免罪符
落ちつきを取り戻した寛治が警察に電話をすると、すぐにサイレンが聞こえてきた。駆け付けた警察官たちは奈々たちを見て唖然としていた。
当然、寛治は連行された。
奈々はこれでもかっていうほど事情聴取を受けたが、事件から一ヶ月が過ぎた今、警察に呼ばれることはなくなった。奈々の父親も娘を心配して神凌町へ戻ってきていたが、二週間前に単身赴任先へと帰っている。
高校生が同級生の父親を殺した。
そのショッキングかつセンセーショナルな事件がニュースで大々的に報道されたのはたった一日だけ。
テレビ各局はすぐに有名俳優の不倫問題、大物アイドルの薬物使用による逮捕の映像を流し始めた。
ネット上ではしばらく盛り上がっていたようだが、自称正義マンたちの狂った欲望を満たしきった後は、路上に吐き捨てられたガムみたいに誰も気にしなくなった。
寛治の住んでいた孤児院に届いていたという誹謗中傷の手紙も、もう来なくなったらしい。
まあ、とはいえ
寛治はきちんと自首をし、今は少年院か鑑別所か、そこらへんはよく分からないがきっとみんなのことを信じて更生に努めているはずだ。
「……なのに」
背後で昼ドラを見ている母親に聞こえないよう呟く。こんなことしている場合じゃない。勉強よりも大切なことがある。ってかやっぱり、リビングで勉強するのぜんぜんはかどらないんですけど!
事件後、奈々は奏平の彼女になれるように、奈々なりに行動していた。
思わせぶりなメッセージをラインで送ってみたり、ボディタッチを多くしてみたり、休み時間にわざわざ奏平の教室に行ってみたり。……我ながら呆れる。なんだこの小学生みたいな行動の数々は。近頃のませた小学生の方が、もっと積極的かつ効果的なアピールができるはず。
奈々は頬杖をつく。ため息とともに目を閉じると、りんと奏平が楽しそうに会話する姿がまぶたの裏に浮かんだ。
きつい、なぁ。
奏平にアピールするたび、脳内のりんの笑顔に黒い靄がかかる。自分が奏平とつき合うということは、りんから奏平を奪うということだ。本当にそれで大丈夫なの? という思いを捨てることなんてできない。でもこれは寛治のためなんだ! と奈々はいつも自分を奮い立たせている。
「奈々。ちょっといい?」
なんで今声かけてくるのさ。
お母さんはいつも空気が読めない。
「なに? 勉強中」
不機嫌さを隠すことなく振り返ると、呆れたように首を振るお母さんがこちらへ歩み寄ってきていた。
「勉強って、さっきからずっとボーッとしてただけじゃない」
「ちゃんとやって――」
お母さんのただならぬ雰囲気を悟り、背筋に寒気が走る。
目の前で立ち止まったお母さんは、顔の表情筋をまったく動かさずに言った。
「お母さんはね、もう、いいと思うのよ」
「……え?」
何が?
「だからね、お母さんは、もう勉強だけに集中して欲しいって言ってるの」
その威圧的な声に身体が震えあがる。母親の黒々と光る瞳に、奈々は恐怖を覚えた。
「し、集中してるよ。今だってこうして勉強してるじゃん」
「あなたはもう高校二年生よ」
「だから、ちゃんとこうして勉強して」
「もうあの子たちと遊ぶのはやめなさい」
「あの子たち、って?」
お母さんが誰のことを言っているのか分かっていたのに、奈々はそう聞き返した。
「あの子たちよ。あなたがいつも遊んでいる人たち」
「どうして?」
「だってそうでしょ?」
「はっきり言ってくれなきゃ分かんない!」
「人を殺したじゃない」
お母さんは淡々と口を動かす。
「あのグループは殺人犯の仲間。狂った人たちなのよ」
奈々はその言葉の意味をすぐに理解しきれなかった。くるった? 頭の中で反芻している間に、母の口から新たな言葉が聞こえてきた。
「あんな人たちといると、あなたまでおかしくなる」
あ、これ、糾弾されてるんだ。
「現に今、勉強に集中できていなかったでしょ。常に上の空で、なにか思い悩んでる」
みんなを糾弾されてるんだ。
「勉強中だけじゃない、ご飯の時もそう」
お母さんと一緒にいる方が頭おかしくなるよ。
「あの日、あなたが第一発見者になったせいよ。あなたはそれで苦しんでるのよ」
たしかに悩んでるけどさ。
「精神的にショックを受けているの。あいつらのせいで」
そうじゃない。
むしろあの日、寛治と会話できたことで本心と向き合うことができた。
「それに、さっきも言ったけどもう高二の夏休みなの。勉強に本腰を入れないと」
お母さんは間違っている。
「あなたには才能があるんだから」
東大卒のお父さんがいるだけだ。
「友達と遊んでいる暇なんてないの」
お母さんは、ただ娘に勉強して欲しいだけなんだ。
「そりゃお母さんも、あなたの友達に対してこんなこと言いたくなかったわ」
いいや嘘だ。
お母さんは、娘を勉強に集中させる絶好の理由ができたと喜んでいるのだ。
「つき合う友達はよく考えなさい。これはあなたのためを思って言ってるの」
娘のことを考えるふりをして、自分のコンプレックスを発散させたいだけなんだ。
「お願いだから分かってちょうだい」
狂っているのはどっちだ!
「ふざけんな!」
奈々は怒りに任せて立ち上がった。椅子が後ろ脚を視点にして倒れ、背もたれが床の上で何度かバウンドする。
「こんな家、出てってやる!」
そう宣言し、呼び止める母親を無視して家を飛び出した。じりじりと照りつける日差しが鬱陶しくて、奈々は走りながら低く唸る。疲れたので立ち止まると、そこは寛治が奏平の父親を殺した現場の前の道路だった。
「あー、あっつ」
火照った体を冷やそうと胸元をパタパタさせる。寛治の残像を見つけようと空き地を見つめるが、そこには誰もいない。
「なにも、なかったみたいに……」
寛治が警察に連行される時は野次馬がわんさか集まっていたのに、日が経つにつれて訪れる人の数は減り、今はもう元の空き地に戻っている。いや、人殺しがあった場所だからか、前よりももっとここを通る人は少なくなった気がする。
こうやって注目を集めた場所でさえ、時が経てば人々の記憶から忘れ去られてしまう。人間関係と同じだ。離れる、はすごく簡単であっけない。地元にいるのに誰とも会おうとしないお母さんがそのいい例だ。
もちろん、それはみんなとだって例外ではない。
同じ高校に入学したのに、クラスが違うだけで話す頻度はめっきり減る。
高校を卒業して進学や就職で各地に散らばれば、会えるのは年一、二回程度。
成人式で久しぶりだねーなんて言い合って、夏休みに遊ぼうって話をしても大学の友達と遊ぶからまた今度ってなって、就職して働き出したら仕事で忙しいからごめんねってなる。
そのうち遊ぼうって誘うことをためらうようになって、ラインのグループが埋もれていって、なにも起こっていないからこそ億劫になって、気がつけば誘いたいとすら思わなくなって、赤の他人に戻ってしまう。
どこかで偶然再会してもきっと、互いに気づかない振りをしてすれ違うようになる。
そんなの嫌だ。
そんな風に大切な人たちと別れたくない。
「やるって、決めただろ」
これは寛治のためでもあるのだ。
寛治の帰る場所を守るために、今の自分ができることを……。
「覚悟を決めろ。山那奈々」
胸の辺りを拳で小突く。これは寛治のため。やるしかないのだ。足を一歩踏み出すたびに、そう呟く。
寛治のため。
寛治のため。
寛治のため……。
その言葉で心の中をいっぱいにした時、ようやく奈々は走り出すことができた。
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