第一部あなた 第一章5
新しい年を迎えるにあたって、実津瀬は宮廷に片隅にある稽古場で一人汗を流していた。それは、新年の行事で舞を舞うのに、恥ずかしいものを見せられないという使命感からだった。
日も暮れて、松明が必要になるというところに我に返ったように練習をやめて、稽古場を出た。
扉の鍵をかけて、宮廷の門に向かって走っているとその前を歩く女人の姿が見えた。それを追い越していくと、後ろから声が掛かった。
「あら、岩城の!」
実津瀬は敏感にその声に反応した。その声を聴くのは二度目だが、よくよく覚えている。
実津瀬は立ち止まって、振り返った。
「練習の帰りでいらっしゃいますか?」
振り向いた実津瀬に、女人はにっこりと笑いかけた。陽の沈んだ暗い中でも、不思議と女の顔はよく見えた。
その声で以前会ったことのある女人であると分かっているが、実津瀬は目を凝らして陽の落ちた中で人の顔を判別しようとする仕草をした。
「前に、不躾にもあなた様に声を掛けさせていただいた女官ですわ」
女は実津瀬の前に立ち、そう言った。
「ああ、そうだ。あなたはいつぞや声を掛けていただいた……よければ、お名前を教えてください」
「……名を名乗るほどの者ではありませんが、あなた様がお困りになるといけませんからお教えしておきますわ。……私の名は雪といいますの」
「……雪……」
実津瀬は自分が思った通りの印象がそのまま名前になっていると思って、声に出して呟いた。
「変哲もない名ですわ…」
「……いや、あなたの姿によく合っていると思ったのです。とても、色の白い方だと思ったから」
「あはは、それだけが取り柄と言ってもいいかもしれませんわね」
女……雪は袖で口元を隠したが、声高らかに笑って自虐的なことを言った。
容姿のことをとやかく言いたくないが、雪は色白で、顔は後ろにすっきりと引いた目元が美しく、桃色の発色の良く薄い、よくしゃべる唇は魅惑的だった。そして体は、冬の衣装で厚く覆われていてもその線を浮き立たせるほどに肉感的な魅力を放っていた。
「……舞の練習ですか?こんなに遅くまで…………新年の行事で舞を舞われるとお聞きしていますわ」
「そんなことを知っているのですか?」
「ええ、宮廷の女官は噂話が大好きですもの。どのような行事があって、誰が何をするのかなんてことはよくよく知っていますわ」
実津瀬は稽古場の鍵を宮廷の門番に渡さなくてはいけないため、門へと歩き出すと雪も一歩後ろをついて来た。
「あなたもこちらに?」
「途中までは同じ方向ですわ」
「夜も更けていくというのに、まだ仕事が?」
「ええ、今夜は宿直ですわ。寒いから火鉢の前から離れられませんわね」
そう言って、雪は両方の手の平を口の前に持って来て温かい息を吹きかけた。
実津瀬もさっきまで舞うことに集中して、額に汗を浮き上がらせていたのだが、だいぶ体が冷えてきた。
実津瀬は目の前に落ちるものが見えて空を見上げて、自然と右手が開いた。
「……雪……」
「はい?」
雪は呼ばれたと思って返事をした。
「あ!いや、あなたの名前ではなく、空からほら、白いものが……雪が降ってきました」
実津瀬は手のひらに載っては消えていく降りたての雪を見せようとした。
「まあ、紛らわしい名前ですわね。とんだ勘違い。本当!雪が降ってきましたわね。……寒いですから、早く帰って体を温めてください。風邪でも召して、新年の舞が舞えなくなってはいけませんわ。……私、こっそりと拝見できそうなので、とても楽しみにしていますのよ」
雪はにっこりと笑って。
「ここでお別れですわ。お会いできてうれしゅうございました」
あっさりと背中を向けて庭の中に入って行った。
実津瀬はその背中をもじっと見つめて、宮廷のどこの女官だろうかと、思った。
実津瀬に強烈な印象を植え付けて、興味を引かれているとさっと背中を向けて逃げていくような気がして、心の中に引っかかりを残されたままだ。
実津瀬は門番に鍵を返すと家路を急いだ。西の山に隠れた日の残りがまだ道を照らしているから、灯を持たなくてもよかった。
邸に帰ると、見計らったように双子の妹の連がやってきた。
「やっと帰って来た。舞の練習をしていたの?」
「ん?そうそう、練習していた」
「本当に、いやになっちゃうくらい真面目ね。お腹空いたでしょう?食事を一緒に食べましょうよ」
蓮は侍女に言って二人分の夕餉の膳を持って来てもらった。
双子だから、母のお腹の中にいた時からずっと一緒だ。お腹の中から出てきても、二人でよく遊びいろんなことを話した。そして、もう大人になるというのに二人で食事をしながらこんなことがあった、あんなことがあったと話をする仲である。
「なんだか嫌な予感がするの?」
蓮は手に持っていた椀を膳に戻すと箸も置いて、唐突に言った。
「……ん?何?」
実津瀬は好物の焼き魚のほぐした身を口の中に運び終わってから蓮の方を向いた。
「今日、本家から叔父様が来ていたみたい」
「蔦高叔父様が?うちに来たくらいでなぜ嫌な予感がするの?」
「曜が聞いてきたところによると」
「何?曜が盗み聞きでもしたのかい?」
「お客様のお世話のお手伝いをしていたら、几帳の向こうからお父さまと話している声が聞こえたというのよ」
「……本当かい……怪しいものだな」
曜というのは主に蓮の世話をしている二人より少し年上の侍女のことである。
実津瀬は噂好きな妹や年の近い侍女の様子に鼻白んだが、蓮はお構いなしに続けて話す。
「それでね、曜が言うには、有馬王子、という言葉が聞こえたというのよ。有馬王子よ!」
「……有馬王子がどうだというの?」
実津瀬は全く蓮が何を言いたいのかわからず、首を傾げて粥を匙で掬って口の中に入れた。
有馬王子は実津瀬、蓮の一つ年下の先代大王の御子である。母君は岩城家出身で、双子の両親とも親しいので、幼い時に数度後宮に行って有馬王子と一緒に遊んだ記憶がある。
「私たちは来年十六よ。王子は十五歳。もう、結婚相手を探す時期よ」
そう言われても実津瀬はぴんと来なくて、空いている腹に粥を入れるのに忙しい。そのような実津瀬に堪えかねて、蓮は小さな声で叫んだ。
「私がお妃候補になるかもしれない!」
実津瀬はやっと匙を口に運ぶ手を止めて、蓮を見た。
「……冗談はやめろよ。蓮が次期大王のお妃なんて!」
実津瀬は口に入れた粥を噴き出しそうになるのを我慢した。
そんな実津瀬の様子に蓮は頬を膨らませて横目で見ている。
「でも、伊緒理の妹もお妃候補に推薦されているみたい。そうなら、岩城家から出さないわけはないもの」
実津瀬は頷いて聞いているが、岩城家には本家の蔦高叔父のところにも娘もいて、その容姿は蓮よりも優れていると言わざるを得ない。それを差し置いて蓮が推薦されるなど冷静に考えたらあり得るわけがないのだ。
「それが、いやな予感なの?本当のことなら、栄誉なことじゃないの」
「……だけど、私……王子のところには行けないわ」
そんなことになるわけはないと、実津瀬は思っているが、真剣な顔をして有馬王子のところに輿入れできないという蓮に、若い女の夢のような煩いのようで微笑ましく思うのだった。
ぽうっとした顔で頬に手を添えて天井を見ている。
蓮の考えていることはわかっている。
伊緒理の妻になるから、有馬王子のところには行けないというのだ。
伊緒理は実津瀬たちの母である礼を医術の師として尊敬していて、十の頃から薬草について教わっていた。また、束蕗原の去の邸に滞在して叔母の去からも実践的な医術を見聞きしている。束蕗原で、伊緒理は師である礼について来ていた五つ年下の実津瀬と蓮と出会った。その時から、良き遊び相手になってくれた。しかし、忍耐強くいつも優しく面倒を見てくれる兄のような人が蓮にとってはいつしか思い人になったのだ。それのことを、そばにいる実津瀬はつぶさに見て知っている。蓮は素直な子で、気持ちが言葉や体に現れてしまうから隠そうにも隠しようがない。だから、親や下の兄弟姉妹たちも口に出して言わないが蓮の伊緒理への気持ちは知っていることだ。
もしかしたら気づいていないのは当の伊緒理だけかもしれない。
お妃として輿入れが決まってしまったら、それに従わざるを得なくなると真剣に悩んでいて、そのことを聞いて欲しくてここに来たらしい。
実津瀬は言った。
「心配いらないよ。蓮よりも、蔦高叔父様のところの藍は抜きんでて可愛らしいし、私たちより二つ、いや三つ年下で、有馬王子とも釣り合っている。もし、岩城からお妃を出すとなったら、藍を推薦するだろう。私も蓮と藍なら、藍を推すからね」
この会話を喜ぶものだろうか、と思ったが、蓮は頷いて心配の量が少し減ったとほっとした顔をしている。
「そうね、藍の方が有馬王子にお似合いね」
と言って、急に膳の上から粥の椀を取り上げて匙で掬って食べ始めた。
まったく、女人とは不思議なものだと思った。自分は他の女人に劣ると言われているのに、それでほっとしている。そんなものなのだろうか。
先ほど稽古場からの帰り道で会った雪という女人も、自分の名を自虐的に言ったりしていたな……。
実津瀬の舞が好きだと言って、新年の催しでは見ることができるから楽しみだと言ってくれた。
そんな風に自分の舞を楽しみにしてくれている人がいるのだと思うと、遅くまで練習に精を出しているのも報われるというものだと実津瀬残りの粥を口に入れながら思った。
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