第8章  1945年 マイナス18 - 始まりの18年前 〜 3 岩倉友一

 3 岩倉友一

 



 岩倉友一。この青年と出会っていなければ、確実に今の智子はなかったろう。

 特別高等警察――いわゆる特高に捕まっていたか、この時代の誰かによって、半殺しの目に遭っていたかもしれない。

 あれから智子は東京に戻って、世田谷から神奈川に入ってすぐのところにアパートを借りた。

 当分の生活は封筒の金で心配ない。ところがろくに食べるものが手に入らないのだ。桐島家がいかに特別だったかを、そうなって智子は心の底から思い知った。

 そしてあと二ヶ月とちょっとで、広島と長崎にあの原子爆弾が落とされ、その後の五年で、三十五万近い人々が死んでしまうことになる。

 学校で、その凄惨さについては嫌というほど学んだが、爆弾を落とした国への非難の声はまるでなしだ。すべては日本が圧倒的に悪く、戦争を終わらせるために落とした爆弾なんだ……と、教師から教わった記憶が確かにあった。

 どうして? どんな理由で? そんな記憶が自分にあるのか……?

 事情は一切わからないが、記憶自体がデタラメだとはどうしたって思えない。東京大空襲だって知っていたし、終戦の日付も頭の中にしっかりあった。

 ――なんとかしなきゃ!

 もちろん原爆投下を防ぐなんて、智子の力だけでできるはずがない。

 だからその前に、日本が自ら降伏してしまえばいい。智子は本気でそう願って、それからあちこちで原子爆弾について触れ回るのだ。

 広島と長崎に悪魔のような爆弾が落とされ、何十万っていう一般市民が殺されてしまう。だからその前に戦争なんてやめるべきと、街ゆく人に必死になって訴え続けた。

 ところが誰一人として信用しない。それどころか、「非国民!」だと怒鳴られるならまだいい方で、時には何人もの男たちに取り囲まれて小突かれた。

 そしてある日、彼女の前に二人の特高が現れる。いよいよ万事休すとなった時、そこを救ってくれたのが岩倉友一という青年だった。彼は以前から智子の活動を知っていて、その日も偶然見かけて彼女を尾けていたらしい。

「今後は、もうあんなことはやめた方がいいね。それから、住んでいるアパートにも当分は帰らない方がいいと思う。ここはボロ屋だけど、空いている部屋はいくつもあるし、家賃なんかいらないから、好きなだけいたらいいさ。それから、もしアパートに、何か大事なものが置いてあるなら、俺が行って、取ってきてあげますよ」

 岩倉友一はそう言ってくれたが、金は肌身離さず持っていたし、アパートに大事なものなどありはしない。だからその日から岩倉の家に身を寄せ、それ以降、戦争のことや原爆について一切口にしなかった。

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