第一部あなた 第一章9
翌日から、蓮は母と一緒に日の出と共に去の薬草園で薬草を摘み、昼間は妹弟たちの世話をし、夕暮れまでの一時、薬草について書かれた書物を写した。
蓮の書く字は美しく読みやすい。それは、去もたいそう褒めてくれるので、束蕗原では蓮は去のためにも本を写している。
根詰めて写していると、体が凝り固まって来るので、蓮は部屋の前の階を降りて庭に出た。大きく伸びをして夕暮れ前の少しひんやりした庭を歩いて、薬草園に行くとそこには伊緒理がいた。
「……伊緒理」
蓮が呼びかけると、伊緒理は顔を上げて蓮を見、相好を崩した。
「蓮」
「何をしているの?」
「薬草の手入れをね。やはり、去様のところは薬草の種類も豊富だ。ここで試したものを私の庭にも持ち帰らせてもらえるからね。とても勉強になるよ」
伊緒理は枯れた葉をむしっている。蓮もつられて、茶色くなった葉を取っていると。
「薄着だね。これから寒くなるよ。これを」
と、伊緒理は持っていた籠を一旦下に置いて、自分の着ていた上着を脱いで蓮の肩に掛けた。蓮は袖を通した。
「ありがとう。でも、伊緒理が寒いわ」
「大丈夫だよ。私はこの中にもたくさん着ているからね」
少し着ぶくれしているように見える伊緒理は言って、薬草の手入れを続ける。
「寒いと手が荒れる。女の人の手は柔らかい。君の白い手も傷つく」
伊緒理はそう言って蓮に向いた。
「君は写本をしていたのだろう。気分転換に庭を歩こう」
蓮にとっては願ったりの提案で、薬草園を出て、肩を並べて歩き出した。
「梅や椿と、きれいな花をつける樹が多いね。梅の香り……いい匂いだ」
伊緒理は籠を蓮の方にある腕に抱えて、反対の手で梅の枝を触った。
蓮も梅の匂いを嗅いでその顔を少し横に向けて、伊緒理の様子を窺った。
伊緒理に聞かなければならないことがある。いや、蓮が聞きたいだけだ。
「……伊緒理……」
「?」
名前を呼んでも、前を見つめたままの蓮に伊緒理は訝しんだ。
「……伊緒理、あのね……あなたはいつ、妻をもらうの?もう、相手はいるの?……だってあなたは私よりも五つも年上だもの。とっくに妻をもらっていてもおかしくなわ。でも、あなたは決まった女人を傍には置いていないのですもの。だから、そろそろ……」
蓮は立ち止まって、伊緒理に顔を向けたが、すぐには顔を見られず下を向いたまま。
「私はあなたのことが好きなの。……伊緒理は……わたしのことをどう思って」
そう言って、顔を上げた。伊緒理は振り返って、蓮の姿を見ていたが、やっと口を開いた。
「……もちろん、私も蓮のことが好きだよ」
蓮は伊緒理に一歩近づいた。
「ううん、違うわ。去様やお母さまのことが好きというのと同じ気持ちじゃ嫌なの。私は……伊緒理の妻になりたい。私は十六ですもの、お父さまもそろそろ、相手を探しているわ。でも、私は好きな人と一緒になりたい」
「……蓮…………」
伊緒理は蓮をじっと見つめたまま、その名を呼んだ後は言葉を発しない。
蓮は、心の中で、なんて言うの、早く言って!と叫んだが、声には出さないように我慢した。
「……蓮……君は、岩城実言殿の娘だ。……実言殿にお考えがあるはず。……私は椎葉の一族の者だよ。政では権力を争っている立場の家柄だから、一緒になるのは簡単な話ではない。……それに、私は君が幸せになることが一番だと思う。私のような権力も地位もない男が果たして君を生涯幸せにできるだろうか」
伊緒理は言うと、自ら一歩蓮に近づいた。蓮は言われたことの意味を十分に分かる前に、自分の思いが拒否されたと感じて涙がこぼれそうになった。
「蓮、君の本当の幸せを願っている、私は……」
そう言って蓮の体に腕を回した。
好きだと言って、こんな風に抱いてくれるのに、妻にしてくれないのはなぜだろう。やはり、本当に愛してはくれていないのだ。
そこに冬の冷たい風がびゅうと二人の体を撫でた。
「陽も暮れた。邸の中に入ろう」
伊緒理は蓮の体から腕を解くと、蓮の左手を取って邸へと歩き出した。
痛い、と思うほど左手を握られて、蓮の拒否されたと放心する心が立ち戻る。どうして、そんなにきつく握ってくれるの。
心はまだ歩けないが、握られた左手が引っ張られて足が出た。伊緒理の歩みに追いつくために蓮は走った。並んだところで、蓮は伊緒理の顔を見上げた。
怒っている?
口を引き結んで前を見据えたまま歩いている伊緒理。その表情は怖いくらいだ。
蓮の部屋の前に来ると、伊緒理は蓮の手を握ったまま蓮に向き直った。
「……蓮……手が……とても冷たいね」
伊緒理は蓮の脇に下がっている右手も取って、両手を持ち上げてその内側に自分の息を吹きかけた。
蓮は驚いたがじっと伊緒理がするままに任せた。手のひらと指に伊緒理の息が吹きかかってじんわりと温かくなった。
「風邪など引かないように、温かくしてね」
伊緒理は下におろした蓮の手を離し、優しく笑いかけて言った。しかし、蓮は伊緒理の表情がどこまでも厳しいように感じた。
私の言ったことに怒っているのだろうか。
怒っているなら、抱いたり、手をつないだり、冷たい手を温めたりはしてくれないだろう。
言葉にはならないが、蓮は伊緒理の葛藤のようなものを感じていた。
嫌われてはいないのだと思うけど、自分の思いには答えてもらえないという悲しみは残った。
部屋に戻ると榧、宗清、珊が火鉢の周りに輪になって何やらおしゃべりしていた。
「姉さま!」
蓮が庇の間に入った時に気づいた宗清が蓮を呼んだ。
振り返った榧と珊は笑顔になった。
「遊びに来たら姉さまがいないから、待っていました」
榧と珊の間に蓮が座ると榧が言った。
無邪気な弟妹たちに蓮は先ほどまでの伊緒理とのやり取りを一旦置いて、火鉢の周りの集いに加わった。
「本を写していて、気分転換に庭を散策していたわ。待たせてごめんなさいね」
弟妹たちは昼寝から起きて、何をして遊んでいたか、その中で宗清がどんなおどけたことをしたかを話した。そして榧と珊がさんざん笑いこけたのだと言う。みんなでその時の様子を思い出してまた笑った。その後に、蓮は薄く剥いだ木の上に文字を書くことを教えた。
皆、蓮の文字の美しさを知っているから、それを手本に筆を持って練習したのだった。
蓮は一時、先ほどの伊緒理との出来事を忘れた。
翌日、薬草園で去、礼、そして伊緒理と一緒に薬草摘みをした時も、伊緒理は蓮に普段と変わらぬ態度であった。蓮もいつものように話をして、笑顔を絶やさなかった。
皆がいつもと同じ雰囲気で過ごした。
夜明け前に起きるのは、宮廷に見習いに行くようになってから毎日の習慣となり今では苦もないことだと実津瀬は思った。
母と弟妹たちが束蕗原に行ってから十日……いやそれ以上の日にちが経った。賑やかな弟妹の声が途絶えて、寂しくもあるが、そう思うのも数日のことで、宮廷での見習い仕事や塾での勉強などで気持ちは紛らわされた。岩城一族を支える成人男子の一員になるための訓練の中にいると思えば身の引き締まる日々である。
起き上がって身支度をしたら、そのまま宮廷へと向かった。
ふとした時に思い出すのはこれまで数度しか会ったことのない雪という宮廷につかえる女官のことだ。まだ片手にも届かないほどの逢瀬だが、自分の舞を、いや自分を好きだと言ってくれた雪を思い出して、胸が痛くなる。前回に会った時は……接吻までした。
岩城一族の男なら、様々な女人が近寄ってくる。それは父の実言にも叔父の蔦高にも、祖父の園栄にもたびたび釘を刺されている。ただその権力にすり寄りたくて近づいてくる者もいれば、岩城を滅ぼしたくて近づいてくる者もいる。だから、恋をするのはいいが、相手がお前の何に引かれているかを良く見なくてはいけない。口酸っぱく言われていることだから、実津瀬は女人にはあまり興味を持たないようにしていた。
しかし、雪についてはなぜがいつもの警戒を越えて近づいてしまう。
これが、恋……?
この年になっても、女人に近づいたことがない。母や妹たちがいつも傍にいたから他の女人を見ることもなかったからか、なんとも遅い恋心ということか。
実津瀬は戸惑いながら、でも、この気持ちを抑え込むことができなかった。
宮廷楽団の稽古場へ行く道で、雪と会う。前回あんなことをしてしまって以来、会いたいような会いたくないような気持ちで毎日この道を通っている。
会った時には、どんな顔でどのような言葉をかけたらいいのか。あれこれ考えるが、とてもまとまらない。
実津瀬は塾での講義が終わると少しの間、従兄弟の稲生や同じようにこの塾に通っている他の貴族の子息と談笑をした。その後は、いつものように宮廷楽団の稽古場へと向かった。
今日こそ、稽古場の道すがら雪に出くわすのではないかと、無用にあたりを見回してしまう。
実津瀬は屋根の付いた長い石畳をのろのろと歩いていると、五本向こうの柱の陰に人の姿が見えた。周りばかり気にしていたから、こちらに向かってくる人の姿を、三本向こうの柱のところでやっと、それは女人で、それも雪であることに気づいた。
雪も前から来る人物が実津瀬であることに気づき、進む足の歩みを緩めた。同時に実津瀬もこのまま雪の前に出て行っていいものだろうかと、思案しながらのろのろと進んだ。
当たり前だが石畳の上を前に歩いていたら、自然と出会うことになる。実津瀬は道を逸れることもできずに、そのまま雪の前に立った。雪も黙って実津瀬の前に立たざるを得なかった。
「……あ……雪……」
実津瀬はそう言うと、次の言葉を継ぐことはできなかった。
「……実津瀬様……」
雪もそう言って押し黙った。
そう言えば、雪から初めて名前で呼ばれたことに気づいた。
「この前は……あなたに、その……」
実津瀬はこの前の自分の行動をどう説明しようかと、言葉を濁した。そうしているうちに、雪が口を開いた。
「……私の気持ちの思うままに、あなた様にあんな戯れを……」
「戯れ……では、その後の私は一体何だったのだろうか……」
実津瀬は戯れと言われて、少し強い語気で返事した。
「まあ……」
雪はその険しさに驚いて、口に手を当てた。
「あなたは戯れだったというのなら……その後の私の行動は、あなたには迷惑だったかもしれない。けれど、私の幼いながらの偽りのない気持ちだった。美しいあなたに……いつの間にか心を捕らわれて……あなたが私ことを好きだと言ってくれたことに、私は有頂天になって、私から口づけを……」
実津瀬はまとまらない思いを声に出して言った。すると、雪は遮って返した。
「戯れ、と申しましたけど、それはあなた様に重く受けとられたくなかったからです。正直に話せば、あれは私にとっても偽りのない素直なあなた様への気持ちですわ。実津瀬様のことが好きだと言った言葉に嘘偽りはありません。好きな男性に唇を吸われることはこの上ない喜びでした。あの後、私は天に上る気持ちで、仕事は全く手に着かず失敗ばかり。でも、私は嬉しかった」
実津瀬はそれを聞くと、黙って雪の右手を取って、石畳を外れて庭の中に入って行った。今が旬と咲き誇る椿の樹の陰に連れて行くと、雪を正面にとらえてその目を見つめた。雪が実津瀬の胸に両手を置いたのが合図となって、実津瀬は雪を抱きすくめた。
息ができないほどにきつい、と雪は思ったが、すぐに実津瀬の腕の力は緩められた。ああ、楽になったと思ったのもつかの間、実津瀬は雪の頤を掴むと、自分の唇で雪のそれを塞いだ。
二度目の接吻は、一度目よりもより濃厚に深く、舌を合わせてお互いの息を吸い取ろうとするものだった。唇を離すと、雪は息を吸って実津瀬の胸の上に顔を伏せた。
「すまない……私は、気持ちを抑えられないようで……こんなことは初めてで」
「ええ……嬉しいです。私は実津瀬様の腕の中で、こうしてその思いを受けられるのですから、この上ない幸せです」
実津瀬はそう言われて、嬉しいような自分の節操のない行いに恥ずかしいような気持ちが混ざって、下を向いた。
「……あなたはこれから仕事……」
「……はい。実津瀬様は今から舞の練習ですか……」
実津瀬は頷いた。
「もし……よければ、明後日、今日と同じ時刻に同じ柱の前で待っています。もっとゆっくりと実津瀬様とお話したい」
雪の言葉に実津瀬は再び頷いた。
「来ていただけると嬉しいですわ」
雪は先を急ぐと言って、体を離そうとした。実津瀬は最後まで握っていた雪の右手の甲に唇を押し付けて、その後は指先が離れるのを名残惜しそうにいつまでも掴んで、そしてやっと放した。
一度振り返った雪は笑って、前を向くと石畳の道に戻って足早に去って行った。
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