第13話 五人とひとりと海辺の事件 7章

 比企の声が聞こえる。

 目の前で両手に花火を持って走り回って、ケタケタ笑っている、その声が、右耳は自然に聞こえるまま、左耳はイヤホンを通した声で聞こえるのだ。

 警察署の屋上で、片耳につけて外さないようにと言われて配られたイヤホンは、湾の左右の崖や海岸沿いのバリケードからの無線連絡を警察署の作戦指揮所で統括し、必要な連絡を取り合えるようにしてあって、その中でも俺達の動向は、その全員が息をつめて見守っている。海から怪物が姿を見せたら、比企の合図のもと一斉に攻撃して、俺達をフォローする手筈なのだが、さて。

 あの、比企のお師さんが寄越した折り紙を頂点に埋めた正四角形を砂の上にしっかりと描いて、絶対にここから出るなと比企は言ったものだ。

「中にいれば、最悪私がくたばっても安泰だ」

 桜木さんはちょっと険しい表情で、黙ってその言葉を聞いていた。今も四角形の中には入っていなくて、花火で遊びケラケラ笑う俺達を見守っている。

 本当にこんなんで、誘き出されてくれるのか? 大丈夫なんか。なあコレ大丈夫なん。

 比企は言ったものだ。

 ことの始まりは魚だった。それからうみねこや猫。そしてついに人間が襲われ食われた。餌食となったものが、徐々に大型化しているということは、今はいよいよ腹が減って我慢の限界に達している可能性が高い。うみねこや猫、あのカップルも、体を丸ごとでなく、ハラワタや脳味噌といった、栄養価の高い部位を選り分けて食っていたということは、知恵があるぶんグルメなのだろう。鶏肉をたらふく食ったところで、物足りなさは出る。つけ入るならばそこだ。

 腹が減って腹が減って、とりあえず空腹を紛らわすもので誤魔化しはしたものの、それでも満たされはしない。そこに、目の前でご馳走がわんさか並んだとしたら。

「諸君ならどうだ。知らない場所をさまよって、静かで居心地のいいところに、ご馳走がわさわさ並んでいる。しかも、周りには誰もいなくて、こっそりいただいたところで、叱られる気配もない。さあどうする」

 比企はニヤリと笑った。

 俺だったらどうだろう。たぶん、ちょっとだけ…と、今は思うけど、実際に死ぬほど腹が減ってたら、飛びついてむさぼり食ってしまうかもしれない。我慢できる自信はないです。ええ。欲望に弱いし素直なので。

 かくして俺達は、危険な最前線で、比企の言うにはこの上なく安全な「結界」の中で、わいわいと花火で遊びジュースを飲みスナック菓子をバリバリ食っていた。

 確かに事件にきっちり巻き込まれていたのは、比企と出会ったきっかけとなった、俺が魚の化け物に体を取られかけたときと同じだし、能動的に状況に飛び込んだのは、東中学の事件と同じだけど、今回のはもっと危険がクッキリハッキリ見えていたから、あほの子丸出しで愉快に遊びながらも、俺もみんなも、どこか不安を抱えていた。だからこんなに楽しくて、ちゃちな手持ちの花火がこんなにきれいなんだ。ついこの前、漁り火の玄関先で花火をしたときだって、確かに楽しかったけど、あのとき俺達はこんなにバカみたいにはしゃぎはしなかった。

 浜辺をケラケラ笑いながら駆け回っていた比企が戻ってきた。

「ドラゴン花火しよう! 絶対楽しいぞ! ああ、落下傘はあるか? あれは夜にやると、どこに行ったのか訳が分からなくてカオスだぞ! 面白いぞ! 」

 こんなにご機嫌な比企は初めて見た。あんまり高揚しているので、なんか見てはいけないものを目にしてしまったような、そんな感じに仕上がってるんですが。やだコワイ! 

 とりあえず、結界云々は実は気休めでしかないのか、まだ働いていないだけなのか、源がドラゴン花火を手渡す。

 そのとき、海面にいきなりポコンと何かの影があらわれた。

 

 俺達は見ていた。桜木さんも見ていた。だから、瞬時に緊張が顔にあらわれた。咄嗟に声をあげかける桜木さん、を、軽く片手を上げて制する比企。表情は一切変わらない。海を背に、花火を受け取ろうとしていたままの姿勢で、比企はボソリと言った。

「両翼、砲撃準備。合図のあとは我々を顧みず、徹底して当たられたし」

 ザザッと砂を噛むようなノイズのあと、了解、と応じる複数の声。

 影は、数分の間じっと動かずにいた。やがて、少しずつこちらへ近づき始めて──。

 ぬうっ。

 立ち上がる。影が伸び上がる。

 ぬらりと近づく。一歩踏み出す。二歩。三歩。そのあゆみ、足取りは、のっそり、とでもいうのか。よちよちとおぼつかない。

 ぬうっ、と足を踏み出す。ずん、と地を踏む。バシャア、と上がる水飛沫。

 波打ち際からまっすぐに、こっちへ向かってやってくる。

 それは、俺達の知らない暴威だった。俺達が出逢ったことのない残虐だった。俺達とはわかり合えない酷薄だった。だから。俺は、純粋に恐怖した。何かを見て、初めてただただ怖いと、腹の底から思った。

 俺達五人は、四角に引かれた区画の中で、ひしと身を寄せ合って支えあった。とにかく怖くて、満足に口も聞けなかった。顔を見合わせうなずき合うのがやっとだった。

 影が波打ち際にまで上がってくる。その瞬間。

 不意に海岸が明るくなった。

 比企が銃口を天に向けていた。照明弾を撃ったのか。そしてそのまま、落ち着き払った声音で指示を出す。

「両翼、斉射。腹一杯食わせてやれ」

 それから比企は、銃をホルスターへ収めて、コートの背から抜き放ったのは、あのドラグノフ狙撃銃。どうやって隠してたんだ?

 明るくなった浜で、照明弾に照らされたそいつは、とにかく禍々しい姿をしていた。

 全体的なシルエットは、ガーパイクに似ていた。北米の川やアマゾン川に棲む、ワニみたいな顔の古代魚だ。だけど、胸鰭腹鰭のあたりには手足が生えていて、地を踏み、尻尾をビシリビシリと振り回し、大きな背鰭をひけらかし、自分の存在を誇示する如く堂々と立っていた。

 そう、立っていたのだ。おそろしい、というよりも禍々しかった。奴は二足歩行で立っていたのだ。それも恐ろしかったが、何より俺を恐怖させたのは、奴の目だった。

 そこには確かに知性があった。それも、人間とはまるで違うところから生まれ出たような、獣の知性とでも言えばいいのだろうか、そんなものだった。

 奴の頭は、普通の魚類より、爬虫類より、図鑑や映画で見た恐竜のそれより大きかった。きっと脳が発達しているのだ。だから知性が芽生えたのだろうか。

 でも、この世でたったひとり、たった一匹の生命では、おそらく誰とも交流はできまい。あまりに違い過ぎれば、触れ合う以前に互いに恐怖を抱くだけで終わってしまうだろう。さもなければ、こいつは食えるのか、程度のものだ。現に俺は恐怖しか持てず、奴はきっと、俺を今夜のお夕飯ぐらいにしか思っていないだろう。

 俺がそんなことをぼんやり考える間に、奴への攻撃が派手派手しく始まっていた。

 まずはパンツァーファウストが吼える。一発目が背中で爆ぜた。二発目は尻尾の半ばくらい。三発目は、奴のすぐ右手で爆発した。最後の一発は足元で。

 奴が突然の攻撃に猛り狂う。怒りをあらわに、真っ直ぐ俺達に突進し出した。そのタイミングで。

 比企が桜木さんを、俺達のいる結界の中に突き飛ばす。はっと振り返る桜木さん。その間に、比企はパン、と手を打ち両手をバンザイでもするようにあげた。

チッ! 護れ宝貝パオペイ! 」

 その掌から走る雷。俺達の周りを、ガラスのように硬質で透き通った、でももっと硬い何かがすっぽりと覆い尽くした。四角錐の頂点を、あの折り紙たちにちょっと似た神獣が固めている。玄武。白虎。朱雀、青龍。見上げれば頭の上、四角錐のてっぺんを、金色の龍がトグロでも巻くようにのしっと居座って固めていた。

「ちょっと待っ、」

 比企のところに駆けつけようとした桜木さんは、結界に阻まれて出ることができない。え、物理もいけるんですかコレ。

 その間に、左右の崖の上と海岸線のバリケードからはサーチライトがバッシバシ点灯。網を仕掛けた手前の方には、小舟を連ねた罠が回らされる。その間にも猟銃だのライアットガンだのでバリバリ射撃。そんでもって砂浜では、比企がそれは楽しそうにドラグノフをぶっ放している。下手したら、さっきまで花火で遊んでいたときよりも楽しそうだ。

「さあ来いデカブツ、踊るなら私と踊れ! 言葉でも感性でも通じ合えずとも、我々には肉体言語があるじゃないか! 」

 …うわあ…。

 撃っては弾倉を外し次を取り付け、スライドを引いて次弾をリロード、を何度もリピート。えげつないというべきか、賢いというべきか、比企はパンツァーファウストが抉った傷口あたりを重点的に狙って撃っていた。やだなあ、怖いなあ。戦闘に慣れてませんかあなた。ドラグノフは弾丸を撃ち尽くしたのか、今度はあの、針みたいな弾丸がいっぱい弾倉についてるライフルを抜いてばかすか撃ち始める。だから。どこにしまってたんだよ。

 一方、ピラミッド型の結界に閉じ込めらてた俺達は、どうも酸素と音は通すらしい壁のおかげで、状況もわかるし無線で会話もできはする、窒息の心配もないけど、とりあえずじっとしている他にできることもない。しょうことなしに、ポテチ食べ食べ比企の暴れぶりを観戦する俺達。たぶん俺達の出番はまだない、と思うので、もう英気を養うという名分のもと、コーラとか飲んでますわ。

 一方桜木さんは、どうにか外に出られないかと奮闘していた。穴掘って結界の下を潜ろうとしたものの、砂の中まで壁はしっかり埋まっている。どうやら無理らしいと見切りはつけたけど、比企がイキイキキラキラしながらキメラ生物相手に戦っているのを、文句つけながら何やかや見ている。

「ああもう、なんであの子はああも喧嘩っ早いんだ! 危ないなあもう、まったく。見てられないよ…ダメだってそんな、ブラフのつもりなんだろうけどさ、いやだから、誘ったつもりで突かれたら、ああほら言わんこっちゃない! 」

 ヤキモキしながら、見ていられないという割にはしっかり見ている桜木さん。

 実際、無線ではゲラゲラ笑ってるけど、比企はちょっと押され始めていた。一旦引いて沖へ出ようとしては機雷が弾けて戻ってきて、それを二度三度と繰り返すうち、キメラが比企の動きに少しずつ順応し始めているのだ。ちょっとずつ動きが早く、滑らかになって、ちょっとずつ弾丸が当たる位置をずらす要領を覚え始め、比企との戦闘で確実に、

「こいつ、闘いの中で成長している…? 」

「ヤギ状況を楽しんでない? 」

「うんにゃまったく! てゆうかこえーよ! 他の感情生まれる要素ナッシンだろ! 」

「でもコメント的確なんですが」

「それよりあそこで実況と解説一人でやってる桜木さんの方がすごくね? 」

 漫才やってる俺と源に、忠広があれを見ろと立てた親指で肩越しに示す。桜木さんは手で目を覆いながら、指の隙間でがっつり見ていた。

「ああもう見てられない! 」

 見なきゃいいじゃん。

「なのに目が離せない! どうして! 」

 複雑ですね。

 のたうち回り頭を抱えて身をくねらせる。困った大人だなあ。

 困った大人はやがてぴたりと静かになった。くるりと俺達を振り返り、ねえ、と声をかける。

「これ、どうしたら出られるかな」

 目が尋常じゃなかった。グルグル目になってた。こっちはこっちで、なんかコワイよ!

 そのとき。奴の尻尾が比企を捉えて跳ね飛ばした。ばん! とすごい音で見えない壁に叩きつけられる。無線では、海岸沿いのバリケードや崖からの、弾切れですという悲痛な叫びがじゃんじゃん入ってきていた。比企は咳き込みながらも、構わず撤退してください、と答える。

「しかしあなたはどうなさるんです」

 指揮所から署長さんが悲鳴交じりに諌めるが、大丈夫、と比企はそれでも毅然と言った。

「まだいくつか奥の手があります。友人達は何としても守らねば」

 そして。ふらつく足で立ち上がり、岩場の影を足先で探って。

 あの、俺達と隠したパンツァーファウストの残り二発を砂の中から引きずり出した。ニヤリ笑って両腕に抱え、同時にぶっ放した。

「奥の手その一」

 むちゃくちゃやるな。もう。

 ワニ顔のあいつは正面、胸のあたりに二発ともまともに受けた。痛みで怒り心頭に発したのだろう、咆哮するさまは、漁り火の二階で上映会やったゴジラそっくりだ。こちらへ迷わず突進してきて、比企をよそに、今度は俺達に向かってきた。まじか。 

 前足でぶん殴る。結界がちょっとだけミシミシと音を立てる。てっぺんの金色の龍がごう、と吠えて前足を締め上げた。奴はどうにか振り解こうとするができない。じれったくなったのか、自分の前足ごと、金の龍の体に噛みつき引きちぎった。尻尾が結界に巻き付いて締め上げる。そうか、こいつに食われた人間や猫は、こうして殺されていたのか。

 結界が耐えきれなくなったのだろう、ついにバリンと音を立てて砕ける。無事な方の爪が前足が、俺達に迫る。まさやんと結城、源が、ずっと握りしめていた木刀で受け止めた。俺と忠広は、ゴツゴツした流木で爪の付け根をぶん殴り、三人を援護する。確か爪の付け根は急所だって聞いたことがあるんだけどな。でも効いてるんだか効いてないんだか、奴は前足をすぐに引っ込めて、体勢を立て直した。

 その隙に比企がちょっとだけ持ち直したのか、舌打ちを一つして桜木さんに叫ぶ。

「桜木警視! みんなを連れて避難してくれ! 」

「君はどうするんだ! 」

「全員が安全圏に達するまで奴の気を引く!  頼む! 」

「お断りだ! 逃げるなら君も一緒だ! 」

「ふざけるな! むしろあんたや彼らがいては大技に持ち込めない。そのための待避勧告だ! 」

「何やるつもりなんだよ比企さん! 」

 額が割れたのか、ドロドロに血まみれで砂まみれになりながら、そのくせ不敵な表情でいつも通りのことばっかり言っている比企に、ついに俺は突っ込んだ。

 すると、比企はにぱっと笑って言いやがった。

「キン肉マンは四十八も必殺技を持っているがな、私だってそこそこ持っているんだぞ。奥の手その二だ」

 いや、なにそれ。知らんから。

 

 問答している時間はない、頼むぞ、と比企はワニ顔に向き直ると、そのまま前進していった。俺達は桜木さんと一緒に、猟友会のおじさんやお巡りさん達が撤退して、もう誰もいないバリケードの向こうに転げ込む。

 無線はまだ繋がっていて、だから比企の言葉も全部拾っている。そのおかげで、どんな状況なのか、バリケードのこちらから垣間見る俺達にもよくわかった。

 初夏に俺達が初めて出逢ったあの事件のときのように、比企はどこか遠くの空に向かって手を合わせ、ただいま殺戒を破ります、と呟く。祈るように、誓うように、刻み込むように。そして静かに歩き出した。

 ゆっくりと歩く比企は、ぶつぶつと何かを唱え始めていた。東中学の、鏡に閉じ込められたあの子を助け出したあのときのように。岩場の上で足を止めると、比企の髪から血が滴り伝い落ち始める。いく筋も流れるように落ちていく。なんだ。なにが起こるんだ。

 比企の声はひどく静かで、だけど断固たるものを秘めていた。

大洋オケアンに浮かぶブヤーンの島を守る防人は我が友なり。我と共に戦さ場を駆け我と共に敵を屠る。我が友よ、防人よ、我が呼ぶ声に応え共に闘え。我は汝と共に剣をとり、汝と共に死線を駆けるなり。いざや来ん、イリヤ・ムウロメツ! 」

 比企のコートがブワッとはためく。風に髪が巻き上がってなびく。比企の足元から何かがざわざわと立ち上がる。それは──影? 

 ビリビリと重力に押しひしがれそうな細い肩。だけど比企は、そのちからに潰されそうなところで踏ん張った。きっと顔をあげると、額に滴る血を拭い、すう、と片手をあげて構えた。

「オドエフスキー血魔術ブラッドマジック。武神招来! 」

 血の色の靄と塵が、大きな人の形になった。

 幅の広い大きな剣を持って、鎧兜に身を固めた、血の色の影。あのキメラ怪獣と同じくらいの大きさ。十メートルくらい? おそらく比企を少しでも助けるためだろう、左右の崖の上に据えられたライトがつけっぱなしで、奴は煌々と照らされたままで、だから大きさの比較もできているし、なにが起こっているのかを確認もできているのだが、だからこそ混乱するという、ちょっとしたカオスがそこにあった。

「またじゃん。比企さんのマジカルバトル・オンステージ」

 源がぼそっと漏らして、俺達が揃ってうなずく。

「なにあれ…。あんなことできるなんて聞いてない…。ほんともう秘密主義すぎるよ小梅ちゃんはぁあ! 」

 桜木さんは頭を掻きむしっていた。

「もっと信用してくれたっていいじゃないか! そりゃあ、先代までの監督官がハズレだったのかもしれないけどさあ! 」

 ひとしきり喚いて、いきなりうずくまる。やおらがばっと跳ね上がると、桜木さんはバリケードから出た。

「どこ行くんすか」

「比企ちんは逃げろって」

 まさやんと結城が引き留めるのも聞かず、桜木さんは砂浜に降りようとする。

「あったまきた。頭にきたから、ちょっと行ってくる。ああ、君達はちゃんと逃げるんだよ」

「ブチギレた! 俺知ってる、普段温厚な人ほどキレるとやばいんだよ! 」

「桜木さあん! ダメだって比企さんの邪魔したら、更に嫌われるよ! 」

「今だってさして好かれてないじゃん! 逆効果! 」

 俺と忠広と源が、結城とまさやんに加勢するが、それこそ逆効果だった。

「いい。もう嫌われようと何だろうといい。そんでもって監督官も辞めない。誰が何言おうと続けてやる。絶対やめない。今決めた」

「桜木さーん! カムバーック! 」

 桜木さんは振り返りもせず、真っ直ぐに浜辺へ駆け降りていった。

 その間にも、比企が呼び出したらしいあの影、血の色の巨人さん、ええと何だっけ、イリヤ何とかは、剣を構えて振りかぶっているが、動きはひどくゆっくりだ。その間、比企との戦闘ですっかり成長した怪獣は、素早く比企を尻尾で跳ね飛ばそうとしていた、その刹那。

 ばがん、と発砲音がした。

 桜木さんがデザートイーグルを抜いていた。そのまま続けて発砲。弾倉一つ分を立て続けに、尻尾に浴びせた。すごい速さで弾倉を換える。撃つ。その隙に、あの巨人さんはしっかりと剣を頭上に構えて──、

 

 振り下ろした。

 

 ワニ頭が一太刀で落とされた。

 びくりと痙攣する背中。跳ね上がる尻尾。波打ち際に落ちるワニのような首。一瞬硬直した体は、そのまま派手に水飛沫をあげて倒れた。

 ざばっ、と砂が散るようにイリヤ何とかは、血の色の塵に返って、それもすぐ消えた。がくりと膝が折れる比企。慌てて駆け寄る桜木さん。支え起こしかけたそのとき。

 ワニ頭が、首だけで這いずった。

 すごいスピードでにじり寄り、がばあっ、と二人を呑み込もうとして、

「もらった」

 比企がボソリと呟いた。

 比企は岩を蹴って跳ねた。助け起こそうとした桜木さんを背負うような体勢で、疲れているのであろうはずなのに、すごい跳躍だった。ほぼ真っ直ぐ、五メートル近く飛び上がり、そのままワニ頭が這いずってきた、そこに自由落下でドロップキック!

 鼻面を潰され、ワニ頭はそこでやっと力尽きた。

「どうだ」

 比企がやっと絞り出すように、呻くように言った。

「怪物を打ち倒すのは、いつだって人間なんだ」

 そこで仰向けにぶっ倒れる。慌てて桜木さんがキャッチしたので、比企は済んでのところで岩に頭をぶつけずに済んだ。

 

 これが、この夏俺達が体験した騒動の終幕だった。

 だから、このあとの始末は、言っちゃえば蛇足でしかない。

 でもさ、なんかここで「怪物は倒されましたチャンチャン」で終わっちゃったらさ、尻切れトンボ感しかないでしょ。わかる。

 なので、一応はまあ、そのあと何があったのかくらいはお伝えしておきますね。

 まず、俺達はすぐに漁り火に帰るよう言われた。今夜のところはゆっくりと休んで、報告は朝になってからでいいと署長さんが言う。その間に、警察や漁協、猟友会のおじさん達が後の片付けを始めていた。

 比企はどうしただろう。ふと気がついて見れば、比企はボロボロになっていた。

 右のこめかみ辺りがぱっくりと割れていて、唇の端からも血が流れている。鼻血が乾いてこびりついていて、脛も腕も擦り傷だらけだった。左腕が腫れ上がっていて、真紫になっていた。それを見て、剣道トリオが顔色を変える。

「比企さんすぐ医者行け」

「それやばいまじでやばい。その腫れ方は絶対やばい」

「骨折れてるからねそれ」

 まじか。でも比企は、いつもよりもっと顔色が白いだけで、近くで撤収作業をしていた猟友会のおじさんにガムテープを借りると、その辺に落ちていた流木を拾って、添え木がわりにあてがうとテープでぐるぐる巻にした。ワイルド過ぎ。テープ貸してくれたおじさんも目を剥いてたぞ。オーチンハラショーなんて、のんきに言ってる場合か。

 とにかく医者に行きたがらないので、仕方なく桜木さんがその場で応急処置して、全員で漁り火に戻った。

 玄関先でで迎えてくれたおばさんとお姉さんは、まずわあわあ泣きながら無茶をした俺達を叱り、それからやっぱり泣きながら無事でよかったと喜んでくれた。おじさんはぶっきらぼうに、無茶しやがって、と俺達を軽く小突いてから、いい面構えになったじゃねえか、と言ったが、そこからが大変だった。比企の姿を見て、おばさんが驚く。お姉さんを呼んで手当ての支度を頼みながら、お父さん、お父さんちょっとぉ、と、部屋に運び込む手伝いを頼む。

 ひと晩寝て、すっかり元気になった俺達が警察署に行くと、もう先に比企が会議室で、ゆうべの一部始終をホワイトボードに描き出して、刑事さん達がずらりと居並ぶ中説明していた。

 さすがに左腕は、流木とガムテープではなく、ちゃんと病院で手当されたときみたいな硬質プラスチックとファイバー繊維で添木されていて、それでも三角巾やベルトで吊り下げもせずに、当たり前に動かしている。顔色はまだ白いままだけど、ゆうべよりはしゃんとしていた。

 俺達も呼ばれて、やはりゆうべのあの大立ち回りの推移を、憶えているままに話した。普通なら一人ずつ呼び出されて詳細を訊かれるのだろうけど、桜木さんの計らいと、比企の助言により、俺達は全員揃って互いの証言を補強し合いながら、比企と桜木さんの話したことが正確かどうかを検証するために一部始終を話した。

 朝の食事をコンビニで買ってきて、あの会議室で揃って貪るように無言で食べた。比企はサンドイッチひとパックととアイスティーをとっただけで、あとは痛み止めをガリガリ食っていた。あの大食漢、大食らい娘がサンドイッチひとパックですよ奥さん。んまあ怖いわあ。

 まあ、骨が折れてればねえ。桜木さんによると、どうも肋も二本か三本、折れてるかヒビが入ってるかしてるみたいだけど、何としても口を割らないそうでして、まったく困ったもんだ。

「しゃべらないと決めると、頑としてしゃべらないんだ。僕にどうしろっていうのさ」

 なんか、桜木さんもかわいそうだな。

「でもさ、あの戦い方はないよね。そりゃあ僕らは無事だったけどさ、だからって小梅ちゃんがあんなボロボロになるようなやり方はさ、ねえ。もっと他にやりようもあるだろうに。助けられても寝覚めが悪いし、何より見ていて心臓に悪いよ」

 結局、比企の体調が戻るまで俺達と一緒に連泊することにしたそうで、桜木さんは夜になると、うだうだと俺達に愚痴をこぼした。町はすっかり平和になって、町長さんと署長さん、漁協の組合長さんとか猟友会の会長さんが、ニコニコとマスコミのインタビューや記者会見でコメントし、観光アピールに忙しいけれど、なぜか俺達や比企の探偵としての通り名も出ているのに、漁り火には誰も取材に来ない。どうなってるの。

 比企に訊くのが一番早いのでそうしてみた。すると。

「うちの大番頭が気を利かせて手を打っていたそうだ。ヴォロージャ・ピョートロヴィチがメールで報告してきた」

「え」

 おととい会っただろう、私のおもちゃを届けにきた若いほうだ、と比企。

「あれの父親はうちの番頭でな、日本のマスコミ大手の、大概の株式は抑えてる。もっとも名義は曽お祖母様、あの男は運用を任されているだけだが」

 つまり、株主の不興を買うのを嫌った編集方針ということか。

 ヴラディミルさんのメールを翻訳ソフトで読んだら、ご安心ください、下賤な醜聞屋どもが姫様とご学友の皆様に近づくことはございません、ごゆるりと療養なさってください、とか書いてあった。すげえな金のちから。

 比企は、ほとんど宿から出ずに過ごした。午前中は端末で事件の報告書を書いて、桜木さんにその場で確認させて承認をもらうと、どこへやら送っていた。なんかね、ライセンス持ってる探偵を統括管理してる公社があるそうで、そこに報告義務があるんだってさ。で、桜木さんも必死に書類仕事。バカンスに来る場所なのにね。

 おばさんによると、昼ごはん前にちょっとコンビニに行ったり散歩をしたり、外出しているので、その間に部屋を掃除するのだそうだけど、たぶん比企はそういうの全部わかってて、気を利かせてる可能性が高い。昼ごはんを食べると、午後は少し昼寝をして、日が傾き始める頃に目を覚まし、メールの返信を確認して、手直しして送り返し、風呂を使って俺達と夕飯をとる。だけどメールのやりとりは二日ばかりで終わって、あとの二日は、おばさんの手伝いを申し出たものの、お客さんにそんなことはさせられないと断られてしまったので、警察で射撃や逮捕術の指導をしていた。

 桜木さんはというと、比企が警察署で射撃のレクチャーなどしてるのに、ずっとついて歩いていた。怪我をした直後だというのに体動かし銃を撃って、ムチャクチャにも程があるから心配なのだろう。ずっと「見てられない」「信じられない」「もうやめてよ勘弁して」とか言いながら、それでもついて歩くってのは、この人もめんどくさい人だな!

 俺達の本来の仕事、海の家と民宿の仕事は、結局お客が戻るわけでなく、暇なままだったので、もう一週間、バイト代据え置きで居残ることにした。その辺でやっと、お客の予約が二組ばかり入ったのだ。桜木さんも比企も、それならもう少し居残ろうというので、漁り火はほぼ満室となった。

 家に電話をかけると、母親はあんまりおじさんおばさんに迷惑をかけるなと釘を刺し、弟は俺達のチャットの様子とニュースから大まかな事情を察して、お姉さんによろしくと言ってきた。あっさりしたもんだ。

 海にはポツポツと日帰りのお客さんが戻り始めた。今年はもう難しいかもしれないが、来年にはまた、泊まりがけのお客さんも戻ってくることだろう。 

「今年はすっかり坊主どもに助けられたな」

 晩酌の最中に、ぽつりとおじさんが言った。俺達にしてみれば、助けようとかじゃなくて、単にここが好きだからできることをやった、という感じだったのだけど。

「それでいいのさ。貴君らはそれでいい。もっと色々考えて、損得で動くのは、大人になってからでいいのさ」

 比企はそう言って、ごはんのおかわりを受け取った。

 夕飯のあと、またコンビニで花火を買ってきて、すっかり平和になった砂浜で遊んだ。

「そうか、そういえば海は遊びに来る場所だったのだな」

 比企は一人で何か納得してうなずいた。

「海が苦手って聞いたけど、なんで? 」

 どう切り出せばいいのかと頭を悩ませていた俺の気も知らず、結城がどストレートにあっけらかんと訊いた。比企は質問に、ちょっと目を逸らし気味に、恥ずかしそうに答える。

「私の一族は、ちょっと化け物の血が入っているからな、そのせいでどうにも海は苦手なんだ。まあ、その、ちょっとだからな、泳げるし、ただ少し嫌だなと思う程度なんだけどな」

 わかったようなわからんような。

 桜木さんはそれを聞いて、それも初めて聞いた、とうなだれた。

 

 バイトが終わって家に帰って、何日か経てばもう二学期だ。

 比企と知り合った一学期の終わり。一緒に大冒険した夏休み。二学期には、いったい何が待っているのか。

 少なくとも、退屈だけはしないで済むだろう。多少おっかない目にもあうかもしれないし、しんどいこともあるかもしれない。でも、と俺は思う。

 この仲間となら、何でもできちゃうんじゃないのか?

 大事件から無事に生き延びたからハイになってるだけだと言うならば言えばいい。そんな聞いたふうな、訳知り顔の言葉如きで、俺がそう思ってることは動かせないのだ。

 待ってろよ二学期。

 俺は、東京の我が家よりもずっと天の川がきれいに見える夜空を見上げた。

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