ブラ紐イニシエーション

西木 景

第1話 後輩が無防備な件について

「せんぱぁい。どおしたんですかぁ? さっきから、みょーに口数が少ないですけど」


 隣に座る飯田明里が、いつものフランクな調子で絡んできた。

 俺は横目で彼女を見やり、ビールジョッキから口を離す。

 アルコールが入り、ほんのりと顔を火照らせた明里は普段以上に幼く見える。


「……いや。別に」


 つい素っ気ないな反応を返してしまう。

 ごくりと生唾をひと呑みして、視線を正面に戻した。


「アルコールが足りてないんじゃないですかぁ? ダメですよ。せっかくの打ち上げなんだから、セーブしちゃあ」


 呂律の回っていない口調で、さらに畳みかけてくる彼女に、「あぁ、わかってるよ」と曖昧な返事をしながらジョッキを持ち上げる。ぐいっと傾けるが、喉の通りはすこぶる悪い。

 もう一度、横目で明里の居住まいをうかがう。

 明里は小首を傾げてキョトンとした目でこちらを見ていた。

 まずい、自分の様子がおかしいことに気づかれたか?――そう思いヒヤッとしたが、向かい隣の席に座っていた別の同僚が明里に声をかけてくれたお陰で、彼女の関心の的がすっと自分から逸れた。

 ほっとして、ジョッキから口を離す。

 カウンターにゆっくりとジョッキを置いて、またそれとなく隣の様子を盗み見る。

 明里は先輩社員たちにからかわれ、子供のようにきゃっきゃとはしゃいでいた。

 不意に頭の芯がくらくらと揺れる感覚に襲われて、俺は眉間を押さえて瞼を閉じた。瞼の裏にはすっかり、彼女の健康的な白い肩が焼き付いていた。


 ――どうしたものかな……。


 内心でため息をつき、酔いの回った思考に鞭を打つ。

 エマージェンシー。俺は密かに思い悩んでいた。

 悩みの種は隣に座る1年後輩の女子社員・飯田明里にまつわることだ。

 それに気づいたのは、つい先ほど、お手洗いから彼女が戻ってきた直後のことだった。

 自席に戻った彼女の姿を視界に収めてから、なんとなく違和感を覚えていた。そしてまじまじと彼女の居住まいを観察しているうちに、その違和感の正体に気づいてハッとした。ブラウスが若干はだけて、白い地肌と肩甲骨が剥き出しになっていたのだ。そればかりでない。真っ赤なブラ紐まで露わになっている有様だった。

 ラッキーと感じたのは一瞬だけだった。以降は目のやり場に困るだけの、ただただ居たたまれない時間を過ごす羽目になった。先ほどから口数が激減したのも、それが原因だ。

 そのことを後輩にどう伝えるべきか?

 どう伝えれば遺恨なく事を収めることができるか?

 必死に考えを巡らせたが、アルコールの入った脳みそではろくな案は出てこず、そのせいで苦しい沈黙を余儀なくさせられているのだった。

 ブラ紐見えてますよ、と伝えるのは簡単だ。だがそうすれば「ブラ紐を見た」という事実は覆りようのないものとなる。さすがにそんなことでセクハラだと訴えられることはないと信じたいが、女性という生き物は好意を持っていない異性にそういうのを見られたりすると、少なからず気分を害するものと聞く。

 触らぬ神に祟り無し。保身に走るなら、見て見ぬフリをするのが得策だろう。

 しかし、だ。ここで自分が指摘しないでいると、この憐れな後輩は、他の誰かに指摘されるか自ら気づくその時まで、ずっとあられもない姿を晒し続けることになる。そう分かっていて放置するのは、人道にもとる行為に当たるのではないか?

 情けは人の為ならず。後輩の為を思うなら、早急に真実を明かしてやるべきだ。

 そう考えついて、ジョッキの中身を覗いた。

 もう3分の1も残っていない。よし、これを飲みきったら教えてやろう。

 そんな決意を胸に、俺はジョッキを持ち上げた。縁に口を付けた、その時だった。


「せんぱ~い。助けてくださ~い」


 先に明里の方から話しかけられ、俺は慌ててジョッキから口を離した。

 目を白黒させながら隣に視線を向ける。


「……え? なに?」


「工藤さんがいじめてくるんです~。あたしに異性としての魅力がないって」


 工藤というのは俺よりふたつ入社年度が上の男性社員だ。

 今は明里を挟んで三つ隣の席にいる。


「お前はまだまだガキんちょだって。ひどくないですか~。もう今年で25になるっていうのに」


 俺はひきつった笑みを浮かべてた。


 ――そういうことはあまり大きな声で言わない方がいいと思うぞ。お前の隣にいるお局の佐々木さん、顔が怖ろしいことになってるから。


 無論そんな藪蛇なことは心の中だけに留めておく。

 俺は咳払いして別の言葉を送った。


「そうだな。紛いなりにも成人している女性に向かって、それは失礼な言い草かもな」


「えっ?」


 途端に明里の目が丸くなった。一拍置いて、眉根を寄せた怪訝そうな顔になる。

 常日頃から彼女の小柄な体型を槍玉に上げて幼児だの小学生だのと弄り倒している俺の口から、まさかそのような殊勝な言葉が返ってくるとは思っていなかったのだろう。

 しまった、と思った時にはすでに明里の尋問が始まっていた。


「どうしたんですか。いつもの先輩らしくない」


「な、なんだよ、いつもの俺って」


「いつもの先輩だったら……『はっはっはー、お前みたいなのが恋愛対象っていう奴は間違いなくロリコンだな』って感じの腹立たしいこと言ってくるじゃないですか。そういうプロレスがしたくて振ったのに、なんですかその借りてきた猫みたいな反応は。なーんか、猛烈に裏切られた気分です」


 いじけたようにそういってから、明里はカシスオレンジの入ったグラスを両手で持ち上げた。カウンターに両肘を乗せてから、ちびちびとあおる。


 ――言うなら今か?


 数瞬、心が揺れた。だが結局、踏み出せなかった。


「別にいいじゃないか。ロリコンが相手でも需要があるだけマシだ」


 いつもの調子で毒づくと、後輩の目に火花が散った。それを待っていたんです、とでも言いたげな挑戦的な眼差しを向けてくる。


「なんです? 今頃エンジンかかってきた感じですか? でも残念でしたー。ロリコン以外にも引く手数多です。この前行った街コンで、なんと8人中6人もの男性から連絡先の交換を求められましたから」


「ロリコン限定の街コンだったんじゃねーの?」


「そんな末恐ろしい街コンがあってたまるもんですか! あたしの女としての魅力が、殿方のみなさんを骨抜きにしたんですよ」


 ――お前に女としての魅力があることは認めるよ。だって俺、さっきからお前にドキドキしっぱなしだもん。


 ……なんてことはプライドや世間体が邪魔して言えるはずもなく。

 普段は妹のように可愛がっている後輩に色目を使っていることがバレたら、明日からどういう面して会社に行けばいいのかわからなくなる。


「ほざいてろ。メルヘン処女」


 せめてもの虚勢に最大限の毒舌を浴びせてやった。

 すると明里は「はぁっ!?」と声を荒げると同時に、カウンターにドンッと力強くグラスを置いた。


「メルヘンでも、処女でもありませんっ! せんぱいなんて、だいっきらい! もう絶交ですっ!」


 ひとしきりキレ散らかしてから、明里はそっぽを向いた。

 難所を切り抜けることができて、人知れずほっとする。

『メルヘン処女』とは彼女が短大時代に呼ばれていたあだ名だ。当時、男性経験がなく、将来の夢はお嫁さんですなどと恥ずかしげもなく喧伝していたことから、そういう不名誉な呼び名が付いたらしい。

 語感がよろしく個人的に気に入っているフレーズであり、彼女をからかう際のキラーワードとしてよく使っている。

 俺は横目で明里の肩甲骨とブラ紐をなぞりながら、ジョッキをあおった。……とんだヘンタイじゃないか、と我に返り、目線をずらす。

 処女じゃありません、という彼女の高らかな宣告が脳内に蘇り、背徳的な気分になっていた。

 そんなことを堂々と口にできるところからして、少なくとも頭がメルヘンであることは間違いないが、それはさておき、異性として意識した女性からあけすけに性事情を突きつけられると、なかなか胸に来るものがあった。

 少し頭を冷やした方がいいかもしれない。そう思い立ったが、情けないことに、すぐには席を立てる状態ではなかった。腕時計を見て、宴会が終わる時刻を確認する。それまでになんとか興奮を収めなければ……。

 こんなこともあろうかと覚えていてよかった般若心境。心の中でなむなむと念仏を唱えて落ち着きを取り戻したところで、罪悪感が首をもたげていく。

 この流れになってしまっては、もはや明里に真実を伝えることなどできようがなかった。

 メルヘン処女にはもうワンランク上のメルヘン処女に昇格してもらうしかない。

 意気地がない男でごめんな、と無垢な後輩に心の中で陳謝しつつ、俺は残りのビールをあおった。


「店員さん! ビールおかわり!」


 もう酔っ払って忘れてしまおう。そう開き直って俺は店員を呼びつけた。

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