淑女の嗜み
その週の土曜日、遥は府中本町にいた。
そして、ゆりを待っていた。
残業の翌日、遥はゆりに礼を言うため広報室を訪れた。
お礼の品を渡した遥はそそくさとその場をあとにしようとした。
本来、遥は人見知りするたちであり、この訪問も迷ったうえでの行動であった。
「お待ちなさい」
その遥をゆりは呼び止める。
遥は帰宅の邪魔をして怒られるのかと思った。良く良く考えればそうだ。きっと気まぐれで新入社員と思わしき人間に差し入れをしたに過ぎない。
わざわざ、金曜日の定時後に呼び止めてしまい迷惑をかけたに違いないと思った。
そう、遥は正直、自分が他人の印象に残るような人間と思っていないのだ。
「す、すいません。お帰りのところお邪魔してしまって。すぐに出ていきますから許してください」
早口で告げ、逃げようとする遥の肩を、ゆりは手を伸ばしうしろから掴む。そして正面に回り込む。
「許すも許さないもないわよ。ありがとうね。わざわざ来てくれて。どうこの前の仕事は上手くいった?」
優しく微笑むゆりを「この人、天使かな」と遥は思うのであった。
「はい。午前中にまとめて提出したところ、なかなか上出来だと言っていただきました」
「ほら、言ったでしょ。明日の自分は意外と有能なのよ」
そして遥に尋ねる。
「小金井さん。明日お暇?」
「え、え。は、はい」
戸惑いながら答える遥にゆりは言った。
「じゃあ、明日10時30分に府中本町にいらっしゃい。淑女の遊びを教えてあげる。そうね、正装でいらっしゃい」
で、今に至るのであった。
10時前に府中本町駅に到着した遥はそわそわしていた。もし、ゆりさん来なかったらどうしよう、と。
だが、そんな心配は不要だった。
「おはよう、小金井さん。やっぱり早めに来ていたのね」
そう笑いながら遥は声をかけた。
遥は、ゆりを見て心の中で「えっ!」と思った。
正装で来いと言われた遥は、迷った挙げ句一番高いリクルートスーツを着て来たのだが、当の本人はとってもラフな格好をしているのだった。
トップスは、緩い白のブラウス。パンツも緩めのものだ。そして有名なハリウッド女優がするような派手なサングラス。
なんかとても適当な格好だったのだ。
全身ファストファッションと思われるが、それを着こなしてしまっているのだ。普通に地味な遥は外見の「格差社会」を痛感するのであった。
そして、正装して来いと言った当の本人の次の言葉が酷かった。
「なんでリクルートスーツなんて着ているの?」
「まぁどんな格好で来てもいいけどね。小金井さん、最近のお休みは楽しめてる?」
ゆりの言葉に、入社以来の休みを遥は改めて振り返る。
研修の予習・復習。業務に携わってからはその勉強。まだ必死に仕事の延長戦をしている時は良かった。
最近はなんというか、途方に暮れて悲しい気持ちで悶々と過ごしているだけだった。
「いえ、最近は買い物行くのも億劫な感じで」
悲しげに遥は答えた。
「仕事でいっぱいいっぱいって感じだったものね。でも無理にでも外に出て気持ちを入れ替える習慣は付けたほうがいいわ」
遥はほとんど接点のない自分を気にかけて、休日に誘ってくれるなんて本当にいい人なんだなと思った。
「ところで三鷹さん。今日はどこに行くんですか?」
ようやく昨日からの疑問を、遥は口にした。
「府中って言ったら、刑務所に行くか競馬場に行くかしかないでしょ?」
ゆりの言葉に遥は酷い偏見だと思った。
「これから東京競馬場に行って、馬券を買うのよ。そして競走馬の素晴らしい走りを堪能するの。世の紳士・淑女のための最高のエンターテインメントよ」
ゆりは、遥の疑問に答えると続けた。
「そう、今日はこの世で一番楽しいことをするのよ」
ゆりは、本当に嬉しそうに遥に告げるのであった。
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