Β 毒杯決闘 calix 1940,X,X(X)
だが、そちたちがこのように争いそねみあっているわが妹エメリーについて申せば、いつまでせめぎ合いつづけても、同時に双方に嫁ぐわけには参らぬのは知っての通り。嫌が応でも一人は蔦の笛を吹いて淋しさをかこつことになろう。結局のところ、いくらそねみ向きになったとて、姫はいま双方を夫とすることはできぬ。そこで予の条件はそちたち各々が定められた宿命に身を任すようにしてもらいたいということじゃ。 チョーサー『カンタベリー物語』
二人の男が卓子を挟んで座している。卓子には燭台と銀の杯と葡萄酒の瓶があるばかり。夜の帳も疾うに引き、七支の燭台からの灯りが二人の顔を幽暗く照らしている。天井には花弁の端の朽ち欠けた真ッ赤な薔薇が吊るされていた。
二人の男の顔は強張って血の気の失せた様であった。二人は会話もなく、既に一時間程を過ごしていた。二人のうち、肌がやや浅黒い男が沈黙にたまり兼ねたように口を開いた。
「いいか、義人。俺と君、どちらが百合子を妻にするか決着を付けよう。毒杯決闘――。女を賭けた命のやり取り」
色黒の男は卓子にある二つの銀の杯に葡萄酒を注いだ。
「ラクリマ クリスティ。キリストの涙という名の葡萄酒。伊太利亜のナポリ近郊の葡萄酒。西暦七九年八月二四日、ヴェスヴィオ火山の噴火によって消えた都ポンペイ。キリストは火山灰に埋もれてゆく町を天から哀れんで流した涙を落とした。その涙の落ちた地域で産まれたといわれる葡萄酒……。神の寵愛と涙を目睫にした僕らにピッタリですね、穂邑さん」
卓子を挟んで座っていた義人と呼ばれた色白の男は言った。
「哀れむくらいなら始めから噴火など起させねばいいものを。『隱微たる事は我らの神ヱホバに屬する者なり』。神なんだろ? 未来は神の掌ではないのか?」
「『禍も福もともに至高者の口より出づるにあらずや』。全てが全て、全能者のせいではありませんよ」
「あはは……。高級酒でないところは、大きいようで実は小さなこの決闘にピッタリかもな」
穂邑の言葉に次いで義人は訊ねた。
「この決闘のことを百合子は知らぬのですね」
「ああ、知らない。もし知ったら止めるだろうからな。有史から男の決闘に女の立会は不要だろ」
穂邑は掌中から青色の小瓶を取り出した。小瓶には毒薬が真ん中程まで満たされており、ラベルには『stigma』と描かれていた。
「百合子の戸棚から拝借したものだ。義人、お前と心中するために用意したものらしい。健気なものだな。運命が二人を赦さなければ、いっそ一緒に死んでしまおう。死というやつは誰でも避けては通れぬ運命の象徴。その運命は必ず独りきりで受け入れなければならない。だが心中は死を二人で受け入れる行為。死は運命の象徴。即ち心中とは運命への抗いの証。百合子は健気に君に運命への抵抗を持ち掛けようとしていたわけだ。あはは」
「けれど僕は彼女と心中する気はない。心中が運命への抗いとは思えない。それに百合子を死なせたくはない」
義人は震えてはいるが、決意ある声で答えた。
「だが死を掛けた決闘には応じるのか? 奇異しな奴だな。巨人が自殺を薦めても断るが、毒杯を呷ることには応じるとは」
「『運命の女神が大いなる恩恵をほどこしたるその者に、エメリーを妻として進ぜよう』。僕は神の恩恵を受けるだけだ。自殺という大罪を犯すわけではない。ただ神に身を委ねるだけだ」
穂邑は鼻で哂いながら小瓶の栓を開けて葡萄酒の注がれた二つの杯の一方に中味を注いだ。続けて穂邑は二つの杯を何度も何度も場所を入れ替えた。
「これでどちらが毒杯か解るまい――」
穂邑はギッと睨み付けて言った。
「もう一度確認する。この杯決闘で負けた方、つまりは死んだ者が負けだ。生き残った者が百合子を妻に迎える。そういえば乱歩の『吸血鬼』だったかな、確か同じ場面があったな。あれは毒杯を呷る前に逃げ出したけどね。けれども俺らには逃げ出すなんて選択肢はないぞ。生か死だけだ……。さあ君から選び給え」
義人は「ああ」と小さく震えた声で応えて暫く逡巡した末に一方の杯を手に取った。穂邑は残った一方の銀杯を手に取った。
二人の男は相対したまま暫し動きを止めた。辺りは静寂に包まれた。ただヒタヒタと歩み寄る死の顰めきを残して。闇夜に潜み、眼が炯炯とした魔物は二人の空虚な間隙に陣を為していた。
二人は互いに深く正息して死出の挨拶を始めた。
「どちらが生き残ろうと今生の別れ。死を看取るのは恋敵」
「恋敵も死を迎える今となっては百年来の朋友のよう……」
「死という宿命の前では世界や我々は如何に矮小なことか」
「しかし! 友よ。生死を超越した何ものが現世または陰府にあるならば、その死すらも心地好いものに思われる」
「ともかく人の世は不思議なものだ。矛盾が矛盾を生み、矛盾という完成を目指す。人々は内包する矛盾に気付いているのか、いないのか。いつの日かの矛盾の完成を夢見る」
「君は世界の矛盾を認めるというのかい? それとも世界のどこかに矛盾なき完璧な世界があると思うかい? いや、あるさ。でければ矛盾の渦に死すること能わない」
「ああ、何と不思議なことよ。生と死というヤツは。まるで鏡を挟んだ虚像と実像」
「果たして虚像は生なのか、死なのか、それを知るには我々は何と矮小なことよ」
「それでは生き残った友の幸福を祈って」
「それでは死してゆく友の冥福を祈って」
二人、深く呼吸する。
「乾杯」
「乾杯」
二人は銀の杯をキンッと合わせると、杯を唇に当てて一気に飲み干した。真ッ赤な液体が嚥下される。生と死の境界線のどちら側に二人は立つのか。
義人は口角をニィッッと上げると続けて言った。
「主よ、今こそ御言に循ひて僕を安らかに逝かしめ給ふなれ」
がたりッ、どすん。
義人は椅子から転がり落ちた。薔薇色に輝いた瞳は精彩を失って静かに崩れ落ちていった。落ちるものにおいて(in occiduas)救いはない。義人の顔は眠った様に安らかであった。
脂汗を浮かべながら穂邑は口角をキュッと吊り上げて横になることがない(inocciduas)ことを哂った。
――あはは、あはは、あはは、あはは――
かくて酒杯を受け、かつ謝して言ひ給ふ 『これを取りて互に分ち飲め。われ汝らに告ぐ、神の國の來たるまでは、われ今よりのち葡萄の果より成るものを飲まじ』 ルカ傳福音書第二二章一七―一八節
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