのは俺ともう一人しかいないし、土日休まなきゃ身体がもたないよ」
小糸さんはそう言い捨てると、耳に掛けていたタバコを咥え、中二階へ戻っていった。
「あんなひどい言い方しなくてもいいじゃない。人をなんだと思ってるのかしら。本条くんもそう思わない?」
俺は苦笑いしかできなかった。二人の小競り合いは日常茶飯事なのだ。
高島さんが尚も愚痴をこぼそうとした時、上映を告げるブザーに救われた。
上映初日から二週間経った平日は、予想どおり客は少なかった。二百席の三分の一も埋まっていない。今日は暇かもしれないと大きく伸びをする。
ところが、呑気でいられたのは二回目の上映までだった。職業不明の男性客達に交じって、女子大生らしきグループが何組かやってきたのだ。エドワード・ファーロング目当てだろうけど、そんなことは関係ない。どこか薄暗くて、じめっとしていた館内がパッと明るくなる。笑い声をあげて通り過ぎる女子達に、つい鼻の下が伸びた。
「例の子、来てたわね」
上映開始のブザーと同時に扉を閉めて戻ってくる俺に、高島さんが声をかけてきた。
「例の子って?」
売店の中にあるキャスター付きのイスごとカウンターの小窓に向き合う。
「坂井さんから聞いてない? 最近よく来てる外国人の男の子の話」
首を捻って記憶をたどるも心当たりがない。いや、待てよ。確かに聞いた気がする。
「もしかして、アイドル顔負けのかわいい男の子のことですか? ノースキャロライナキャンディみたいな感じの子って言ってた」
説明すると、ノースキャロライナキャンディとは、昔、不二家が出していた木の年輪をモチーフにしたソフトキャンディだ。個包装にされて袋のパッケージで売っていた。
俺の返事に、高島さんは笑う。
「坂井さんって、人を食べ物に例えるの上手ね。当たってると思うわ。甘い顔した、お人形さんみたいにきれいな子だから」
「へえ、そうなんですか。気づかなかったな」
「本条くんは女の子しか見てないものね」
それに対しては否定できない。頭を掻いて仕事に戻った。といっても上映中はたいしてやることもない。客からの電話の対応の合間に、マンガ雑誌でも読んで時間が過ぎるのを待つだけだ。
その平穏を破ったのは「痴漢‼」の叫び声の後に、客席から一目散に飛びだしていった男の姿だった。慌てふためく高島さんに警察官を呼んでくれるように頼むと、全速力で男を追いかけた。
腹立たしいことだけど、映画館の暗闇は痴漢にとって格好の仕事場になる。それゆえにこうした事件は経験済みで、だからこそ条件反射のごとく行動できた。
表に出るや、駅とは逆方向に走っていく背中を目指す。自慢の体力と脚力をここぞとばかりに発揮して、五十メートル先の歩道で男に追いつき、そのまま押し倒した。
「すみません、許してください! もう二度としませんから!」
俺の下で平謝りする横顔には見覚えがあった。痩せ型の、気弱そうな三十代の男。
「あんた、常連じゃないか。うちに痴漢しに来てたのか」
怒りに任せて男を引っ張り起こす。両腕を背中に回してがっちりと押さえこんだうえで、オリオン座へ向かった。その間も男は謝り続けていたけど、一切無視だ。俺は痴漢が大嫌いだった。
ロビーで待っていたのは二人の警察官と支配人だった。オリオン座から歩いて十分もしない所に交番があるんだけど、運良くいてくれたらしい。
「よく捕まえたね、本条くん」
そう褒めてくれたのは六十歳の雇われ支配人、権藤さんだ。大橋巨泉にそっくりなので、みんな陰で巨泉と呼んでいる。
「お手柄だね。また感謝状が出るよ」
警察官の中年の方、沢部さんが、にこやかに言った。
「金一封の方が嬉しいんですけどね」
俺は半分本気で答え、犯人をもう一人の警察官に引き渡した。男は観念したのか、すっかりおとなしくなっていた。
「被害者の人、大丈夫ですか?」
沢部さんに尋ねる。女子大生の一人だろうと決めてかかっていたから、沢部さんの後ろからおずおずと姿を見せた人物に驚いてしまった。
「すみません。大事になっちゃって……」
遠慮がちに小さい声を出した相手こそ、坂井ちゃん命名のノースキャロライナキャンディだった。艶のある栗色の髪は少し長めで、頬にかかっている。同じ色の垂れ気味の目がまさにとろけるように甘い顔を演出していて、少女マンガのキャラクターといっても過言じゃなかった。
おそらく、この時の俺は口を開けたマヌケヅラをしていたに違いない。美少年は困ったように視線をそらせた。その仕種がまた、たまらなくかわいかった。
「これから調書を取りに来てもらうんだ」
沢部さんが言っている。
俺の目は完全に美少年に釘づけのままだ。
嘘だろ。こんなかわいい子が男? そこらの女の子より何倍もかわいいじゃないか。
百八十センチの俺より十センチは低い、線の細い身体が一人にしておけない気持ちにさせられ、勝手に次の言葉が飛びだしていた。
「心細くない? 俺、付き合おうか?」
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