第96話 真打・五人とひとりとお祭り騒ぎ 前編

 成り行きっておそろしい。そりゃもうほんとにおそろしい。

 俺はそれを、しみじみと噛み締めていた。

 誰だよ、うちのクラスで何もやらないからって、隣を手伝えなんて言い出したのは。

 

 こんちわ。毎度お馴染みまこっちゃんです。八木真です。

 夏休みの、海水浴場での大捕物から一ヶ月ちょっと。相変わらず俺達──俺、忠広、源にまさやん、結城の五人と、謎多き豪傑娘の比企は、放課後には上海亭で揃って夕飯前の小腹を満たしては、くだらない馬鹿話に興じていた。中間テストもどうにか乗り越え、やっぱり桜木さんのマンションでちょくちょく勉強会やって、手料理を振る舞われ、という具合に、平和な日常を満喫していたのだった。が。

 ことの起こりは、秋の学校行事の華。文化祭だった。

 俺達のクラス・二年二組は、ホームルームでの合議の結果、これといった案も出ず、有志で参加というプランも、希望者が少なすぎてお流れとなった。のだが、そこへ隣の一組から、手が足りないので何人か来てくれないか、と打診があったのだそうだ。

 え? 俺達は名乗り出なかったのかって?

 出ませんって。だって、朝のホームルームに出欠さえ取れば、あとは遊んでいようと帰っちゃおうと問題なし、大っぴらにサボれるんですよ?

 ところが、俺達のそんなスウィートな目論見はあっさり崩れ去った。

 その日、比企は夏休みの一件の報告書を提出しに、探偵の各種権利関係の取りまとめや省庁とのパイプとなっている公社に行くのだとかで、上海亭にいたのは俺達だけだった。そこへ珍客がやってきたのだ。

「あんた達、こんなとこに溜まってるのね」

 美羽子は店内を軽く見回して、それから俺達のテーブルの、いつもは比企が座っているところに腰を据えると、ところで、と切り出したものだ。

「あんた達、うちのクラスの比企さんと仲がいいって聞いたわよ」

 え。なんだなんだ一組クラス委員。幼稚園のお砂場以来の付き合いで、つい身構える俺と忠広に、美羽子はねっとりとした笑みを向けた。コワイ! 比企ほどじゃないけど、割とかわいい部類に入る美羽子だが、騙されるな、こいつは比企とは違うベクトルで危ないのだ。

 そう。美羽子は、ことあらば周囲の人間を巻き込んで爆進するのだ。俺と忠広は、美羽子を陰で「人間ローラー」「キャタピラー美羽子」と呼んでいた。イメージとしてはアレです、ハムとかつくる機械ね。こう、上から肉入れて下からニュルニュルとミンチが出てくるやつ。あんな感じで有無を言わせず他人をハムにしていくのだ。いや別にほんとにハムにするわけじゃないけど、まあそのぐらい強引に他人を引き回して動いていくの。幼稚園のお砂場以来、何度俺と忠広が散々な目に遭わされてきたことか。

 別にい、と俺達は曖昧に濁した。まあいいわ、と美羽子はサイドポニーを軽く揺らして、奥から出てきたおばさんにマンゴープリンを注文した。

「あんた達に頼みがあるのよ」

 おいでなすった! 俺と忠広は瞬時にアイコンタクト。高校からの付き合いではあるが、源とまさやん、結城も美羽子についてはそれなりに耳にしているので、気持ち引き攣った笑みを浮かべている。

 それでね、と美羽子は実ににこやかに話を進めた。

「ちょっとね、困ってるのよ。比企さんがね、うちのクラスの企画に参加しようとしないのよ。ただでさえ人手が足りないっていうのに。二組にまで手伝いをお願いしてる手前、ほら、困るじゃない。だから、」

 あんた達からも、ちょっとは参加するように口添えして欲しいのよ、と美羽子はおしぼりで手を拭った。

 めんっどくせ! でも突っぱねると、それはそれで更に面倒しか生まないのは、幼稚園からの付き合いで嫌というほどわかっている。

 わかった、と俺はため息をついた。

「ただし口添えだけ、俺達はそれ以上はやらないぞ。そこから先はお前ががんばれよ。あいつはたぶん、他人を動かすだけで自分じゃ何もしない奴の話には耳を貸さないぜ」

「あと、たぶん命令っぽい言い方すると、比企さん絶対動かないだろうから気をつけろよ。お前いっつも強引だからな。下手したらこの先、何があろうと手を貸しちゃくれないかもしれないぞ。対応間違えるな」

 忠広に釘を刺されて、何それ、と美羽子は眉根を寄せるが、いやほんとそういうところあるからね。

 ところでさあ、と一切空気を読まない漢・結城がおっとりと訊ねた。

「一組って何やるんだ? 」

 言われてみれば、それがわからないことには口添えのしようもないな。すると美羽子は実に腹の立つドヤ顔で言ったものだ。

「女装メイド&男装執事喫茶」

 まじかよ。

 

 そして迎えた文化祭初日。

 比企は一分の隙もない燕尾服の執事ファッション、俺達五人は黒いロングスカートのビクトリアンなメイド服で、揃って仏頂面を並べていた。

 有無を言わさぬ美羽子の一方的な「お願い」の翌日、俺達は上海亭で、いつものように夕飯前の小腹を満たしにやってきた比企を捕まえ、白々しく青春の思い出作りとか、聞いた風な言葉を並べて説得に当たったのだが、前日の報告とやらがよほど嫌な仕事だったのか、比企のご機嫌はあまり麗しいとは言えなかった。

 五目焼きそば特盛の皿を空にしたところで、比企は俺達の顔を順に見て、それで、といつも以上に無愛想に言った。

「その、楽しい日本の高校の文化祭とやらで、貴君らはどんな催しに参加して、どんな思い出を作るんだ」

 ──痛い質問!

「そ、れは…」

「比企ちんも思い出作ろうぜ! と誘うのなら、貴君らだって何かしら、楽しい催しの企画を立ち上げて、やっぱり思い出を作るんだろう」

「いやあの」

「今はほら比企さんの話だからさ俺達はさ」

「なんだなんだ、貴君ららしくもない。ご自分らのことは棚上げか。安全圏からものを言うとは情けない」

 比企はそこで、次の焼豚炒飯特盛に取り掛かると、私の戦友をそんな玉なしにしてしまったのは一体どこの誰だ、とため息をついた。

「夏休みに見せたあのガッツはどうした。あのときの貴君らには、確かにダイヤの魂があったというのに嘆かわしい」

 いやまあ、それでもやっぱり強い女というのはコワイもんですよ。ええ。

 俺達はあっさりと、美羽子の名前をゲロった。だってあいつにはこれっぱかしも義理なんかないし。むしろ、幼稚園のお砂場からこっち、かけられた迷惑分の慰謝料を払いやがれとしか思ってないからね。

 笹岡さんか、とひと言、比企は地の底から湧き出たようなため息をついた。

「彼女のあのやる気はどこから生まれるんだ」

「ごめん…あいつ昔からああなんだ…」

「自然災害と思って、ここは穏便に」

 天井を仰ぐ比企に、俺と忠広が手を合わせ拝む。俺のお袋と忠広んち、美羽子んちのおばさん達とは、幼稚園のママ友以来、妙に気が合って、今に至るまでしょっちゅう買い物だのお茶だのと、互いの家を行ったり来たりし、一緒に出かけたり温泉旅行に行ったりしているので、さすがにあいつに被害が出るのはちょっとまずい。

 俺達の顔色を見てとって、特盛炒飯を平らげたところで、比企はわかった、と言った。

「私にだって浮世の義理はある。貴君らにだってあるだろう。貴君らは説得した。私は話を聞いた。それでよかろう。もしもそれで笹岡さんが何か言うようであれば、そこから先は彼女と私の問題であって、貴君らは一切関係はない」

 仮に彼女が不満を述べるようであれば、あとはお前達の問題だと突っぱねればよろしい、と比企は言った。

 言ったのだが。

 その週末。俺達は、すっかり恒例となった比企の家での勉強会に出かけようとして、待ち合わせ場所へ向かう途中、美羽子に捕まった。

「どこ行くの、あんた達」

 その笑みは、十三日の金曜日に遭遇するという黒猫の如きねっとりとした表情。黒髪のサイドポニーを軽く揺らし、ねえ、とやおら切り出す。

「この前お願いしたこと、首尾はどうかしら」

 まずい。こうなると、下手に逃げるほど美羽子は騒ぎを大きくしていく。俺と忠広は腹を括った。

 案の定、美羽子は勉強会にくっついてきた。出くわした時点でチャットルームにSOSを入れていたおかげで、さして混乱もなく、比企は仕方ないと言わんばかりのうんざり顔で、いつも通りの公園駅前で待っていた。そして、いつか俺達が通ったあの道を、きっちり通る美羽子。マンションのラグジュアリー空間に呑まれ、出迎えた桜木さんにキュンキュンして、それでも平常なままの比企に驚き、出された昼食と三時のお茶のデザートにノックアウトされ打ちのめされる。まあ、女子にあの料理の数々は、喧嘩売ってるとしか思えないよね。店で食うよりおいしいし、盛り付けもきれいだし。お部屋もきれいでセンスいいし、うん、やっぱり帰る道で、すんごいおとなしかった。

 まあねえ、勉強会の合間、昼飯ご馳走になってる間は威勢がよかったんだけどね。

 比企さんはずっと外国のご親戚のところで療養していたそうだけど、日本の学校の文化祭は初めてよね、実際に参加すればとっても楽しいわよ、云々。もっともらしいこと並べ立てては、わあすてきだねえ、きっといい思い出になるよ、と述べる桜木さんに乗っかってけしかけようとするのだが。肝心の比企が実に冷静であった。

「それで、」

 至極冷静に、比企は言ったものだ。

「参加したところで、私は何を得られるのかな」

「だから、思い出ができるし」

「思い出、ね」

 もっと実利的な話をしようか、と比企。

「笹岡さんには申し訳ないが、私はこれで、実利主義な人間なものでね」

「な、実利って、ちょっと、そんな、お金なんて出さないし、そもそも文化祭ってのは、そういうものじゃないわよ! 何考えてるのよ」

 まったく、と言いかけた美羽子に、比企はいやいや、と苦笑すると、

「どうせなら、参加して楽しかったと言えるような余録が欲しいんだよ私は。金なんて心底どうでもいいんだ」

 うん、そりゃまあどうでもいいよね。その気になればいくらでも、バクダンみたいな金額でお仕事受けられるもんね。

 え、と考え込んだ美羽子。そこで比企は、ちらりと俺達を見た。

 嫌な予感がした。

「そうだな、たとえば」

 彼らにも手伝ってもらうというのはどうかな。比企はニヤリと笑って美羽子をそそのかした。

「どうだ笹岡さん。人数が欲しいのだろう。私に手伝わせたければ彼らを巻き込むのがよかろう。君は一人でも多く頭数を増やしたい。私はどうせなら面白い環境で参加したい。戦友諸君は暇を潰せる。これが一粒で二度おいしいグリコのおまけ理論だ」

 どうかな。そう言って不敵に笑う比企。あの、ちょっと、なんていうか、女子相手にその顔はまずくないか。イケメンすぎないか。

 案の定、美羽子の様子がちょっとおかしくなってきていた。なんかこう、ポーッとしてませんか。目が潤んでますよ。やばい。そのイケメンにはちんちんありませんよ!

 猛烈に嫌な予感がした。俺はできるだけ存在感を消そうと、息を殺し物音を立てず、できる限り静かにしていた。していたのだが。

 俺と忠広の頭を美羽子が鷲摑みした。

「ねえ、マコちゃんヒロちゃん」

 テンプレのような猫撫で声。プルプルと小鳥のように震える、キュートで哀れな俺と忠広。

「お願いがあるんだけど、二人ともわかってくれるわよね」

 目を合わせるな、野生の猿と同じで、一旦目があったらおしまいだ。そう念仏のように繰り返し自分に言い聞かせながら、それでも美羽子の声は俺の耳にしっかり届いていた。

「一組の企画、二人は手伝ってくれるわよねえ」

 俺達は観念した。

 もはや、この段階で美羽子の中では決定事項。逆らったところで、いうことを聞くまでの時間が先延ばしされ、面倒がどんどん大きくなっていくだけのことだ。だったら最初から大人しく従うほうがずっと楽だ。

 そんなわけで。

 文化祭初日の今日、俺達五人は揃って女装メイド姿になっていた。そして、裏方作業ならと言ったにも関わらず、比企はしっかり執事服を着せられていた。

 ちなみに比企がおとなしく従ったのは、女の子を殴るのは寝覚めが悪いからだそうだ。

 でもあの、その当の女の子、さっきからすげえ勢いで写真撮りまくってますが。

 とりあえず美羽子、男装した比企がイケメンなのはわかった。まずは落ち着いて、デジイチをしまってこい。いや、一組の女子全員、気持ちはわかったから端末のカメラ撮影もやめておきなさい。

 さて、比企の男装ですがね。周囲の反応がこの通りということは、アレです。やばいです。イケメンっていうより、美形。大昔、俺らのばあちゃんの親の頃にはヨーロッパが舞台の、美少年ばっかり出てくる少女漫画が大流行したらしいけど、もろにその世界。具体的にいうなら、そうだな、ロシア人の美少年が執事服着て立ってる姿を想像してください。やばいでしょ。身長一六八センチの、苺色の髪のスレンダーな色白美少年がですね、教室に一歩入ると出迎えるわけですよ。女子完墜ち。しかも当人、開き直ってフランス語混じりで接客するの。フランス語なんてどこで覚えたんだか、と思ったら、ロシアの曽お祖母さんのお屋敷で、あのじいやさんに教わったのだそうな。

 そして、今回の男装女装という企画で判明したダークホースは、なんと源だった。

 もともと俺達の中では一番線が細くて、目がくりくりした源だったのだが、渋々着替えてみれば、裏方担当の女子達が揃って目の色を変えたものだ。

「源君ちょっと」「そこ座って」「あ、結構肌きれい」「ねえこのウィッグ、巻いていいよね」「リップはオレンジピンクでいこうか」「まつ毛長いやばい羨ましい」「目がおっきいしアイメイクは控えめでいいか」…どうにか振り解こうとしたところで、美羽子の「源君は清廉な剣士でジェントルマンだから、女の子に暴力なんか振るわないわよねえ」のひと言で、ぐうの音すら出せなくなってしまった。不憫。

 かくして、一組女子一同の手によって、源はちょっとした美少女メイドに生まれ変わった。

 そして事件は、呼んでもいないのにやってくるのだ。

 

 三日間続く文化祭の中日、すっかりやさぐれて開き直り、ついに美少女生活を楽しむことにした源に、招かれざる客がやってきた。

 派手な水色の髪に、アイスブルーのカラコン。シルバーアクセはドクロとかクロスとかでジャラジャラで、ぴっちりしたジーンズとダメージ加工したシャツといういでたち。俺の第一印象は「金持ちの不良」だった。はたちぐらいか、もう少し上だろうか。にやけた若い男だ。十人中半分はイケメンと言うだろうけど、表情に底意地の悪さや卑しい性根が見え隠れしていて、直感的に嫌な奴だと思った。

「よう、大牙。元気そうだな」

 源はそいつの顔を見た途端、硬い表情になった。

「何しにきたんだ」

 ご挨拶だなと男は言って、何事かと顔を出した女子にアイスコーヒーを注文した。

「久しぶりにこっちに帰ってきたからさ、かわいい弟弟子の顔を見にきただけだろ。って、ほんとかわいい格好してるな。ああ、先生元気か? 相変わらず毎朝五時起きで朝稽古してんのか」

「…あんた、どのツラ下げて戻ってきたんだ」

 そこへ、昼休憩から戻ったまさやんと結城が入ってくると、いきなり二人は緊張して臨戦態勢に。え。何知り合い?

「何しにきやがった」

「道場の恥が、失せやがれ。先生は二度とお前なんかに稽古はつけないぞ」

「自分が何をしたのか、憶えてねえとは言わせねえぞ」

 一緒に戻ってきた忠広もびっくり。どうやら知り合いというか、訳ありっぽい。

 男は結城とまさやんを見て、なんだお前ら相変わらずつるんでるのか、と笑った。

「誉も正国も元気そうだな。三人揃って、似合ってるじゃん、かわいいな。…おいおい、そんなおっかない顔するなって。昔はユキ兄ちゃんって、俺の尻にくっついて歩いてたくせして」

「黙れ裏切り者」

「息が臭えんだよ、しゃべるな」

「自分が先生と源に何したのか、もう忘れちまったのか」

 すごいな。空気がゆるい結城、常ににこやかな源、ぶっきらぼうだけど普段は穏やかなまさやんが、揃って怒りと嫌悪をむき出しにぶつけている。この三人をここまで激怒させるって、この人何やらかしたの。

 わかったよと言いながら、それでも水色髪の男は席を立たない。まあさすがに、道場に行くほど俺も無神経じゃないさ、とヘラヘラ笑っている。

「あんなに堂々と破門されちゃあなあ」

「それならなんで来たんだ」

 え。破門。俺と忠広も何度となく、源の家に遊びに行っていて、源のお祖父さんとも面識はあった。剣道の師範で、源とまさやん、結城の師匠なのだが、矍鑠としていながら、穏やかで優しいお祖父さんだ。そんな人がそこまで怒るって相当だぞ。ほんとに何やらかしたのこの人。あとまじで何しにきたのこの人。

 そこへ、男が注文したアイスコーヒーが運ばれてきた。

「お待たせ致しました。当店が丹精込めてご提供する至高の一杯、ごゆるりとご堪能ください」

 この、一ミリでも何かが動けば全てが台無しになる地雷原のような空気に、他の客は皆逃げ出し、メイドや執事は裏へ引っ込んだというのに、いきなり堂々と踏み込んで堂々と空気をぶち壊す振る舞いは。

 声の主を見ればそこには、曇りひとつない銀盆にアイスコーヒーを乗せた、苺色の髪の美形執事が不敵な笑みで立っていた。

 うわあい! すげえ頼もしい! でもその目は、完全に状況を楽しんでるよ! 比企は裏方で表の様子を聞いていて、注文の品を出すのをためらう女子とバトンタッチで出てきたようだ。水色髪の男が軽く気圧されてる。そしてまさやん、結城、源も毒気を抜かれてるぞ。俺も忠広も、思わずホッと息をついた。

 おやおや、と比企は喫茶スペースに作り替えた教室内を見回して、お客がいなくなってしまったな、と言った。

「一体何があったんだ」

 すっとぼけているが、こいつのことだ、百も承知、二百も合点なのはお見通しだ。比企の目を見よ。奴の目は「うまくすれば堂々と暴れられる」という期待でキラキラ輝いているではないか。

 俺は慌てて比企を奥へ押し戻した。

「なんでもないなんでもないから! 」

「どうした八木君、楽しそうな雰囲気なのに」

 間の悪いときには、次々と続くものだ。裏方への出入り口で比企と押し問答している俺の背中に、なんですかっ、という美羽子の鋭い声が届いた。

「なんですかって、客だろ」

「この教室から出てきた人から聞きました。それにこの状況、どうしたってあなたに問題があるようにしか見えません」

 すぐにこの学校から出てください、でないと先生と警察を呼びますよ、と水色髪の男相手に啖呵を切る。やめろ美羽子。やばい匂いがわからないのか。

 男が笑顔のまま立ち上がって、面白いなこの女、とボソリと言う。そのまま軽く腕を振り上げて、殴りかかって──腕を下ろせず固まった。

 いつの間にか比企が、背後に立って男の手首を摑んでいた。

「お客様、暴力行為はお慎みください」

 仕事のときのような、見事な営業スマイル。涼しい顔で男をそのまま出口まで引っ張っていくが、男は腕をまったく動かせない。比企は大してちからをかけているようには見えないのに。お客様はお帰りのようだ、と言って、比企はにこやかに言い放った。

「アイスコーヒー一杯、百円です」

「は、」

 男がすごい目つきで比企を睨むが、途端に盛大な悲鳴を上げた。わかった払う、ちゃんと払う、と涙目で詫びて、比企はやっと手を離す。男は出口のカウンターがわりにしつらえた机に百円玉を叩きつけて出て行った。美羽子がちょっと潤んだ目で比企を見ているが、気にしないようにしておこう。

 今はそれよりも、去り際に男が源に残した捨て台詞の方だ。

 お前みたいな甘いガキに師範代が務まるかよ。先生もヤキが回ったもんだ、そんなぬるい目論見はぶっ壊してやるよ。

 なんだなんだ、またトラブルかよ。

 

 結城とまさやん、源が語った、あの水色髪の男との因縁話をまとめると、おおよそ以下の通り。

 源のお祖父さんは若い頃、市の警察の署長さんで、早期定年退職をしてから剣道場を開き、地域の防犯ボランティアや子供達向けの剣道教室なんかもやっている。まあ、道場作って教室で教えるくらいなので、なんとかって流派の免許皆伝なのだそうだ。

 そんな教室には、四人の子供達がいた。道場主の孫で、両親が海外で仕事をしている関係で祖父母の家に預けられている源、幼稚園からの幼なじみで一緒に剣道教室に入門した結城とまさやん。この三人は同い年で、すぐに意気投合し、教室がない日にも一緒に遊ぶようになった。そしてもう一人。三人の三つ年上で、源の祖父が剣の才能ありと認める少年。三人は少年の剣筋に憧れ、ユキ兄ちゃんと慕っては、素振りを真似して技を磨いていた。

 だが、ユキ少年は、剣の筋は冴えていたが、両親の不仲や育児放棄から、生活と心はだんだん荒んでいった。それでも道場へは通っていたが、やがて彼は喧嘩の道具に、学んだ剣の技を遣うようになっていった。

 そして二年前。決定的な出来事が起こった。剣道部の交流試合にかこつけて、他校の生徒に大怪我を負わせたのだ。

 事件を知った源のお祖父さんは激怒。加減をできるだけの技量も持っているはずのユキが、手加減どころか技に溺れ、相手を叩きのめすために剣を取ったことがショックだったのだ。成長とともにそうした危うさも見せていたユキに、師として技だけではなく、志もまた伝えようと常に心掛けていたというのに。

 道場に姿を見せたユキに、なんのために剣を学んだのかと訊ねた祖父の顔を、源は忘れられないと言った。

「悲しそうだったよ」

 そんな師に、ユキはあっけらかんと答えたそうだ。

 ──強くなるために。

 その答えを聞いて、源の祖父はその場で破門を言い渡した。そして、源が高校を卒業したら師範代にすると明言した。源はもちろん、結城もまさやんも、他の門下生も、ほぼ全員がいる場でのことだった。

 理由なんか、その場にいる全員が痛いほどわかっていた。

 それまで、気味が悪いほどにこにこしていたユキは、師範代のくだりでさっと顔色を変え、ふい、と道場を出て行って、それっきり戻らなかった。

 それから二年。すっかり様子が変わったなりで、ユキは戻ってきた。

「なんで戻ってきたんだ、あの人」

 まさやんがため息をついた。

「俺達、そりゃ小学校ぐらいまではユキ兄ちゃんに憧れてたけどさ、段々こう、なんか違うなって感じになってさあ。最後の方なんかおっかなくって、手合わせとか嫌だったもんな」

 結城がぼんやり振り返る。

「ユキ兄ちゃん、どこで何してたんだろうな」

 源が窓の外に目線を投げると、

「正直、今の兄ちゃんはすごくおっかないよ。なんだあれ。どこで何やってたんだよ。あんなに他人をすぐぶっ壊しそうな気配漂わせて」

 あの男のおかげですっかり客足が途絶えてしまった、二年一組の喫茶店で、源はメイド姿のまま頭を抱えた。

「一ついいか」

 黙って話を聞いていた比企が軽く挙手した。目顔で促されて質問する。

「あの男と貴君らの関係はわかった。で、目下のところ気になるのは、あの男がどの程度やるのか、どんな思考回路の持ち主なのか、だ」

 手段を選ばない人間であったら、さっき堂々と意見した笹岡さんの身が危ないぞ、と指摘して、比企は自前のでかい魔法瓶水筒から紅茶を注いで飲んだ。

 言われてみれば確かに。

 トリオ・ロス・剣士は目を見交わして、引き攣った表情でうなずく。美羽子もさすがにこうなると不安な顔だ。いつもはキャンキャンうるさいとしか思わないけど、あんなおっかない男に狙われたとしたら、それはそれでちょっと可哀想になってくるな。

 三人は幾分白っぽい顔色で言った。

「性格は、子供の頃はただ頑固なだけだったけど、中学入ったあたりからどんどん、危なっかしくなってった」

「気に入らない相手とかだと、手合わせでボコボコにしたり」

「機嫌が悪いと物もぶっ壊してたし」

「あとすごい短気だよな」

「よその道場と交流試合して、ちょっとからかわれた相手のこと、マウント取ってぶん殴って叱られたなんてこともあったよ」

 つまり、

「笹岡さんは、少なくとも向こう何日か危ない」

「笹岡、しばらく外出るな。単純な剣の腕だけなら、たぶん俺ら三人揃ってどうにか対等だろうけど、あの人は勝つためなら平気で汚いことやれる分厄介だ」

「だからってまさか女の子を、野郎の俺らがくっついてガードするわけにもいかないしなあ」

 源とまさやん、結城が順々に警告を発した。どんどん青くなる美羽子。俺も忠広も、ガードできるもんならしてやりたいところだが、ダメだ、あの男相手じゃ確実に瞬殺される。美羽子はついに怖くて泣き出した。

 そのとき。

「笹岡さん、よかったらあの男がどうにかなるまで、うちに来るか」

 うなずきながら聞いていた比企が、唐突に提案した。

「どうも戦友諸君の評価を聞くに、その方がよさそうだ。先日来たときに見ているだろうが、あそこは不審者が侵入しにくい構造になっているし、同居人は現役の警察官で、剣道と空手の嗜みもある。つまりあの男が万一乗り込んできても、奴は対等以上の勝負ができる。あれが多少怪我をしたところで、君の身は完全に安全だ」

 おお。最後のひと言が不穏だけど、その手があったか。

「うちから一緒に通学すれば、登下校の最中には私が警護できるから問題はあるまいよ」

 ああ、その心配はないだろうが、あれが狼藉を働くようであれば、不埒なことを考えた時点で私が粛清するので心配はないよ、と比企はうなずいた。

 美羽子はキョトンとしているが、たぶん桜木さんのマンションが、一番安全なシェルターかもしれない。

 ご両親には、文化祭にタチのよくない一般客が来て交際を迫られたとでも説明しておくといい、と比企は美羽子にハンカチを手渡した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る